01 | 運転免許更新 (4113回) | 歳時記は『型』か? (4114回) | 「違いの判る人〜?」 (4115回) |
02/03 |
![]() たしかコーヒーのCMだったと思うが、「違いの判る人・・・」というのがあった。 「違いの判るアナタだけに」と視聴者の味覚・嗅覚自慢に囁きかけて買ってもらおうと言う作戦だ。 味や香りの違いがあるのは間違いないが、その違いが値段の違いほどに差があるのか、と凡人は疑ってしまう。 話は飛ぶが、先日の新聞の俳壇にこんな句が載っていた。 《桃色の 春著の一人 駆け出して》 この句を見た瞬間、「春著」とは何だ? と疑問に思った。 しかし調べてみると、春著=春着 〈新年〉の季題だと分かった。(単なる私の知識不足) 桃色の晴着/振袖を着た娘さんが、デートの場所で恋人/友人を見つけ思わず駆け寄るという風景なのだろう。 微笑ましい情景だ。 「春着(晴着)」ならすっと頭に入るが、「春著」と書かれると、ハテナ?と思ってしまった。 それでも「春著」←「春着」(或いは「晴着」)と書いた作者の意図は何なんだろう? この僅かな違いを感じ取れないようでは、句作を鑑賞する資格はないと言うのだろうか? 同じようなハテナ?の例に「旧かな使い」がある。 《年玉や 孫ゐなければ 老いもせず》 初めの「い」を「ゐ」とするのなら、どうして「老い」を「老ひ」としないのだろう? 「孫ゐなければ」と「孫いなければ」との違いが私には分からない。 先日紹介した直木賞作家朝井まてか氏の言葉に、 『ねえ、奥さん、あの頃の朝顔の種のお値段、知ってはるぅ? とばかりに盛り込んでしまうと、 読者から「よう、調べはりましたねえ」なんて感想が舞い込む。私は半笑いを浮かべながら、 内心では、ああ、やっちゃったと肩を落とす。調べたことをいの一番に感心されると、小説の「負け」なのだ。』 とあったが、凡人が「春著=春着」に辿り着くにはかなりの努力と時間がかかってしまう。 そんな回り道をさせずに、素直に句の情景、良さを感じてもらう方が大切ではないのだろうか? きつい言い方をすれば、「自分はこんな用語(字)を知っている」という「上から目線」を感じてしまう。 それでも「春《著》の一文字で、句に深みが出ましたね」と褒めるのが礼儀なのだろうか? |
02/02 |
![]() 俳句については、私は素人の知識しかない。 5−7−5の言葉を連ね、言葉の中に必ず(歳時記で認められた)「季題(季語)」を入れる、という程度の知識だ。 歳時記にある「季題(季語)」の全てを頭に納め、 (或いは浮かんだ言葉が歳時記にあるかどうかを確かめ) 句作の時にどの言葉を使えば自分の気持ちを一番正確に顕せるかで呻吟する。 そういう過程、或いはそういう思考に熟達することが、俳人としての修業であり、 それは能や香道における『型の習得』と同じような意味合いなのだろうか? 国語辞書に、各出版社が工夫を凝らしたそれぞれの辞書があるように、 歳時記にも各会派独特の歳時記があるのだろうか? 先日『舟を編む』(三浦しをん著)を読んだが、「言葉は生き物だ」という。 以前使われていた言葉が使われなくなって『死語』となり、新しい言葉が生まれて「新語」が流行する。 辞書にもページ数という制約があるので、「死語を切り捨て」「新語を採録する」という作業に 神経を尖らせ、その良し悪しが辞書の評判を決めることになる。 先日、新聞で読んだが今の若者には、「縁側」はサザエさんの漫画に出てくる昔の家にあった設備?らしい。 要するに「縁側は、死語になりつつある言葉」だ。 「ガラケー」や「スマホ」が季題になるのかどうかは分からないが、 こういった新語?を作句に使う若者が出てくることは間違いないだろう。 歳時記が「生きた言葉の海」であるならば、「死語を切り捨て」「新語を採録する」という改定作業は 必要だと思うし、 改定遅れで「新語が使えない」とイライラされている俳人の方もいるのではないだろうか? |
02/01 |
![]() 運転免許を更新した。 70歳を超えると、高齢者講習が義務付けられるが、先日講習は無事に終わった。 動体視力、側面視野の検査、運転の機敏性などの検査もやったが、 レベルは「4」程度で、まずは安心できる範囲だった。 高尾警察署脇にある運転免許証更新センターに行き、15分ほどで手続きを終わり新しい免許証が貰えた。 期間は3年。次は、認知症テストを含む後期高齢者講習が必要となるらしい。 |