@games日記(復刻版)    2014 August        トップへ

01 『詩的思考のめざめ』  (その3) (4293回) 『詩的思考のめざめ』  (その4) (4294回) 『詩的思考のめざめ』  (その5) (4295回)
04 『詩的思考のめざめ』 (その6) (4296回) 『詩的思考のめざめ』 (その7) (4297回) 『詩的思考のめざめ』 (その8) (4298回)
07 『詩的思考のめざめ』 (その9) (4299回) 『詩的思考のめざめ』 (その10) (4300回) 『詩的思考のめざめ』 (その11) (4301回)
10 『詩的思考のめざめ』 (その12) (4302回) 『詩的思考のめざめ』 (その13) (4303回) ブログ日記 4300回 (4304回)
13 八王子まつり (4305回) 無線LAN 強化 (4306回) 桃の皮は剥きますか? (4307回)
16 「俳句と川柳の違い」 (4307回) 水原秋桜子の『俳句の作り方』 (4308回) 恋する川柳 やすみ りえ (4309回)
19 松田わこさんの歌が三席 (4310回) パソコンのCPUファンの清掃 (4311回) 窓用換気扇設置 (4312回)
22 吟行恋句 (4313回) 『現代女流川柳鑑賞事典』 (4314回) 高校野球鑑賞句 (4315回)
25 コーヒー焙煎器 (4316回) 女の一生:日本女流川柳万能版 (4317回) 新しいメガネ (4318回)
28 伊豆にらやまCC (4319回) 紅生姜かき揚げ (4320回) ふきこぼれにくい鍋 片手鍋 (4321回)


08/30 ふきこぼれにくい鍋 片手鍋 (4321回)

TVの料理番組を見ていたら、具合の良さそうな鍋を使っていた。
普通の鍋の縁の部分が高くなっていて、蓋が中下に落ちる構造。
蓋をして煮炊きしていて吹きこぼれそうになっても、縁が高いので防いでくれそうだ。

ネットで探したら「くるめん亭」というメーカーの商品が見つかり、値段も53%引きの3054円(送料無料)。
これはお買い得だと思い早速注文した。

ネットの買い物が本当に便利になった。

08/29 紅生姜かき揚げ (4320回)

伊豆にらやまCCからの帰りに中井PAで休憩、夕食を摂った。
うどん屋さんだ。ぶっかけ+ちくわ天+紅生姜かき揚げ、合計520円也。

讃岐うどんを食べる時、いろいろな天ぷらを乗せるのが好きだ。
紅生姜かき揚げは初めてだったが、生姜の辛味がなかなか良かった。

08/28 伊豆にらやまCC (4319回)

かなめ会の8月例会は伊豆にらやまCCだった。
圏央道高尾山ICから乗ると、東名、新東名(長泉沼津IC)、伊豆縦貫道と高速を乗り継げば楽々とアクセスできた。

生憎パラパラ雨、半袖だと肌寒いほどの天候だったが、傘を差すほどではなかった。
このコースは6月にもプレイしたが、スコアは良くなかった。昇り下りが激しいせいだろうか?
今日はドライバーも不調で苦労した。
パットがどうかと心配していたが案の定ミスが多く41パットもしてしまった。
新しいメガネは、良く見えるのだが、何故か距離感/視野の狭さに問題があるのかもしれない。
パットの時だけメガネを外すというのも試してみたが、効果はなかった。
メガネをしている時に最適化するように脳の調整がされていて、いきなり外すとそのズレを瞬時に修正することが出来ないようだ。

言い訳は別として、スコアも126と今年最悪だった。
先週のTCCも良くなかったから、どう対策すればいいのか?
@メガネに慣れるまで、待つ。
Aゴルフの時だけ古いメガネに戻す。
Bメガネを作り直すーーこれは論外だ。

08/27 新しいメガネ (4318回)

メガネを新調した。
視力はメガネで調整すればまだ左右とも1.2、但し右目が少し弱いらしい。

フレームを流行りの細身にしてみたが、意外なことが分かった。
視野の下側(口側)がフレームに邪魔されて少し見辛い。
階段を降りるとき、頭を下げるようにしないと足を踏み外しそうになる。

先日初めてゴルフで使ってみたら、パットラインが微妙にズレる気がした。
短いパットも微妙に外れる。これは困った。対策を考えないといけない。

フレームは金属製ではなくプラスチックなので軽いのが嬉しい。

08/26 女の一生:日本女流川柳万能版 (4317回)

女の一生:日本女流川柳万能版 仲畑貴志編   毎日新聞社 2009 を読んだ。

【まえがき】(一部省略)
 1991年に毎日新聞紙上を舞台として誕生した『仲畑流万能川柳』は、以来今日まで連綿とつづいています。
約17年間の投句数は、約652万句にもなりました。その中から、女性作家の句のみを選び出し、さらに1000句まで選びに選んだ秀逸のカタマリが、この一冊です。
この『女の一生』は、20世紀末から21世紀初頭の日本という国にかかわって生きる女性の思いを575の短句形式で語っています。
一つ一つの作品を読むと、「なるほど」と得心したり、「そうだそうだ」とうなずくことが多い。多様の中のひとつである他者の表現でありながら、わたしの胸に届くという不思議。
もちろん肯定する意見ばかりではない。「それは、ちょいと違うなあ」という主張だってある。
しかし、意見が違うことを排除するのではなく、その違いを興味深く受け止める態度、もしくは器量が、情報のカオスの中に生きて、ますます多様な価値観に揺さぶられる私たちには必要でしょう。
意見や考え方に勝ち負けは無いのです。ましてや、知識の有無は人間の優劣につながらない。
知らなきゃ聞けばよいのです。知る前は1対ゼロかもしれないけれど、たずねて理解すれば、いきなり1対1の同等になる。
それほどカンタンに変わる序列にこだわることはありません。もし優劣を論じるのなら、得た知識の使い方を見るべきでしょう。
 1000人もの女性の、ものの見方考え方がぎっしり詰まった『女の一生』。ページを開くたびに、なんども美味しい1冊を、どうぞ。

08/25 コーヒー焙煎器 (4316回)

ドラマを見ていたら、コーヒー焙煎器が出て来た。
筒型のガラス容器を横に置き、ハンドルで回し下からアルコールランプで炙る構造に見えた。

ネットで調べると、(家庭用、又は業務用)
@安いもの⇒フライパンに網蓋をつけたような物でガスコンロで使うらしい⇒2000円強から
A中級⇒横置きドラム型で何らかの火力付き⇒2〜3万円ほど
B高級⇒同上、縦置きコーヒーメーカー併用、プロ仕様か?⇒7万円〜10万円以上   だった。

小型のものは一度に200g〜300gほどを焙煎できると見た。
家で好みに焙煎するのも面白いと思ったが、生豆を手に入れるほうが余程面倒だと思い諦めた。

08/24 高校野球鑑賞句 (4315回)

夏の甲子園の試合を見ながら、五七五にまとめることにした。
川柳とも言えないが、ナイスプレイや応援風景などを切り取り17音に表すのは意外と難しい。
しかし、一方では漫然と熱戦を眺めるだけではなく、ポイントになるプレイを見つける楽しみもある。
TV画面の中から、写真を撮るのと似た動作でもある。

解説のアナウンサーの言葉もヒントになる。
いろいろな言葉、語彙を駆使して簡潔に分かり易く伝えようとしている努力がよく分かる。

《投打者の百態を撮る観戦記》

作った句をFacebookに投稿し、 My俳句手帳 に復刻した。

08/23 『現代女流川柳鑑賞事典』 (4314回)

 田口麦彦著  三省堂 2006 を読んだ。
〈エッセー 新しき女流川柳家への期待〉

 これは画期的川柳集といっていいだろう。女流川柳家たちの鬨の声を聞く思いである。
私は古く昭和六十年に、現代川柳の紹介鑑賞を意図して『川柳でんでん太鼓』を書いた。
次いで平成九年に岸本水府を『道頓堀の雨に別れて以来なり』で書いた。
 水府は門人の川柳家をよく愛顧し、指導したが、昭和初年ごろからふえた、若い女性川柳家たちの進出をとりわけ喜び、よく育成した。
溌剌たる近代的知性を身につけた若い娘たちが、時代の世相・人情を詠む。その風潮は柳界の発展繁栄に資するところ大きいはず、と水府は期待したのであろう。 その期待は裏切られず、資質すぐれた女流川柳家たちが、たちまち輩出する。それは川柳界に活気と刺激をもたらした。
どの芸術分野でもそうだが、殊に、川柳界では女性に活気がある、という現象は好もしい。

 女性はそもそも、現象への好奇心と批判力、同調または反発、その精神の波立ちがけさやかで、線が強い気がする。
それはまさに、川柳という文学形式にぴったり、ではないか。
 しかも、将来、川柳という分野で女性の活躍が更に盛んになるように思われる。
ーーなぜなら現代では女性は従来、男性の徳、とされる資質をも併せ持つようになった。
大胆、率直、決断力、好奇心、支配力、企画力。

 女性が、男性と同じ視線を併せ持ち、複眼で、世態人情を見、あるいは裁き、あるいは洞察理解する。
賢くも強くもなったが、女性的やさしみも失われずに備えている。・・・・そんな女性像の面白さをどこで知るか。
女性川柳家の作品に昵懇したまえ、・・・・というところである。彼女らの句は躍動している。
一すじ縄でゆかぬ複雑さを秘めつつ、また”おんな”の柔媚とやさしみの香りを持つ。
女流川柳家たちの珠玉の句を、口中にまろばせ、てのひらに包んで、いとしみたい。

新しい感覚の句集誕生を祝福する。   平成十八年夏    田辺聖子

ーーーーーーーーーーーーーー
この事典には126人の女流川柳家の句が集められている。
編集は、作家名あいうえお順。各作家の代表句及び20句。略歴。出典。作者からのメッセージ。

『現代女流川柳鑑賞事典』(1)
 ⇒『現代女流川柳鑑賞事典』(2)
  ⇒『現代女流川柳鑑賞事典』(3)
   ⇒『現代女流川柳鑑賞事典』(4)
    ⇒『現代女流川柳鑑賞事典』(5)
     ⇒『現代女流川柳鑑賞事典』(6)


08/22 吟行恋句 (4313回)

◆ 吟行恋句   斎藤牧子の恋する写真俳句 (ネットで見つけた)
http://saito-makiko.com/

《確信の 一夜限りや かもめ鳴く》

一生で、心から恋する人はひとりだけなのだろうか。
あの夜あなたの背中に腕を回した時には、
確信していたことだけれど。

一生に、心を捧ぐ人は誰でもひとりなのだろうか。
幼い頃から、そのただ一人に出会うものだと思っていたけれど、
あのとき感じた確信は、指の隙間からすり抜けてしまった。

この世で最も分からないもの。
思い通りに行かないものは恋。
それは、あなたの心だけではなくて、
自分自身の心もそう。
昔から知られていたことだろうけれど、
自分の身に降り掛かってきた時に、
身に迫る圧力を以て思い知らされる。

ーーーーーーーーーーーー
毎回、写真俳句だけではなく、散文詩が添えられている。
古い方から通して読み進んでいくと、(フィクションもあるのだろうが)
斎藤牧子さんの恋の遍歴のようなものが透けて見える気がする。
ネットが無かった過去の歌人・俳人は、想いを歌集・句集にして世に出すしか方法が無かったが、
今はネットで簡単に公開することができる。
そして詩人の想いに、私のような素人でも容易に触れることが出来るようになった。

08/21 窓用換気扇設置 (4312回)

書斎の窓に、窓用換気扇を付けた。
春、秋は窓を開け放って新鮮な空気と入れ替える方が気持ちもいいのだが、 夏、冬はそうも行き兼ねる。

窓を開けても風の方向次第で空気が入れ替わりにくい時もある。
換気扇なら効率よく働いてくれるはず。

08/20 パソコンのCPUファンの清掃 (4311回)

最近、PCが時々、不意にダウンする。原因は分からない。
ひょっとしてと考え、中を覗くとCPUファンにホコリがたくさんこびりついていた。きっと冷却能力が落ちている。
綿棒を使ってホコリを取り除いた。これで直ると良いのだが・・・

08/19 松田わこさんの歌が三席 (4310回)

先日にNHK短歌(小島ゆかり選)で、富山の松田わこさんの歌が三席だった。

《黒鍵もいいなと思う このごろの私についてバッハに話す》

わこさんは今、中学一年生。朝日歌壇でも毎週当選の常連さんだ。

《ジーパンで自転車をこぐ モーツァルト 見かけたソナタ 九番の中》 7/14
《男子たち「そっくりな人見た」と言う ねえちゃんだろうな 一〇〇パーセント》 7/21
《水色のパジャマで眠る夜だから 涼しい夢を予約しておく》 7/28
《理科室へ音楽室へグランドへ 移動の時は いつも恋バナ》 8/04
《今日からは夏服 風が吹くたびに ゆれて楽しいプリーツスカート》 8/10

いかにも音楽好きの中学生らしい視点で、身の回りの出来事を上手に詠っている。
そろそろ恋も意識し始める年齢だ。

《梔子が香れば 私十五歳 白い色した 初夏の恋》  (船橋市 川上 美栄子)
わこさんの恋歌が投稿される日を心待ちにしている。

08/18 恋する川柳 やすみ りえ (4309回)

TVのNHK短歌にゲストで出ておられた〈やすみ りえ〉氏を知り、
どんな人、どんな川柳を作られているのか調べてみた。
主に関西方面で活躍されているようだ。
(出典:『現代女流川柳鑑賞事典』 田口麦彦著  三省堂 2006)

やすみ りえ 1972神戸市 朝日カルチャーセンター講師 『平凡な兎』

海までの道 もう二度と逢えぬ人

(作者からのメッセージ)
恋する気持ちを詠み続ける毎日。われあながらよく飽きないものだと驚いている。
恋はいつでも、切なくもきらきら輝く水辺へと私をいざなってくれる。

軽い嘘ふわりと乗ってあげましょう
 盗むのがいいの桜も人の目も
  幾つもの切り取り線のあるハート

   馴れ合いにならないようにオムライス
    あなたから一番遠い場所で泣く

転び方すこうし上手くなりました
 ちょっとしたことで 白紫陽花のばか
  信号が変われば消える私かも
   治癒力があるから恋をしています
    しあわせになりたいカラダ透き通る


つまさきのあたたかい恋しています
 抱きしめた風はあなたの温度です

  意地悪をされたことなどない苺
   満月に恋のうさぎを産みました
    もう少し食べたいところで終える恋

からっぽの私を包むバスタオル
 信じてはいけない舌の厚みでしょ

ーーーーーーーーーーーーーー
季語の縛りもなく十七音に目いっぱい恋する気持ちを乗せ、
言葉が溢れ出しリズムに跳る句は、川柳ならではと感服する。
人事の中でも「私」「恋」に焦点を絞った現代詩そのものだ。

やすみ氏は黛まどか氏(俳句)より10歳若い方だ。ますますの活躍を祈りたい。
また、やすみ氏の影響を受けて、若い人がこういった川柳(俳句も)をどんどん作ることを期待している。
空想の句というのもあるが、こういった恋の詩はやはり若さの中に身を置く人でないと作れないと思う。

08/17 水原秋桜子の『俳句の作り方』 (4308回)

◆ 俳句論にこんな記事を見つけた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%B3%E5%8F%A5 水原秋桜子(明治25ー昭和56)が『俳句の作り方』で「注意六条 禁忌八条」を提唱した。
まず、「俳句を詠むとき、意を注ぐべき六条」は以下のようなものである。
@ 詩因を捉える
A 分量をわきまえる
B 省略を巧みにする
C 配合を工夫する
D わかる用語を使って
E 丁寧に詠む

省略については、俳句では17文字という限られた音で表現をしなければならないため、不用な言葉の省略が重要視される。体言止めにより動詞や助詞を省略したり、助詞で止めて後に来る動詞を省略したりすることが多い。また、予測可能な言葉を省くことにより、余韻を残したり時間的な「間」を表現することにもなる。
次に、俳句を詠むときで避けるべき八ヶ条は以下のようなものである。

@ 無季の句を詠まない
A 重季の句を詠まない
B 空想の句を詠まない
C や・かなを併用した句を詠まない
D 字あまりの句を詠まない
E 感動を露出した句を詠まない
F 感動を誇張した句を詠まない

G 模倣の句を詠まない

これらはもちろん、水原秋桜子の見解であり、特に無季の句に関しては様々な議論がされている。
ーーーーーーーーーーーーー
@無季の句はさておき、B空想の句を詠まない、については何となく納得しがたい。
以前ネットで読んだ芭蕉論で、「五月雨の 降り残してや 光堂」「五月雨を集めてはやし最上川」などについて、
奥の細道の頃の光堂は決して輝いてはおらず、
(今も昔の輝きを華やかに見せている)というのは芭蕉の想像(願望?)であり、最上川の句についても、
日記の時期と照らし合わせて、 (降り続く梅雨の雨を集めた最上川が,水かさを増しながらゴーゴーと勢いよく流れている様子を詠んだ俳句)とは言えず、 これも想像の句だと述べていた。
句会で「席題」というのがあるそうだが、季節に合わせて「心太」「ススキ」などと題を出されても、
句会の席に実物があるとは限らないので、自分の知識を基に空想して句を作るしかないだろう。

先日のNHK俳句で、「天と地を杓子で返す茸飯」という句が特選だった(宇田喜代子選)が、
茸飯を杓子で返す小さな茶碗の中に、天と地という途方もなく大きな比喩を用いた表現を宇田氏は褒めていた、
このような句は空想の一つではないのだろうか?

08/16 「俳句と川柳の違い」 (4307回)

◆ 「俳句と川柳の違い」 をネットで検索するといろいろなページがヒットする。
日本俳句研究会  http://jphaiku.jp/how/senn.html
ズバリ解決!「違いガイド」(「川柳」と「俳句」の違い)
http://www.chigai.org/%E3%80%8C%E5%B7%9D%E6%9F%B3%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/

「川柳」=季語がない。「俳句」=季語がある。
「川柳」=切れ字は重要ではない。「俳句」=切れ字が重要。
「川柳」=口語体。「俳句」=文語体。
「川柳」=人事がテーマ。「俳句」=自然がテーマ。
どちらも俳諧の連歌が起源。

Yahoo知恵袋   http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317374163
『川柳と俳句の違いを教えてください。』
『ベストアンサーに選ばれた回答  matumidayo2000さん2008/6/25
  (回答の中味は、上の「違いガイド」と同様なので省略する)
ーーーーーーーーーーーー
・俳句には、<季語>が必用ですが、川柳では特にこだわりません。
・俳句には、<切れ字>が必用ですが、川柳では特にこだわりません。 「けり」が切れ字。
・俳句は、主に<文語>表現ですが、川柳は<口語>が普通です。
俳句は、主に自然を対象に詠むことが中心でですが、 ・川柳では、人事 を対象に切り取ることが中心です。
・俳句では、詠嘆が作句のもとになり「詠む」といいますが、川柳では、詠ずるのではなく「吐く」「ものす」な どといいます。決して、詠ずるものではありません。
ーーーーーーーーーーーーー

 従来、川柳には他人を、社会を、事象をちょっと斜めに見て茶化したようなイメージを
持っていましたが、ある本によってまったく違うジャンル、しかもそれが今の本流であると知りました。
その本流とは「現代川柳」と呼ばれているもので、自分を川柳の題材とするもので、自分以外を
捕らえる従来の内容とは大きく異なります。したがって句の中にいかに自分が入っている(詠う)か、
そして川柳の基本要素である、「皮肉」「軽み」「滑稽味」のなかでいかに真(実)・(愛)情・美(リズム)を織り込んでいくかが 重要なポイントとなりますと、参考書に書いてあります。』

ーーーーーーーーーーーーー
現代川柳では句の中にいかに自分が入っている(詠う)か、重要なポイント』というのは、
先日来紹介してみた「詩的思考のめざめ」(阿部公彦著)においても、
徹底的に「私」である、ということ。「私」の言葉を語る、ということ。これが現代詩の最低限のルールとなってきました』 というように書かれていた。
俳句界においても、自然を客観写生して詠うという本流に満足せず、反逆するように「恋/愛=私」を詠う句を作る俳人の叫びは 今まで読んで紹介してきた通りだ。

俳句と川柳、その句の内容、作り方の違いを図に整理してみた。

08/15 桃の皮は剥きますか? (4307回)

果物や野菜を食べるとき、「皮を剥く」か、「剥かないで皮付きのまま食べる」か?
モノにより、人により好みはあるだろうが、我が家ではこうだ。

皮は剥かない⇒トマト、リンゴ、大根おろし、ゴボウ、ナス、キュウリ、カブ、スモモ、ブドウ(甲斐路)、etc
皮は剥く⇒人参、玉ねぎ、ジャガイモ、里芋、バナナ、みかん、キウイ、柿、梨、栗、イチジク、スイカ、ブドウ(巨峰)、etc

先日TVで山梨の桃農家の人が、「皮と実の間が一番甘いから、皮は剥かずに食べるのが良い」 と言っていたので早速試してみたが・・・・・
やっぱりちょっと違和感があり(皮が口の中に残る)、皮付きは好みではなかった。

08/14 無線LAN 強化 (4306回)

メインのデスクトップPCは書斎に置き、モデムとは有線で接続し、
家の中に無線LANを張り、ノートPCをどの部屋でも使えるようにしていたが、
以前使っていた機器は電波が弱く、リビングでは不安定だった。

ショップのポイントが貯まっていたので、新しい無線LANルーターを購入して再構築した。
(ルータをAPモードにセットするのがポイントだった)
期待通り十分強い電波でカバーされるようになり快適に使えだした。
スマホも繋がるので、家の中では4G-LTEよりも高速になった。

08/13 八王子まつり (4305回)

江戸時代から続く市街地の氏子を中心とする山車祭りは、八幡八雲神社の祭礼を下の祭り、多賀神社の祭礼を上の祭りとして親しまれ、江戸中期から明治中期にかけて人形山車の祭りとして、明治後期以降は、彫刻を全面に施した彫刻山車の祭りとして、関東一円に名声を博していました。
現在19台の山車が八王子まつりに参加するようになり毎年甲州街道を舞台に華麗な山車祭り絵巻を繰り広げています。

  子ども音頭の集い、氷の彫刻展、関東太鼓大合戦、会所めぐり、多賀神社宮神輿「千貫みこし」渡御、山車八幡大辻合わせ(ぶっつけ) 山車巡行、居囃子演奏、神興渡御、民謡踊り、獅子舞、他

8/02-03と二日間、甲州街道を中心に見て歩き、いろいろな催しを見て面白かった。
ただ初日の氷の彫刻を見逃したのが残念だった。

08/12 ブログ日記 4300回 (4304回)

2002年からブログ日記を書き続けている。
最初は Cafest 、次に `Games というサイトに変わり、しばらく前から Facebook を日記帳代わりに使うようになった。
どのサイトも過去の記事はきちんと保存される仕組みにはなっているものの、 実際問題として、過去のある記事を読み直したいと思った時、便利にその記事にアクセス出来るかというとそうではない。

過去を振り返る時、手がかりは「(およその)日付」と「キーワード」だが、
それらをキーにして検索する機能はほとんどない。
ある日突然にサイトが閉鎖されて、書き込んだ記事(日記)も消滅することを心配して、
別にログ(復刻版)を作り Geocities にアップして来た。
一月分を1ページの構成で、年月を頼りに過去を振り返れるようにしている。
さらに、デスクトップPCにも写しを保存して、GoogleDeskTopでキーワード検索も出来る。

13年間分の(くだらない)日記にどれほどの値打ちがあるのかは分からないが、
自分自身の生活の記録として続けていきたいと思っている。

08/11 『詩的思考のめざめ』  (その13) (4303回)

 ー心と言葉にほんとうは起きていることー  (阿部公彦著 東京大学出版会 2014)

おわりに ーー詩の出口を見つける

 詩には書く人の生理的な特徴がかなり強烈に刻印されているものです。とくに詩を読み始めてすぐの頃は、詩にあらわれた匂いのようなものがすごく気になる。作品や書き手との相性もはっきり出る。中には問答無用におもしろい、いや気分が悪くなるものだってある  そういうときはやせ我慢はやめましょう。今、読まなくてもいい。まずは自分の体質に合うものから手にとってはいかがでしょう。  体質ということでいうと、詩人にはだいたい二通りいます。

 一方には言葉の遅い詩人。どちらかというとその言葉が読者より”遅れてくる”と感じられる詩人です。
 読む人の方が先を歩き、詩は後から追いついてくる。読者は少しペースを落としたり、聞き耳を立てたりしないと、なかなかその詩の世界には浸れない。忍耐がいる。こういう詩人は、詩人なのに言葉少なで、もの静かで、一行にせいぜい五字か十字くらいしかしゃべらない。「自分にしゃべれるのは詩の言葉だけだ・・・」というような追い詰められた頑なさがあって、ひとつひとつの言葉へのこだわりも強く、どうしてもこうでなくちゃいけない、と寸分のスキもない語りになっている。
 こういう詩を読むときには、書いた人の生理や神経に没入することになる。密着型です。読むことと、好きになることがかなり接近している。というか、好きにならないと読めないのかもしれません。でも、日本の近現代詩の主流派、たぶんこういう作品によって作られたのです。

 しかし、これとは逆に、読者の一歩先を行くような詩人もいます。文字通り多弁でやかましい。
 どんどん先に歩き、読者だけではなく語る自分自身さえも置き去りにしてしまう。固有の文体だの生理だのということにはこだわっていないように見える。刺激と、強度と、変化が特徴で、読者もじっくり待つような忍耐はいらないかもしれないが、わあわあしゃべる早足の人を後から追いかけていくのはなかなか大変です。ときには適当に聞き流したりしながら、ちょっと隙間のあいたお付き合いをすることになる。このような詩人はたいてい「異色」などと呼ばれます。たとえば鈴木志郎康とか。ねじめ正一とか。

 詩は入っていくためのものではなく、そこから出て行くためのもの。少なくとも、私がこの本で提示したかったのはそういう意味での「詩的思考」でした。

ーーーーーーーーーーーーー
 俳句(/川柳)にも、如何にも正統派俳句と感じられる句と、型破りと感じる句とがある。
どちらが良いと思うかは、その人の感性/好みによるだろう。

《腋烟る少女でありし夏はるか》     正木ゆう子
《たてがみを刈り/たてがみを刈り/愛撫の晩年》     高柳重信

 一生懸命に読んでみたが、正直な話良く分かったとは言えない。
 ただ、詩(広く詩歌)を読む場合には、言葉を追って意味を掴もうとするのではなく、言葉の群れから何かを感じ取ることが大切なのだということは分かった。
 逆に若しも自分でも詩歌を作るなら、単純に思い/想いを言葉に連ねるだけではなく、その時の感情や衝動を表す言葉を丹念に探すことが秘訣のようだ。

08/10 『詩的思考のめざめ』  (その12) (4302回)

 ー心と言葉にほんとうは起きていることー  (阿部公彦著 東京大学出版会 2014)

第10章 世界に尋ねる
   谷川俊太郎「おならうた」「心のスケッチA」「夕焼け」ほか

 散文の言葉には潔さが要求されます。白黒はっきりさせろ、と言われる。
 詩の言葉はーー少なくとも谷川俊太郎の詩はーーそこのところを突く。何しろ彼の詩は、自分よりも「全体」を語ろうとするのです。  そのために、人がふだんは触れないような痛い部分や隠された部分まで暴いてしまう。そうすることでほんとうの全体に到達しようとする。でも、ぜんぶを言えばいいというものではありません。全体は、なかなかすばしっこい。ぜんぶを言えば全体が語れるというものでもないし、そもそも数十行の詩でぜんぶなんて言い切れるわけがない。だからいろいろな技を駆使することになる。
 彼が「どきっ」とさせることを好むのはそのためです。全体を語るぞ、と見せかけておいて、ぱっとそこから飛び立つ。それまで積み重ねてきた「次はどうなる?」という問の連鎖をぱっと投げ捨て、いきなり別の言葉で語り始めるのですそうすることで全体の果てしなさを生む。そんなことが詩では許されるのです。

ーーーーーーーーーーーーーー
川越歌澄氏(1971函館市、「人」同人、第1回北斗賞)の句は難解だ。

《鉄錆をキリンが舐めて明易し》      《悲しくもないのにゼリー光りけり》

08/09 『詩的思考のめざめ』 (その11) (4301回)

 ー心と言葉にほんとうは起きていることー   (阿部公彦著 東京大学出版会 2014)

第9章 型から始まる
   田原「夢の中の木」ほか

 口語自由詩にも時折、型らしきものを見つけることができます。
 型の根本にある原理は反復です。特定の言葉の使い方を何度も繰り返すことで、その使用法がことさら目立つ。すると、そのような構造そのものに何らかの価値があるような気がしてくる。情報の伝達という面から見ると繰り返しは無駄であり、意味の停滞につながりそうですが、他方、繰り返すことで、言われている内容とはかかわりなくなぜか力が漲るような気がしてくる。型は勢いを生み、リズムを作り、やがては歌謡性につながります。

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 俳句でも、とてもリズミカルで情景がパッと浮かぶような句がある。

《一面にひまはり笑ふ地平かな》 (ドイツ ハルツォーク洋子 金子兜太選)
《手で叩く西瓜の音色の母優し》 (枚方市 菅野 強  金子兜太選)

08/08 『詩的思考のめざめ』 (その10) (4300回)

 ー心と言葉にほんとうは起きていることー   (阿部公彦著 東京大学出版会 2014)

 第8章 私がいない
   西脇順三郎「眼」

 日本では抒情といえば、短歌というきっちりした枠のはめられたジャンルがあり、それゆえ。まずは五七調という形式を破ることが至上命題となりました。
 しかし、五七調を乗り越えたあとに待っていたのは「自由」というよりは「欠如」でした。言葉の違う西洋の抒情詩を五七調を打破するためのモデルとした日本の口語自由詩は、形式上のモデルにできるものを持っていませんでした。そのため、口語自由詩には形の上での決まりはほとんどありません。”詩”というものを理念の上では志向しつつも、共同体的な形にはとらわれたくないという意識です。
 そこで唯一共同理解として残ったのが「私」だったというわけです。徹底的に「私」である、ということ。「私」の言葉を語る、ということ。これが現代詩の最低限のルールとなってきました。
 西脇順三郎の『眼』という詩では、〈語り手=私〉という構図を暗示しつつも、なお、語り手が「私」にはほとんど言及していない。つまり、語り手は単に「私」を設定したり隠蔽したりするのではなく、「〈私〉がいるのだけれど、まるでいないかのように扱いますからね」という複雑な態度を表現している。

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 俳句では使える語数が十七音と限られているので、できる限り省略するということが大切にされる。
主語(私)や述語(こう思う、など)も可能な限り省略され、省略不可な対象物だけを連ねることが多い。
取合せの二物が並べて放り出されると、どう解釈・鑑賞するのか分からなくなることもある。

《退屈を愛する才や心太》 (東京都 木村 史子 長谷川櫂選)
《あの人の事を想へば亀鳴けり》 (小樽市伊藤玉枝 大串 章選)

08/07 『詩的思考のめざめ』 (その9) (4299回)

第7章 身だしなみが変わる
   「伊藤比呂美「きっと便器なんだろう」

 このような傾向は詩でもはっきり見られます。そもそも抒情詩はその名の通り、感情を表現するものです。感情を語る以上、それにふさわしいような、内側と直につながるような繊細な言葉が使われることも多くなります。しかし、単に怒りとか喜びといった感情をドバッと噴出させればいいわけではなく、どことなく独り言風であったり、あるいはごく近い人にささやくようにして語りかける口調もうまく使われてきました。
 詩の言葉というものはたとえ内面的なことを書くときであっても、社会や共同体の持つエネルギーを上手に生かすことができます。「内向き」もいいのですが、「外向き」の言葉もなかなか使い出がある。

 (ここで著者は伊藤比呂美の『きっと便器なんだろう』という詩を読みながら上のことを説明する)

とても良い詩なのですが、内容的に国語の教科書には載せにくいのではじめて読むという人も多いかと思います。

『きっと便器なんだろう』   伊藤比呂美(1955年生まれ)  「伊藤比呂美詩集 1980」

ひさしぶりにひっつかまえた
じっとしていよ
じっと
あたしせいいっぱいのちからこめて
しめつけてやる

抱きしめているとしめ返してきた
節のある
おとこのゆびでちぶさを掴まれると
きもちが滲んで
くびを緊めてやりたくなる

あたしのやわらかなきんにくだ
やわらかなちからの籠め方だ
男の股に股が
あたる
固さに触れた
温度をもつぐりぐりを故意に
擦りつけてきた
その意思に気づく
わたしの股をぐりぐりに擦りつける

したに触れてくびすじを湿らせてやるとしたは
わたしのみみの中を舐めるのだ
あ声が洩れてしまう
髪の毛の中にゆびを差し入れけのふさを引く
あ声が漏れる
ぐりぐりの男は
ちぶさを握りつぶして芯を確かめている
い、と出た声が
いたいともきこえ
いいともきこえる
わたしはいつもいたい、なのだ
あなたはいつもいたくする

さっきはなんといった
あいしてなくたってできる、といったよね
このじょうのふかいこういを
できる、ってあなたは

(詩の後半部は省略)
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 この詩人の目的が性を描くことそのものにあるというよりは、性を扱うことを通して得られる言葉の風情を表現することにあるとわかってきます。
 そもそもなぜ性行為なのでしょう。セックスというのはふつうふたりで行うものです。また多くの場合、人前でしたりするものではありません。密室で、人目につかないよう夜などに、知人や両親や子供などに気づかれぬよう、いつの間にか行われるもの。そしてこの密室の行為は、ふつうは他人には語られないものです
 つまり性行為というのは人間の行動の中でもかなりプライベートで秘密的な行いなのです。しかし、原理的にはそれは一人ではなく二人で行うものですから、秘密的でありながら共同性、もしくは共犯性がある。二人という最低限の「社会」で営まれる秘密でもある。

 性行為は親密で、プライベートで、秘密的。また暴力的で、傍若無人でもある。そして「愛」に満ちている。

 この詩では、ひらがなと漢字を入り混じらせて使うことによって、男女のこころのズレを表現しているように見える。
 語り手にとってはそれは不本意な、男の主導権に従った密着なのだけど、二人の距離が縮まって、言葉が例のプライベートなささやきの形(ひらがな)をとっているのは間違いない。

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 「外向きの言葉=漢字」、「内向きの言葉=ひらがな」と考えれば良いのだろうか?
 俳句/川柳でも、漢字とひらがなが使い分けられていることが多い。
漢字とひらがなとは、上の外向き、内向きを意識して使い分けられているのだろうか?

 《花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ》 (杉田久女)
 《鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし》 (三橋鷹女)
 《ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜》 (桂信子)
 《雪はげし抱かれて息のつまりしこと》 (高橋多佳子)

 ☆ 愛咬やはるかはるかにさくら散る  (時実新子(1929 岡山))
 ☆ 妻をころしてゆらりゆらり訪ね来よ
 ☆ はぐれるとズキンと乳房だけになる
 ☆ ちりいそぐむらさきうすきはなあわれ

 ☆ もう一人の私がわたしに念を押す  (糸 せい子 1931 富山)

08/06 『詩的思考のめざめ』 (その8) (4298回)

第6章 品詞が動く
   萩原朔太郎「地面の底の病気の顔」

 問題にしたいのは、詩のどこを読むのか、ということです。
 私たちの心にはあるスイッチがある。このスイッチをオフにしてもらいたい。このスイッチは、ふつう言葉を読むときには一番大事になる部分ー内容の読み取りにかかわっています。これをオフにしたい。そうすることで、内容を読まずに詩を読んでみて欲しいのです。
 内容を読まずに読むための方法を体得すれば、詩のみならず、ひいては小説や批評を読むときにも、これまでよりも深みのある読書体験をすることができるようになります。

 意味がわかるなどというのは、とくに詩を読む場合にはたいしたことではないのです。あくまでも通過点にすぎない。なのに多くの人はその通過点を”あがり”と勘違いしてしまう。そして、「で? だから何?」と思う。詩がわからないという人の多くは、詩を議論として読み、その物足りなさや呆気なさに呆然としている人たいです。「そんなこと言われてもなあ」と思ってしまう。

 言葉というのは理性や論理を表現することもできるけれど、他方では感情や気持ちをも表現する。でも、感情は言葉にしないとなかなか伝わらないものだけど、実際には言葉の枠からあふれ出るときこそもっとも効果的に表現される。そういうあふれる感じを表現するには、きれいに淡々と語られる言葉よりも、言葉ならざるものへと逸脱しつつある言葉の方がうまくいく。

 (名詞や動詞の反復がそういった効果を生むことがある)  いずれにしても大事なのは、私たち読者がそうした(名詞や動詞の)言葉の役割分担に敏感になることで、単に内容を読み取って、”あがり”にしてしまわないことなのです。

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 「言葉ならざるものへと逸脱しつつある言葉」、これも中々理解しにくい。
 言葉の表面的・一般的な意味だけではなく、その裏・延長にある意味を察するということだろうか。
 俳句でも、似たような意図を持って言葉を選び使った句がたくさんあるようだ。

 《身のうちに白桃を抱き会ひにゆく》    辻美奈子
 《花の夜の言葉ひとひら信じたき》     町野けい子

 「白桃を抱き」や「花の夜」から何を想像するか、それは読者に委ねられている。

08/05 『詩的思考のめざめ』 (その7) (4297回)

第5章 恥じる
 荒川洋治「詩とことば」、山之口貘「牛とまじない」、高橋睦郎「この家は」

 詩は(カラオケと違って)曲がつかない。だから、はじめから恥ずかしい。
 歌だって恥ずかしいのに、曲がない詩はもっと恥ずかしい。何しろ「いつものその人とはちがう。日常をはずれている。反俗的なものである。もっといえば過激である」のです。
 しかし、詩を書くことに意味があるとしたら、この「恥ずかしさ」を背負っていることが大事なのではないかと私は思います。ひょいひょいと恥ずかし気もなく語られてしまう詩にどれだけの価値があるのか。
 詩はかつては歌とほとんど同義でした。しかし、詩は、今、歌とはちがいます。詩にはうたうことに対する疑いがこめられています。 詩はもともと歌とほぼ同義だったから、今でも歌に肉薄できます。肉薄することでこそ、歌との際どい違いを見せつける。今にも歌になりそうなのにならないという瞬間を示すことで、歌を疑うということを実演してみせるのです。
 語り手は知っているのです。もはや追い詰められた個人が、共同体の夢をあてにして自分を開放できるような時代ではなくなっていることを、自分というものをそう簡単に手放すことはできない。自分はしつこく自分に戻ってくる。まとわりついてくる。だから、自分の発信もブーメランのように自分に戻ってくる。それが言葉の「はずかしさ」というものです。
 しかし、この恥ずかしさはきわめて重要なものです。一種の威力があるからです。ほんとうに強いのはそういう言葉です。ひょいひょいと言えてしまう言葉など、たいした力を持つことはできない。

 そんな恥ずかしさの中でももっとも根本的なのは「語っているつもり」の自分に対する恥じらいです。言葉がほんとうに自分のものなのか、という疑いが生まれることがある。そうなると、とても陽気に歌になどひたってはいられない。

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 『恥ずかしさの中でももっとも根本的なのは「語っているつもり」の自分に対する恥じらいです。』
 この論旨はとても理解が難しい。例えばカラオケを歌っているとき、何となく恥ずかしいというようなことだろうか?
 俳人の方が句を発表するとき、このような恥ずかしさを感じているのかどうか聞いてみたいものだ。

 《言いにくいことは五七五に訳す》 (太田紀伊子  1938東京都 全日本川柳協会常任理事)

08/04 『詩的思考のめざめ』 (その6) (4296回)

 第4章 黙る
   高村光太郎「牛」

 私たちは言葉のことを考えるときに、ついすでにある言葉ばかりを見てしまいがちです。しかし、どんな言葉もはじめからそこにあるわけではありません。誰かが言おうと思って、体が反応して、口を開いて、そこでやっと言葉になる。書かれた言葉もそうです。
言葉というのは、ほんとうはいちいち生まれ出るものなのです。
 生まれなければそこにはない。これは驚くべきことです。いや、そういうことに驚くセンサーを私たちはみな持っている。
 あ、言葉がある!言葉が発生した! とその出現に驚き、ときには感動し、ときには怒ったり、悲しんだりする 。
 そういう意味では言葉は衝撃的です。強いもの。強烈なものです。私たちが大きな声を出すのは、言葉がもともと持っているこの”強さ”を駆動させたいときではないかと思います。意識するとしないとにかかわらず、言葉の持っているエネルギー性にその持ち味を存分に発揮させようとしている。

 では言葉がもっともエネルギーを発生させるのはいつか。やや奇妙に聞こえるかもしれませんが、それは実は大きな声で語っていないときかもしれません。より正確に言うと、すでに大きな声で語っていないとき。つまり、いったん大きな音量になってしまった声はたいしたことはないのです。それほどの強さを持ち得ない。むしろ、これから大きな声になろうとするとき、沈黙を破って突然、言葉がでてくるとき、もしくはかつて大きな声だったものが静まるとき。そんなときに声は最も強烈になる。言うか言わないか、沈黙か無言かといった境界が意識されればされるほど、言葉は先鋭になるからです。

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 『言うか言わないか、沈黙か無言かといった境界が意識されればされるほど、言葉は先鋭になるからです。』
 スピーチ、演説の上手な人は、喋るときの「沈黙か無言かといった境界」をよく知っていると思われる。
 俳句/短歌でも、気持ちを声高に述べるのではなく、さりげなく写生した物に語らせる方が効果を生むことが多い。

《弾痕の熱砂の島や糸満史》 (東京都 鈴木 勇  金子兜太選)
《雲の峰国のかたちも崩れけり》 (那須鳥山市 川俣 水雪  長谷川櫂選)

08/03 『詩的思考のめざめ』  (その5) (4295回)

第3章 言葉をならべる
 新川和江「土へのオード」、西脇順三郎「失われた時」、石垣りん「くらし」

 詩では語り手は列挙をしたがるし、それをすることが許されている。
 日常生活の中でなぜ私たちが列挙をしないのかということから考えてみましょう。
道具として言葉を使うとき、私たちは言葉に意味させようと必死です。言葉に役割を与え、その役割を全うさせるために私たちはいろいろと工夫をする。明瞭に発音するとか。語順を組み替えてみるとか。相手がちゃんと聞いているか確かめるとか。そのとき私たちがとくに注意するのは、一つ一つの語が文の中でどのような役割を果たしているかを明らかにすることでしょう。
 ところが言葉を列挙するとそのあたりがあいまいになりやすい。そのため、私たちは意味がちゃんと伝わっているか不安になってくる。おそらく詩が苦手という人は、このような列挙にとまどったことが多いはずです。

 列挙によって言葉が連なり述語から遊離すると、私たちは目がくらみ、まるで語り手がそれに何も意味させていないような錯覚をするのです。言葉そのものがどんどん連なる結果、言葉が語り手から自由になる。ふと、言葉が意味や意図を喪失したように見えたりする。少なくともそういう瞬間がある。
 私たちはふだん、言葉を前にしてくらくらしたりはしない、でも、実はそういう言葉との付き合い方があっていいのです。むしろ、このくらくらっとするめまいの感覚は、詩の神髄にあるものでさえあると私は思う。

 列挙とは詩人の支配力と暴力性のあらわれです。言葉を列挙できる詩人は強い。しかし、それは危険な行為でもあります。下手な列挙を行えば、言葉はほんとうに意味をなくし、虚無に陥ってしまう。虚無すれすれのところから、こちらに戻ってくる列挙こそが圧倒的なのです。

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 普段文章を書いたり、人に話したりするとき、「一つ一つの語が文の中でどのような役割を果たしているかを明らかにする」ことに注意を払うのだが、詩の場合には、必ずしもそうではない。
 また特に俳句では語数が17音と制限されるため、十分に意を尽くすということがとても難しい。
 さらに「説明を尽くす」という表現の仕方は「俳句らしくない」と嫌われるので、「舌足らずな言葉が断片的に放り出される」ような羽目になってしまうこともある。意味の繋がらない言葉がいくつか並べられ、解釈はご自由にどうぞ、となる。
取合せの句はこのような謎解き問題に似ている。ジグソーパズルの幾つかだけのピースを与えられて、全体はどんな絵なのかを推理するようなものだ。そこが面白いと思える人と、お手上げだと投げ出す人との違いはあるろうか?

 《白石も僕も貧乏冷奴》 (東京都 大網 健治 金子兜太選)

「白石」が「将軍家宣を補佐して正徳の治を行った新井白石」「白石は父子共に上総久留里藩士で若い頃は貧しかったが、儒学を学び頭角を現した白石」のことだとすると、作者が貧乏を述べるために白石を引き合いに出すところが今ひとつ理解し難い。
(貧乏比べをするなら他にも貧乏だった著名人(例えば石川啄木)は山ほどいるはずだ)
 そして下五の「冷奴」の意味。「貧乏人だから冷奴しか食べられない」のか、それとも「貧乏人には冷奴ですらご馳走だ」と言いたいのか? 少なくとも白石が冷奴を好んだという歴史的事実は無さそうだ。
 「白石」「貧乏」「冷奴」と言葉を列挙して、それ以外何の説明もなく放り出すーー俳句とはそういうものだと言われたらそれまでだが、私にはなぜこの句が選ばれたのかよく分からない。作者の一方的な押付けー暴力性ではないのか?

08/02 『詩的思考のめざめ』  (その4) (4294回)

『詩的思考のめざめ』  (その4)
 ー心と言葉にほんとうは起きていることー   (阿部公彦著 東京大学出版会 2014)

第2章 声が聞こえてくる
 宮沢賢治「なめとこ山の熊」、大江健三郎「洪水はわが魂に及び」、宗左近「来歴」

 詩の外にこそ、詩はある。詩が苦手だという人は、たいてい自分が詩の外にいると思い込んでいるのですが、ほんとうは中にいる。 知らないうちにも、私たちは詩を実践しているのです。この章で注目したいのは、聞こえてくるという感覚です。

 詩人は音や声が聞こえてくるという感覚にとても敏感です。しかし、敏感なのは詩人だけではありません。私たちも敏感なのです。そのことを覚えておいて欲しい。日常生活の中で「あ、声が聞こえてくる」と思ったとき。私たちは詩のすぐそばまで来ているのです。

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 俳人の方は、「音」をきっかけにして句が生まれてくるようだ。 新聞の投句などから拾ってみた。

《青葉風土に練り込み土鈴作る》 (庄原市 原 博巳)
《手で叩く西瓜の音色の母優し》 (枚方市 菅野 強)
《松の木になりきってゐる油蝉》 (旭川市 大塚 信太)
《郭公の声に高原らしくなる》  (米子市 中村 襄介)
《蝉となり一山迫り来る如し》  (金沢市 今村 征一)
(続く)

08/01 『詩的思考のめざめ』  (その3) (4293回)

『詩的思考のめざめ』  (その3)  ー心と言葉にほんとうは起きていることー   (阿部公彦著 東京大学出版会 2014)

第1章 名前を付ける
 阿久悠「ペッパー警部」、金子光晴「おっとせい」、川崎洋「海」、梶井基次郎「檸檬」ほか

 名づけは詩のもっとも基本的な機能です。何かの存在をみとめ、その対象が気になってしまうこと。それに名前をつける必要があると思うこと。実際に名前をつけるかどうかよりも、名づけの必要を感じること自体に詩のエッセンスがあるのです。
 冒頭で私が、詩を知るためには詩を読まなくてもいいと言ったのは、まずこのことに意識を向けてもらいたかったからです。
 私たちはふだん、どれくらい名づけをおこなっているのでしょうか。何かを見つける。目につく。いや、「あっ」と思うだけでいい。
すると、この事件を何らかの形で自分の中に配置したくなる。そのためには言葉が必要になります。欲しい、と思う。この事件にぴったりの場所が欲しい。どこかに行ってしまわないように、そこに立てる旗が欲しい。人に言いつけるための、便利な言い回しが欲しい。

 このように「欲しい」という気持ちとともに言葉に手を伸ばすことが、詩の第一歩だと私は思っています。

 詩とは、名づけられるべき、でも、未だ名づけられていないものと出会うための場なのです。あるいはそういう名づけられていないものと出会うことが詩だと言ってもいい。強烈な名づけの衝動に駆られることが詩なのです。
一度でもこうした体験をしたことがあるなら、あなたはすでに詩をしっていると言っていいでしょう。

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 FBには俳句を作られる方がたくさん居られる。吟行、お出かけ、散歩など出先で何かに出会い、何かを見たとき、
「あっ」と気づきその気持ちを表したいと思って言葉を探すーー「名づけ」。 句作はまさに詩の実践だ。
(続く)



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