@games日記(復刻版)    2014 October        トップへ

01 侘び寂び (4353回) 知性と教養 (4354回) Windows10 発表 (4355回)
04 電動車椅子の進化 (4356回) 漱石『三四郎』連載始まる (4357回) 俳句大学句会 (4358回)
07 《昭和九年海肅襲来地点の碑》 (4359回) 「秋深し式部の色と空の蒼」 (4360回) 青色LEDがノーベル賞 (4361回)
10 3年ぶりの皆既月食 (4362回) 《秋の浜どんちっち賑わう浜田港》 (4363回) ノーベル平和賞 (4364回)
13 古本市 (4365回) 妖精は高きを翔ばずひよんの笛 (4366回) 大型台風19号 (4367回)
16 「世界俳句大学」 (4368回) 映画「 蜩の記」 (4369回) 深大寺 (4370回)
19 神代植物公園 (4371回) 版画展 (4372回) 《悪ガキが黄帽子の児をちちまわす》 (4373回)
22 「句は17音にのみ託する」 (4374回) 難解な言葉 (4375回) バラの盆栽 (4376回)
25 北条氏照まつり (4377回) TCC還暦古希喜寿コンペ (4378回) 旧情処OBコンペ (4379回)
28 漱石と子規 (4380回) 【槐(えんじゅ)】 (4381回) 八王子城跡・廿里古戦場 (4382回)
31 駒木野散歩 (4383回)


10/31 駒木野散歩 (4383回)

小仏関跡へゆく途中が駒木野。
家から駅へ向かい、廿里町の辺りから南浅川のほとりに出て歩くと街中とは思えない静けさに出会える。
川には小鳥もやってきている。
一度甲州街道へ出て、交差点で右に折れる。
ちょっと行ったところが駒木野庭園。昔(明治)にあった病院の和風の建物と庭が庭園として解放されている。
広くはないが、落ち着いた雰囲気だ。
池のほとりの満天星が見事に紅葉し、池の錦鯉とマッチしていた。

10/30 八王子城跡・廿里古戦場 (4382回)

【八王子城跡】
小田原に本拠をおいた後北条氏の三代目、氏康の三男、北条氏照(?から1590)が築いた山城です。
築城の時期ははっきりしませんが、天正年間に築城が開始され、
氏照が滝山城から移ったのは天正12年(1584)から天正15年(1587)の間とする説が有力です。
天正18年(1590)6月23日、豊臣秀吉の関東制圧の一環で、前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城しました。
この、八王子城落城が決め手となって籠城を続けていた小田原城は開城、北条氏は滅亡しました。
氏照はこの時、小田原に籠城中で、開城後、兄の氏政とともに城下で切腹しました。

 八王子城は、関東屈指の山城です。氏照が構想していた城郭は壮大で、
落城時はまだ未完成の状態であったと考えられています。
 城は大まかに、城下町に当たる「根小屋地区」、城主氏照の館のあった「御主殿跡」などの「居館地区」、
戦闘時に要塞となる「要害地区」に分かれています。
 この城が築かれた時代は、それまでの戦闘重視の山城から、近世的な天守閣を持つ平山城、平城への転換期であり、
比較的なだらかな丘陵を利用して構築された滝山城から、より急峻な八王子城に移ると言うことは、時代を逆行する面もありました。
しかし、安土城をはじめ関西の城で取り入れられるようになり、
後に近世城郭の一つの特徴ともなった石垣を取り入れているところに、 古い時代の山城にはない、八王子城の特徴があります。

10/29 【槐(えんじゅ)】 (4381回)

   《高空にジャックと豆の木槐の実》

【槐(えんじゅ)】 豆科 街路樹にもなる 花が終わると数珠状の豆の実をつける。
この木は幹が杉などのようにすっきりとは伸びないようだ。(2枚の写真参照)

           

同じ仲間に次がある。これらは高さが20mの大木になる。浅川土手の木はどちらかだろう。
【針槐 (はりえんじゅ)】 豆科 とげをもつことから「針槐」になった。・別名「ニセアカシア」。
【犬槐 (いぬえんじゅ)】 豆科 ・秋になると、 豆形の実ができる。

「ジャックと豆の木」(イギリス童話)は子供の頃に読み、豆の木が天まで伸びるのが不思議だったが、 この槐なら納得がいく。

槐の花は(夏)の季語(角川歳時記)だが、実とすれば秋の季語に準ずるはずだ。

10/28 漱石と子規 (4380回)

新聞の『三四郎』(復刻版)にこんな文章があった。(大学で講義を聞いている場面)
『三四郎が覗くや否や隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。画は旨く出来ているが傍らに
久方の雲井の空の子規(ホトトギス)」
と書いてあるのは、何の事だか判じかねた』

漱石と子規が最初に出会った時のことのようだ。
この句から「子規」という俳号が生まれたのだろうか?

10/27 旧情処OBコンペ (4379回)

小池会が解散し新しくスタート(大厚木桜コース)。(10/21)
13名参加。高山、辻、小林一さんらも参加。

105で8位。
パーティには小池さんも出席され元気にお話を伺った。
次回は来春(4/21)の予定。

10/26 TCC還暦古希喜寿コンペ (4378回)

増田幹事のお陰で盛会、12名の参加。(10/20)
安藤さんも元気に参加。もう80代だ。
そこそこのスコア(104)だったが、8位だった。

「秋高し昂り鎮めティーを待つ」

「鳶一羽ただ悠然とうろこ雲」

「 ピン睨む心は飛んでハワイの海」

10/25 北条氏照まつり (4377回)

北条氏照祭りがあった(10/19) 。(昨年は雨で中止され見られなかった)
氏照公の武者行列には本家小田原からも応援が来たようだ。

太鼓演奏、チアリーディング、ブラスバンドやハンドベルの演奏、民謡踊り、よさこい踊りなどもあり、
出演の皆さん大張り切りだった。

10/24 バラの盆栽 (4376回)

神代植物公園でバラの盆栽展を見た。
バラを盆栽に仕立てるのは珍しい。いろいろなテーマ・名前が付いているのも面白かった。

村の春、赤とんぼ、茶摘み風景、奇跡の一本松、剣客商売、白雪姫など。
よく見ると、小さなバラなのに幹は古木の趣だ。かなり長い期間育てないとこうはならない。
根気のいる趣味だと思った。

10/23 難解な言葉 (4375回)

先日FBで、「妖精は高きを翔ばずひよんの笛」 中島 雅幸氏の句を見た。
私には「ひょんの笛」が何のことか分からなかった。

調べてみると歳時記にもあり、広辞苑でも「柞(いすのき)の葉に虫が穴を開け、吹くと笛のように鳴る」と解説があった。
だが、俳人でもこの季語を知らない人もおられるだろうし、一般の人で知っている人はごく少ないだろうと思った。

俳句を読んでいるとこのような聞きなれない/難解な言葉によく出会う。
歳時記の端っこにあったり、歴史古語/方言に類する言葉だ。
これらの言葉は、一面では美しい日本語として継承する意味が有ることは事実だ。
問題は、読者・鑑賞者が知らないので、素直に句の鑑賞に入れず、まず歳時記/辞書/ネットなどで調べる必要があること。
つまり『句は17音だけで独立する』とは言えないことだ。

作者の気持ちを忖度すると、
@ 難しい言葉だが、歳時記にあり後世に残す意義は大きい。(大義名分、使命感)
A 同じ俳仲間であれば知っていて当然、そうでないなら勉強しなさい。  (俳句仲間以外は相手にしない)(上から目線)
B あまり使われない言葉だから、新味を出せて句も目立つだろう。(鼻が高い)

夏井いつき氏が著書で『古いものも新しいものもごちゃまぜに出てくるオモチャ箱みたいなところが、歳時記の面白さなのになあ』 と書いている。私も歳時記の古い言葉を否定する気はない。
ただ、句を他人に見せる目的は第1に、「読者と共感する」ことだと思うので、難しい言葉があるならそれを読者に分かってもらえる何らかの工夫があってしかるべきだと思っている。
鑑賞の前に難解な言葉が立ちはだかるようでは、せっかくの句が泣くというものだ。
難語見つけ悦に入ってる生半熟》 にはなりたくない。

生半熟」:A未熟なさま。尾崎紅葉、紫「何に成らうと、生半熟なことぢゃ行きませんねえ」

10/22 「句は17音にのみ託する」 (4374回)

◆ 「句は17音にのみ託する」と言われる。
だが作者の発見や感動を句に詠むとき、17音ではどうしても足りないという事態が起きる場合がある。
そこで俳句では、作者の伝えたいことを敢えて省略し、読者の想像に任せるという手法が取られている。

自分が感動した気持ちをストレートに言葉にするよりも、美しい、嬉しい、悲しいというように直接的には言わず、
見た情景を事実として表し読者に感じ取ってもらう方を選ぶ。(これは短歌でもよく言われる)。

先日、《落果せし無患子の珠瑞々し》の句をアップしたが、この句の「瑞々し」という私の感動・感想を直接言うよりも、
《無患子の珠ぽろぽろと深大寺》+(無患子の実の写真)と推敲し、
読者に想像する余地を残す方が好もしいと永田氏より教えてもらった。
省略で曖昧なところがあっても、読者の想像も大切にし共感するのが俳の真髄という考え方だろう。
(ムクロジの漢字表記・無患子はちょっと難しいがここでは議論しない。)

さて、昨日、《悪ガキが黄帽子の児をちちまわす》(実験句)をアップして皆さんのご意見を聞いてみた。 (コメント頂いた方、有難うございました)
「悪ガキ」「黄帽子の児(新一年生)」などは訳無く頭に入るが「ちちまわす」の意味が解らない人が多かったと思う。
柴田 磐夫氏はネットから「喧嘩で相手をやっつける、または叩く」と調べて頂いた。
「ちちまわす」が分かれば、ああそういう意味の句だったのかと納得できる。
私自身が今日のような写真を添えたり、後書きで意味を解説すれば、(句の善し悪しは別として)難なく分かってもらえるはずだ。
つまり『「ちちまわす」のような一般的でない(/方言)言葉を使うと、「句は17音だけで独立する」ということは出来ない』ということだ。
ではこのような問題(「ちちまわす」という面白い方言を知ったという発見)をどう考えるか?
@ 一般に知られていない言葉だから、この句のようなテーマは避けて句は諦める。(君子危うきに近寄らず)
A 前書き/後書き/写真添付などで分かるようにして句は活かす。(読者との共感が大切)
B 《大分でこづきまわすはちちまわす》などと川柳にする。( 々 々 )

さて、皆さんならどうされますか?
(続く)

10/21 《悪ガキが黄帽子の児をちちまわす》 (4373回)

《悪ガキが黄帽子の児をちちまわす》  (実験句) 10/18
ノーヒントです。ご自由に鑑賞、批評をお願いします。

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永田 満徳 「ちちまわす」が分かりませんがね
北野 和良 永田さん、おそらく90%以上の方はそう言われると思います。ただ、私のような初心者には難しい季語や歴史的古語はこれと同じです。
柴田 磐夫 あはは、これ実験句ですか。ひょっとすると、私のことが詠まれているのでは。(^.^)
ちちまわす、分かりましたよ。父回す、乳回すではいですよね。
永田 満徳 で、意味は?
柴田 磐夫 奥豊後の言葉 ちちまわす
[意]喧嘩で相手をやっつける、または叩く[例]こんやたぁ、ちちまわすぞ(このやろう、叩くぞ。やっつけるぞ)
北島 和弘 方言でぶん殴るぞです。
永田 満徳 イジメかな?
辻村 麻乃 そういう意味だったんですね
イジメとなると‥また難しいですね(涙)
永田 満徳 イジメはチョと素材的に難ですね。きっと違う意味ですよ。実験句ですからね。
柴田 磐夫 作者の意は“致知る”かもしれませんね。 実験句ですからね。(^.^)
辻村 麻乃 実験句ですものね(^-^)/
玉手 のり子 なるほど〜 こちらなら「しばきまわす」「しばきたおす」ってところでしょうか^^; そこまでキツくないのかな・・・
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【致知る】:@朱子学で,事物の道理をきわめ知ること。A陽明学で,本然の良知を明らかにして完全なものとすること。

10/20 版画展 (4372回)

版画展を見に上野に行った。 本山さんの作品は、姫路の灘祭り風景。

いろいろな作風の版画があったが、正直よくわからない。
往復の電車の中から、即吟の句をアップした。

10/19 神代植物公園 (4371回)

16日、甚大植物公園にリベンジ。 今日も良く晴れて沢山の見物人が来ていた。
温室などが改修中とかで前の芝生も閉鎖されていた。 バラは咲いていたが、春ほどは勢いがない。

みんなの広場の脇には十月桜、冬桜、子福桜が咲いていた。
錦木の赤い実、栴檀の青い実、無患子の緑の実なども。

無患子は反対に読むと、子供の患いが無い、ということで子育てのお守りになるらしい。
バラの盆栽も珍しかった。

10/18 深大寺 (4370回)

台風明けの14日、風は残っているが快晴となったので甚大植物公園へ出かけた。
コンビニで弁当を買い門前まで着いたが、何と連休明けの休業日!

帰るしかないが、ふと思いついて隣の深大寺にお参りすることにした。
前に何度か来たことがあり様子は分かっていた。
境内に歌碑、句碑があるのでじっくりと観察。 子規、草田男の句碑を改めて見た。

門前の鬼太郎茶屋は休みだった。

10/17 映画「 蜩の記」 (4369回)

映画「 蜩の記」を見た。いい話だった。藤沢周平の『蝉時雨』に似た雰囲気。
話の中で、『桃栗三年、柿八年、柚は九年で花が咲く』 という言葉が出てきた。前半はよく知っているが、柚は九年で・・・・は初めて聞いた言葉だ。

作者の葉室凛は与謝蕪村を描いた「 恋しぐれ」を読んだ。

10/16 「世界俳句大学」 (4368回)

この度、「世界俳句大学」を起ち上げる次第となり、 皆様のご尽力が最も重要となります。
森村誠一氏、以下幹部の理念を申し上げます。
◆自分自身の生き方に真摯に取り組む
◆感受性を豊かにする
◆日本の言葉の美しさと機微を知ること
◆人格、知性、品性を身につける
◆視野を広げること
◆何事にも好奇心を持つこと
◆自分自身、他人に絶えず感謝すること
◆あるがままの自分でいる、自然体であること
◆生かされている今に感謝すること

俳句は俳句の技術を上達させるためだけにするものではないのです。 技術や技巧では人は何も感動しないと思います。
たった17文字の中に自分の人生を瞬間に詰め込む作業です。 それは自己から宇宙へとの真理と繋がってゆきます。
全ての芸術、スポーツ、ビジネスがそうであるように、行き着く場所は同じなのです。手段が違うだけです。

今の瞬間が全てであります。 1秒前のことは、もはや過去です。
どんなに苦しくても笑って乗り越えて、次世代への継続を大切にする日本文化を創ってゆく覚悟でいます。
それは世界に誇る日本の文芸、俳句−HAIKUの海外への、発信でもあります。
俳句にこだわらず、短歌、川柳、詩及び詩歌に対する論評などを創作している方々にも賛同いただければ、このうえなく幸せです。
すべてを総括する「世界俳句大学」でありたい所存です。   
最高顧問:森村誠一   顧問:鎌田敏夫   代表:大森健司  副代表:大森理恵  本部長:五島高資

2014年10月吉日   世界俳句大学代表 大森健司

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「俳句大学」は閉鎖となり、代わって「世界俳句大学」が発足した。 だがこれにはいろいろと裏に複雑な問題があり、先行きは不透明だ。

問題とは、旧大学の五島、永田さんと新代表大森親子との確執のようだ。
世界俳句大学への参加はしばらく様子見としようと思っている。

10/15 大型台風19号 (4367回)

先週に続き大型台風19号がやって来た。
18号は関東では海岸沿いに通ったので、神奈川や千葉、茨城などが被害を受けたが、
19号は関東の真上を通り、10/13夜中に早いスピードで去って行き大きな被害は出なかった。
翌14日は朝から風は残ったが快晴となった。

10/14 妖精は高きを翔ばずひよんの笛 (4366回)

「妖精は高きを翔ばずひよんの笛」 中島 雅幸氏の句

・「ひょん」は20mにもなる大木、柞(いすのき)(暖地に自生するマンサク科の常緑高木)のことで実の穴を吹くと笛のように鳴るーー恥ずかしばならこの年になるまで知りませんでした。皆さんが良くご存知で何の苦労もなく読まれるのにほとほと感心しました。勉強になりました。有難山の椎の木山椒。
・「ひょんの実は大きくなり、成熟すると表面が硬く、内部が空洞になるので、出入り口の穴に唇を当てて吹くと笛として使える」Wikipediaとありますが、本当は葉っぱということでしょうか?
【渡部 稲穂】 そうです。葉っぱです。葉っぱの内壁が堅くなり木の実のようになるからです。
【北野和良】歳時記(ホ、角川)で「ひょんの実」(秋)を確認しました。
私のような門外漢からすると、こういった日常/普通の人には殆ど意味が分からない言葉なのに、歳時記には出ているからと句に組み込み、さあ鑑賞しろと言われるところにハードルの高さを感じます。歳時記の隅々までをよく知らなければ一人前とは言えないのだよーーまるでラテン語の勉強のようなものです。
昨日、「どんちっち」(実験句)でこんな事を書きました。
『何か聞きなれない言葉だなと思い、辞書(/ネット)を調べると江戸時代以前の文献を引用して言葉の解説がありようやく句の意味が理解できる。このような句を、「美しい日本語を継承しようとしている」と見るか、「知識をひけらかす自己満足」と受け取るか、難しいところだ。五島先生の講義【詩性を高めて、読者の共感を得る情景にまとめること(「情」=ふたり心)】や稲畑汀子氏の 【平明に叙する】を思い浮かべると、「分からなければ辞書を引き、もっと教養を高めなさい」という姿勢にもほどほどの頃合があって良いのではないかと思っている。』
宝月を吹くのと同様に、ひょんの実(葉っぱ)を吹くのは日本の美しい伝統だから、句に詠い(都会に住む)子供たちに残していこうということなのでしょうか?
所感川柳です。《歳時記を丸呑みにしてひょんの笛》《俳人は見たこともないひょんを吹き》
【中島 雅幸】 うー、耳が痛い。これぞ鍛錬会ですね、歳時記や二十四節気、七十二気候は、基本農事を円滑に進めるための先人の自然観察や知恵がうみだしたものだと聞いています。
都会人であるほとんどの人間はその言葉の意味は知っていても、体感として実生活の中でそれを咀嚼している訳ではありません。 吟行でベテラン俳人によく花の名前を聞いて、なんでも知ってるなあーと感心することが多々ありますが、その知識と「俳」を生きることとはまた違うと思うし、千差万別、俳句に対する思いはみなそれぞれで、それぞれがじぶんの句姿を探している、ということなのだと私は思っています。
【北野和良】>中島さん。誤解の無いように申し添えますが、私も最初に中島さんの句はユニークな発想の句だと感じました。ただ「ひょんの笛」が何のことか分からなかった。意味も分からないのに褒めるというのは私の性分に合わないので、コメントを読ませてもらう内に上のような談義となりました。コメントを読み、歳時記を調べて意味はすっきりしましたが、それだけの時間と手間暇を掛けないと鑑賞すらできない、「だから(歳時記も知らない)素人は困るんだよね」と言われているようで、凹んでしまいます。

10/13 古本市 (4365回)

ユーロードで古本市が開かれていたので見に行った。
置かれていた本はいろいろ。古いもの(当然?)、汚れているものもたくさんあった。
安い本は3冊100円。少し小綺麗な文庫本は400円というのもあった。
白川静氏の辞書は定価28000円⇒8000円だった。

昭和の時代の雑誌、映画誌、太陽などの写真・絵画誌もとても懐かしかったが買うのは躊躇した。

《古書市の風の匂いや秋惜しむ》
《秋風に昭和漂う古書の市》
推敲句 《秋風に昭和耀(カガヨ)う古書の市》    耀(カガヨ):見え隠れする。 「すきかげに,ただ一人−・ひて/枕草子 」
《戦争を省みる古書秋の暮》


10/12 ノーベル平和賞 (4364回)

ノーベル平和賞が、パキスタンのマララ・ユスフザイさん(17歳)と
インドの活動家カイラシュ・サティヤルティさん(60歳)に贈られた。
「すべての子供に教育を」という活動が評価されたものだ。

日本の「憲法9条」も候補に上がっていたようだが選ばれなかった。

10/11 《秋の浜どんちっち賑わう浜田港》 (4363回)

《秋の浜どんちっち賑わう浜田港》 (実験句)

「どんちっち三魚(-さんぎょ)」(アジ、ノドクロ、カレイ)は、島根県浜田市産物ブランド化戦略会議事務局が定めたブランド名のこと。ここでは獲れた魚を厳選して品質基準(脂肪分量など)を満たした魚だけを「どんちっち」と認定している。
大分県の「関サバ」や「城下カレイ」も有名だが、品質基準があるとは聞いていない。
「どんちっち」とは、地元の伝統芸能「石見神楽」の囃子(はやし)(太鼓と鉦)を表現する幼児言葉のことである。

TV番組で「どんちっち」を知り、この言葉を入れて句を作りたいと思ったが、どんちっちは辞書にもなく方言のようなもの。
地元の人だけは分かるが、それ以外の人には意味不明。
上に書いた添え書きがあれば読者にも意味が十分に伝わると思った。

方言と似たものに「古語」「故事」などがある。何か聞きなれない言葉だなと思い、辞書(/ネット)を調べると江戸時代以前の文献を引用して言葉の解説がありようやく句の意味が理解できる。
このような句を、「美しい日本語を継承しようとしている」と見るか、「知識をひけらかす自己満足」と受け取るか、難しいところだ。

昨日書いた五島先生の講義【詩性を高めて、読者の共感を得る情景にまとめること(「情」=ふたり心)】や稲畑汀子氏の 【平明に叙する】を思い浮かべると、「分からなければ辞書を引き、もっと教養を高めなさい」という姿勢にもほどほどの頃合があって良いのではないかと思っている。

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嫦娥燿変一幕一場猿酒(じょうがようへんいちまくいちばましらざけ) (中島 雅幸)

【清水 憲一】 嫦娥燿変など難しい表現ですが、結局月蝕のことを言われたのですね。嫦娥は月の異称ですが、燿変は曜変天目茶碗の曜変ですが、月の月蝕の様子を喩えられたものですが、ここの辺りが凡庸な私では分かり難いですね。

10/10 3年ぶりの皆既月食 (4362回)

10/08の夜三年ぶりの皆既月食pm19:24-20:24が見られた。
皆既月食では、月が全く見えなくなるわけではなく、赤みがかった色に見えた。
もっとも八王子は生憎曇で、見られなかったが、都心や国分寺辺りでも見られたようだ。
Facebookでも全国から写真付きで見たという記事がたくさんあった。

つぎはに見られるのは、来年の4月らしい。

10/09 青色LEDがノーベル賞 (4361回)

今年のノーベル物理学賞を、赤城勇(85名城大教授)、天野浩(654名大教授)、中村修二(60サンタバーバラ校教授) が受賞した。賞金は約一億二千万円。
20世紀のエジソンによる白熱電球に対する21世紀の大発明という位置づけだ。
中村教授は元日亜化学でLEDの製法について画期的な仕事を行い、発明報酬として200億円を要求して裁判となり話題にもなった。

10/08 「秋深し式部の色と空の蒼」 (4360回)

◆ 「秋深し式部の色と空の蒼」について
この句を俳句大学投句欄にアップしたら、たくさんの人からコメントをもらった。

【今村 征一】 秋が深まってきましたね。
【渡部 稲穂 】『式部』も季語ですから、『秋深』と季語を二つつづけるなら、
『秋深き式部の色と空の蒼』↓『色』はそのまま『青』として『秋深き式部の青と空の蒼』とされてはいかがですか?
【北野 和良】 >渡部さん、ご指摘有難うございます。「しきぶ(の実)」はホだけの季語のようですね。角川、合本には無かったので式部=季語と思っていませんでした。
【渡部 稲穂】 大日本歳時記では、傍題として、式部も季語になってます。
まあ、歳時記は、作者の意図が反映されますから、結構、載ってたり載ってなかったりしますよね。
【北野 和良】 >渡部さん。わざわざお調べ頂き有難うございます。私の電子辞書には、ホ、角川、合本の3種類しかなく、角川の季語数が一番多いと認識していましたので、角川には無くてもホにはあるというのは盲点でした。この上大日本まで机上に置くのは荷が重いので諦めたいと思います。
【渡部 稲穂】 あれは、重いですよね〜。 大日本歳時記には、六千あまりの季語(傍題含む)がありますが、たまぁに大日本歳時記にないものもありますから、訳わからなくなることも時々ありますがね。
【北野 和良】 渡部さん、「今覚え三歩歩いてもう忘れ」の近頃ですから、(今から)数千もある季語を覚えて記憶から取り出して駆使するというのはどう考えても無理な気がしてなりません。
【今村 征一】 「式部」ならともかく「式部の色」であるから重なっていませんよ。そもそも季重なりは駄目だと誰が決めたのでしょうね。
【清水 憲一】 確かに実紫・紫式部・式部みな同じで秋の終わりの季語ですね。要は二重季語だと何に重点を置いているのか分かり難いですよね。晩秋か実紫か秋の空どれを読みたいのかばらけます。ここは折角綺麗な実紫のお写真があるわけですからそれに焦点を当ててお読みになれば佳句が生まれると思いますよ。
【今村 征一】 この句は「秋深し」を詠んでいます
【渡部 稲穂】 季語は、覚えるのは難しいですから、突き当たったときに、あ〜そうか。で良いと思います。  あとは、清水さんのおっしゃるとおりかな。
【清水 憲一】 今村さん何も二重季語が絶対駄目と言っているのでなくこの場合恐らく写真からして実紫の愛くるしい色や形についてお詠みになったのだと思いますのでそれに焦点を与えたらもっと句が生きて来るのではと言ったまでのことです。
【渡部 稲穂】 で、私も季語二つについては何もいわなかったんです。
【清水 憲一】 季語(本題)AandBの形式ですか。お写真に翻弄されました。失礼しました。
【北野 和良】 皆さん、ご意見を有難うございます。実は先日の俳句大学句会で《秋涼し式部の色にときめいて》を出しました。自分では、式部=源氏物語の紫式部の着物の色をイメージしていましたが、句会の皆様の鑑賞では式部=紫式部の実、という受け取り方の方が大部分でした。少し作り直したらどうなるかと思い掲題の句になりました。目の前にある紫式部の実と遠くの蒼い空に秋を感じるなぁというつもりでした。そうすると写真が蛇足だったということになりますね。
【渡部 稲穂】 そうではないですよ。実に美しい画像です。
【玉手 のり子】 「式部」だけで季題になりますか?「紫式部の実」「式部の実」「白式部」などはありますが。私は季重なりより、そこの曖昧さが気になりました。「秋涼し・・・」のお句は、紫式部の実より、北野さんのおっしゃる源氏物語の紫式部の着物の色(もしくは紫式部の色香)かと受け取りました。
【今村 征一】 のり子さん 式部の実ですね。有難う御座います。
【渡部 稲穂】 玉手さん、ある程度俳句をしている人、俳歴のある方にとっては、そこは常識の範疇にあると思います。 ただ、良いぢゃんでは、俳句大学の意義に反します。
私見を含めてですが、紫式部という季語の本意を考察すると、当然、源氏物語の紫式部もその情報の範疇になります。 ただ、厳密にそこを追求しませんけど、季語の本意にそっている情報は、季語に含めて考えるのが、想定の範囲かなと思います。 でも、経験値の違いもありますし、ご本人の目指す方向性が知り合いでない限りわかりませんので、探り探り確認していますけど。
【玉手 のり子】 スミマセン。余計な事を言いまして。このお句の場合は「秋深し」が入っていますが、季題として使う場合は「式部」だけでない方が良いと思います。今すぐに佳句が出ませんが、例えば「空の蒼映して深き式部の実」とか、季題を一つに絞ってはいかがでしょうか。上のコメントでも、読み手の焦点が「式部の実」と「秋深し」に分かれていますね。お写真があるので「式部の実」に行きがちですが、一句として見た時、わたしは「秋深し」だと思いました。
【今村 征一】 のり子さん たまには写真が邪魔をしますね。俳句は写真の無い方がいろいろ想像が出来て良いと思います。
【渡部 稲穂】 私も『秋深し』だと思います
【北野 和良】 皆さま、貴重なご意見を有難うございました。季重なりのこと、焦点は何かということ、いちいちごもっともで句歴のある方々の洞察に感服するばかりです。
勉強させて頂いた事の一つに作者の立場を離れ、読者になって句を読み直し作句の趣旨がすっきりと伝わるかどうかを点検せよという事がありました。その意味でもまだまだ推敲が不十分だったと思い知りました。
ただ投句に対してこのようにご意見を頂くのは初めてで、ひょっとしたらもう少し手直しをすれば入選句だよと励まされたようにも感じています。本当に有難うございました。

10/07 《昭和九年海肅襲来地点の碑》 (4359回)

◆ どなたか教えてください。
昨日の遍路吟・土佐国(その5)にこんな句?を書いた。
  《昭和九年海肅襲来地点の碑》
これは歩いている途中に、道端に立っていた石柱を見て驚いた発見を読みたかったからだ。
(「南海地震」は1946年(昭和21年)に発生した昭和南海地震を指す名称であるが、広義には安政南海地震や宝永地震(東海・東南海地震も連動)など南海道沖を震源域とする歴史地震も含まれ、さらに将来、同震源域で起きると想定される地震も含めて南海地震と総称されるーーWikipedia より)
発見とは、次のようなことだ。
@ 昭和九年
A 津波のことを「海肅」と呼んでいた。
B 海岸からはかなり遠い「地点」まで、津波は「襲来」していた。
C 後世の人のために「石柱」を立てて、津波の恐ろしさ、万一に備えるよう伝えようとした。
碑文を写しただけだが一応五七五には収まったが、季語はない。
A) これは(広義の)俳句といえるのか?
B) @〜Cを洩れなく伝えかつ季語を入れる工夫はあるのか?
ご意見をよろしくお願いします。

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【今村 征一】 先生方はどうおっしゃるだろうか。
【五島 高資】 私は俳句は小説などと違って自己完結しない文芸だと思っています。つまり小説は個別の読者の感想にかかわらずその一般的な価値は認められやすいと思いますが、俳句は読み手の感動があってはじめてその価値が認められる、つまり、詠み手と詠み手との個別な関係性が重視されます。従って、詠み手が俳句だと思って作っても読み手がそうでないと判断すれば読み手にとっては俳句ではなく、しかし、詠み手にとってはあくまで俳句という奇妙な状況が生じ得ます。そして、それらはどちらも間違いではありません。韻文の文芸とはそうした特殊性を持っているのだと考えるしかないと愚考します。
【今村 征一】 五島さんおっしゃる通りですね。
【五島 高資】 今村さん、同じような議論は去来抄にも見えますね。ご理解ありがとうございます。
【斎藤 信義】 俳句も創作、鑑賞も創作である以上それぞれの能力が問われる文芸ではないかと思います。芥川賞と直木賞に違いがあるように、俳句にも質の違いがあって当然であり、プロとアマの格差が求められるのではないでしょうか!文芸に与えする作品(句)と、そうでない作品が存在している以上評価は厳しくなければならないと思う。
【五島 高資】 斎藤さん、たしかにそのような厳しさも大切だと思います。ただ真の評価は百年くらいの時間による淘汰が必要ではないかと考えます。貴重なご意見ありがとうございます。
【Chiau-Shin Ngo】 門外漢で初心者ですが愚見を述べさせていただきます、ただ私の考えは頑固な虚子擁護者からは罵倒されます、ましたがご参考までに。
俳句は瞬間的感動を最短(省ける言葉を全部捨てる、所謂の蛇足的な語彙)な文章で詠んだ韻文です、で北野さまの句は575で律句ですから韻文です。北野さまの掲句は碑文を見て瞬間的に感動なされたのですね(此処まで津波が来たのか、恐ろし怖し、すごい)、ですから小生は北野さまが詠まれたのは俳句であると思います、でも俳句は詠むと読むは人によって違いますゆえ読む人が皆俳句と見なすかは分かりませんが、とくに北野様のように現場にいらっしゃる方のようにはただ句を読んだだけでは感動されない方も少なくはないでしょう。そういう方は当然俳句と見なしません。
掲句には<海肅>とありますが碑文では<海嘯>となっています、<海嘯>は華語では津波のことです、たぶん日本の古語ではないでしょうか?ネットを探したところニコニコ大百科の<津波>の項に(http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B4%A5%E6%B3%A2) <<古くは「海立」「津浪」「海嘯」「震汐」などと呼ばれたりもしていたが、次第に「つなみ」と統一されていった。また、地方によっては津波を「よだ」「あびき」「すず波」などと呼ぶ事も。古文書などでは「海が傾く」などとも表現されている。>>とあります、ご参考までに。無季でも俳句は俳句です、また叱られますが?
津波とは (ツナミとは) [単語記事] - ニコニコ大百科 (有)未来検索ブラジルが運営するあらゆる言葉についての記... dic.nicovideo.jp
【今村 征一】 色々な意見を参考にさせて頂きました。それぞれの方のご意見を尊重します。私はホトトギスですから花鳥諷詠の道を信じてやっていきます。ご意見有難う御座いました。
【玉手 のり子】 俳句かどうか以前に、「海肅」が津波と言うのが、どれだけの人に伝わるでしょうか?見たことを全部言わなくても、発見や思いを詠めば良いのではと思いました。頑固な虚子擁護者というほど勉強はしていませんが、季題を入れることで伝わる事もあるかと思います。「冷まじや土佐に昭和の津波の碑 のりp」 津波の事を「海肅」と呼んでいたことをお詠みになりたいならばもう一句「海肅と呼ばれし津波秋寒し のりp」「そぞろ寒津波ここまで至りしと のりp」「先人の教え露けき津波の碑 のりp」「身に入むや昭和九年の津波の碑 のりp」・・・いっぱい詠んじゃえばどうでしょう(^-^) まあ、こんなんじゃ感動しないよと言われそうですが(-_-;)  横入り失礼いたしました!
【今村 征一】 のり子さん まだまだ出来そうですね。
【玉手 のり子】 征一さん、数うちゃ当たる!って、なかなか当たりませんが(≧▽≦)

【北野和良】五島先生の『詠み手が俳句だと思って作っても読み手がそうでないと判断すれば読み手にとっては俳句ではなく、しかし、詠み手にとってはあくまで俳句という奇妙な状況が生じ得ます。そして、それらはどちらも間違いではありません。韻文の文芸とはそうした特殊性を持っているのだと考えるしかないと愚考します。』のコメントで、自己満足ではなく読み手の人にも共感してもらえる頑張りが必要だと納得しました。またのり子さんのご指摘で、欲張って何もかもを一句に収めようとした無謀さを反省させられました。たくさんの感動があれば、その一つ一つを分けて句にすればよいー目からウロコです。
なお一つ訂正をしておきます。石碑にあった「海嘯」は津波ではなく、「台風による高波被害」の事でした。四国災害アーカイブスというページを見つけ、担当の方とメールをやり取りして確認できました。

10/06 俳句大学句会 (4358回)

 「切れ」なくば唯実景と名講義

10/04 俳句大学句会があり、句会の前に五島高資氏の『俳句における詩的構造』の講義があった。 要点は、(私が聞き取った限りでは)
@ 俳句は、芭蕉ー子規ー虚子と引き継がれてきたが、
芭蕉は、「ほ(発)句は四季のみならず、恋・旅・名所・離別・等無季の句ありたきもの也」と述べているのに、
虚子が、「俳句には必ず季のものを詠みこみます」と狭めてしまった。
A 新しい俳句の必要条件は、【五七五定型(原則)+「切れ」の構造】
B 「作者の発見・感動した光景」を膨らませ、それに「切れ」の詩的構造=「新しみ」を付け加えて、 読者と分かち合える「情景」とすることで句は完成する。

とても勉強になる講義だった。
句会の参加者は10名、一人3句を提出し、互選の後、鑑賞が行われた。 6点句が4名並んだ。

 県立病院かかしの見つめる一点に   (望月さん)
 鳥形に人散りゆける花野かな     (堺谷さん)
 明王の眉を開きて紅葉かな      (加藤ナさん)
 オルゴールは止まるから好き白桔梗  (宮崎さん)

句回の後、居酒屋で懇親会があり、ここでも句談義でたくさんのことを教えてもらった。

10/05 漱石『三四郎』連載始まる (4357回)

朝日新聞で夏目漱石の復刻版が連載され初め、先日まで『』だったが、 今月からは『三四郎』が始まった。
どちらも若い頃に一度読んだが、詳しい中味はほとんど覚えていない。
『心』は時々読んだが、あまり面白いとは思わなかった。
三四郎は有名な「ストレイシープ」が出てくるはず。じっくりと読んでみようと思っている。

10/04 電動車椅子の進化 (4356回)

高齢化社会に向けて、電動車椅子の進化が始まった。
今までの車は、ジョイスティックで操作する型が多かったが、ハンドル型も名乗りを上げたようだ。

このタイプの車は重心が高いため、路際の段差などで転倒する事故も多いようだ。
ブレーキを強化したり、衝突防止のセンサーを付けるなど安全面を強化するのが課題のようだ。

10/03 Windows10 発表 (4355回)

マイクロソフトから『Windows10』が発表された。
直前の Windows 8 から格段の進化という意味で、一つ飛ばして”10”のネーミングにしたという。
Windows8は使っていないので、どこが良くてどこが不便なのかはよく知らないが、
”10”で人気を回復できるのか、見守りたい。

だいたい、スマホやタブレットの普及で、パソコンの個人使用は激減だと思う。
今は企業、役所などが中心となったので、”10”への進化が果たして歓迎されるのかどうか疑問もある。

私個人としてはしばらくは、様子見だ。

10/02 知性と教養 (4354回)

新聞に、『知性と教養、どっちが大事?』というアンケート結果が出ていた。

おおざっぱな定義として、
【知性】=「物事を考え抜き、判断する力、論理的な能力」
【教養】=「学問や芸術など世界全般についての幅広い知識」

アンケートの結果として
・どっちが大事については?、⇒知性=68% 教養=32%
・言われるのが嫌なのは?、⇒教養がない=47%、知性に欠ける=53%
・友達になりたいの?は、⇒知性的な人=59%、教養豊かな人=41%
・努力して身につきやすいのは?、⇒教養=82%、知性=18%

挙げられた意見としては、
「知性は先天的なもので、教養は後天的なものと考える」。
「知性と教養が一体となり、人格が生まれるが、知性は天性のもの、教養は努力によって何とかなるのでは」
「知性は人の能力の一つ。教養は人間として生きるための術」
「知性は、にじみ出てくるというプラスイメージ、教養は、ひけらかすというマイナスイメージ」
「知性の高いサルはいるが、教養のあるサルはいない」 などなど。

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昨日【侘び寂び】に触れたが、心中に侘び寂びを溢れさせるのは、知性(天性)か教養(後天)のどちらだろうか?

  《季語入れて俳句ですよと猫かぶり》

   《化け猫に柳の尻尾が見え隠れ》

    《読み人は季語だけ認め苦笑い》

10/01 侘び寂び (4353回)

【俳句にわび、さび、もののあわれといった、いわゆる俳味、俳趣が不可欠】 と言われているが、これが実に難しい。

《探してもポッケにはない侘びと寂び》

  《わびさびを探し求めて暮の秋》

    《侘び寂びは売ってませんか?宝の市》

【宝の市】(秋・晩 行事)枡市、住吉の市、取鉢、住吉相撲会(角川俳句大歳時記)



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