◆ 遍路吟 阿波の国 発願の道場 (9/21) ◆ 遍路吟(その1) 先日、昔歩いた遍路の日記を読み返していたら、「遍路吟」を作ることを思いついた。 その頃は俳句に特に関心は無かったが、ブログ日記と1万枚近い写真が残っているので、 これらを紐解き旅を思い出しながら 句を作ってみようと。 どうぞ皆さんもご一緒にお遍路に。 おそらく無季、当季外、破調の句が多くなるとは思うが、ご寛恕ください。 (そもそもこれが俳句か?と思われる方もおられると思うが、17音で川柳でなければ(凡)句ということになるはず) 遍路を歩きながら、毎日リアルタイムに日記と写真をネット(Cafesta)上にアップすることを思いつき、 モバイルPCと携帯を繋ぎネットに接続することにしたが、 当時(2003年)は144KbpsのCDMAが最速(Docomoは64Kbps)という時代だったので、 携帯をDocomoからAuに買い換えた。 《お遍路を巡る準備携帯替え》 ![]() ![]() 瀬戸大橋や明石海峡大橋が出来るまで、四国へは船で渡るしか方法がなかった。 清少納言や紀貫之なども使った鳴門の港が遍路の入口だった。 《阿波の国古式に倣いフェリーにて》 鳴門の港から西へ撫養(ムヤ)街道を歩いて1番札所霊山寺に行くのが古来からの道だった。 《鳴門から撫養街道経て霊山寺》 霊山寺の門前には、遍路のための用具、装束などを揃え売る店がある。 まずはこの店で必要なものを買い揃え、白衣に着替えてから霊山寺にお参りする。 《門前の店で装束整える》 ![]() ![]() お参りは初めての経験だが、周りに沢山のお遍路さんがいるので、見よう見真似でお参りをする。 線香と蝋燭をあげ、般若心経を読む。本堂と太子堂と二回がルールだ。 《初めての般若心経声震え》 お参りが済んだら、納経所立ち寄り納経帳に朱印を頂く(300円)。 《熟練の筆朱印受く納経帳》 《妻5kg自分8kgいざ次へ》 《一日に25kmをノルマとす》 1ケ寺で約30分を費やすので、6ケ寺お参りすると3時間。 25kmを6時間で歩くと合計9時間、朝7時に歩き始めて夕刻宿に着くのは4〜5時となる。 ⇒ お遍路(1) 【阿波の国・発願の道場】 (9/22) ◆ 遍路吟(その2) 季節は春、道端には桃の花や紫木蓮などが咲いていた。 《道野辺の紫木蓮に見送られ》 《極彩の朱い山門金泉寺》 ![]() ![]() 歩き遍路道は極力昔の道を歩くようになっている。 昭和になって整備された新道ではなく、旧街道や細い路地、田んぼのあぜ道などがある。 《あぜ道や旧街道をひたすらに》 簡単な案内地図は持参していたが、細かい部分は期待できない。 遍路道には、電柱、ガードレール、などなどに標識が貼られているので、特に二股道、曲がり角では標識を探してそれに従って歩く。 《角々の標識頼りに道をゆく》 最初の時(2003年)には、コンビニなどはほとんど無かった。 電車(徳島では汽車)の駅も無人駅が多く、 駅前には商店街や食堂があるという解かい東京)の常識は全く通用しなかった。 昼になったらどこか適当な場所で食堂を見つけようというのは甘い。 うっかりすると昼飯にありつけなくなるので、弁当は事前に用意するのが遍路歩きの常識だった。 ![]() ![]() 《お遍路の昼は徳島ぼうぜ寿司》 札所のお寺(或いはその近く)には、接待所が設けられていることが多い。 ご近所のご老人たちの憩いの場所でもあるようだ。 通り過ぎようとすると「ちょっと一休みしてゆきなさい」と声を掛けられ、 「何処から来たの?」などと会話が弾み、 食べ物、飲み物などを頂く。 これが何とも嬉しい。都会では考えられない親切だ。 《お接待にオロナミンCを頂いて》 (9/23) ◆ 遍路吟(その3) (歩き)遍路での基本は札所近くの遍路宿(民宿)に泊まるが、 宿坊に泊めてくれるお寺もあり、街ではホテル・旅館の選択肢もある。 #7札所の十楽寺に泊めてもらい、朝6時本堂での勤行に参加した。 《春曙 勤行に座す十楽寺》 ![]() ![]() この日は、#11藤井寺まで21kmの道程だった。 ![]() ![]() 《少し慣れ発願の道場山笑う》 《誰が履く大日寺の大わらじ》 《お遍路に連れ添うように雲流れ》 日中は歩いてお参りしてまた次へと向かう、の繰り返し。 特別に頑強でもなく訓練もしていない普通人にはかなり重い荷物を背負っての歩きは 身体にこたえ、足の裏には豆ができて、 どうしてこんなに辛い遍路を歩こうと思いついたのかと後悔もしきり。 景色を眺め愛でる余裕などは殆どないのが実際だ。 ようやくその日の宿にたどり着くと先ずは下着の洗濯から。 荷物を減らすために最小の下着しか持っていないので、毎日着替えては洗う。足に出来た豆を潰して手当をする。 それからコンデジの写真をモバイルPCに移し、日記を簡単にまとめ、ネットにアップロードする。 《宿に着き下着洗濯豆つぶし》 《写真セーブ日記をまとめアップロード》 ![]() 夕食は部屋食ではなく食堂のようなところが多い。周囲に居る人も皆お遍路の人たちだ。 《舌鼓心尽くしの地魚に》 《他地からの人と歓談春の宵》 《明日の天候旅程確かめ即寝に》 (9/24) ◆ 遍路吟 阿波の国(その4) 《行く春や四国三郎滔々と》 ![]() #11藤井寺から距離13km、一つ山越えをし次の山の上にある #12札所焼山寺は、八十八ケ寺の内の最大の難所とされ「遍路転がし」の名が付けられている。 藤井寺傍の遍路宿に泊まったが雨となり、朝になっても雨は止まず、宿のおばさんから 「この雨じゃ、山登りは無理だね」と忠告されたので、残念だが計画を変更してタクシーで向かうことにした。 《雨降らす蛙の鳴き声藤井寺》 #11札所 《春時雨遍路転がし焼山寺》 #12札所 ![]() ![]() 雨の焼山寺は深い霧の中だった。お参りを済ませて再びタクシーで大日寺へ行き、そこからは傘を差して歩くことにした。 《大日寺阿波一宮と向かい合い》 #13札所 《涅槃西風しあわせ観音のお出迎え》 《さすが阿波橋のたもとに踊り像》 《鮎喰川沿いに歩いて常楽寺》 #14札所 ![]() ![]() 八十八ヶ諸札所に国分寺はいくつかある。殆どの札所は空海の興した真言宗なので、国分寺は異例だ。 国分寺の建物は創建も古く、現存の建物も古びている。 《七重塔かつてありしと国分寺》 #15札所 《唐風の御堂岩船地蔵尊》 #16札所 《観音寺巨大な百度石燕舞う》 ![]() ![]() 井戸寺は天武天皇白鳳2年(673年)の創建。弘仁六年(815年)弘法大師が逗留し、 十一面観世音菩薩像を彫刻した時に、 当地の濁水を憐れみ、錫杖でもって一夜のうちに井戸を掘り清水が湧出した。 以降、寺を井戸寺、付近の村を井戸村と称するようになった。 《弘法が杖で掘りし井戸の寺》 #17札所 《本尊は国宝十一面観音さま》 お遍路を歩いていると、徳島独特の読み方に出会いびっくりする。 「熊谷寺」⇒(クマダニジ) 「府中」⇒(コウ) (9/25) ◆ 遍路吟 阿波の国(その5) 《牟岐線につかず離れず遍路行》 遍路道は勝浦川を渡る辺りから国道55号線と重なり、道に迷う心配はない。 東には小松島の街並みが見え、西は小さな山だが田園地帯と言う雰囲気が漂っていた。 ただ、55号線の傍には、新興の郊外型大型店、ファミリーレストランなどが出来ていて、 この辺りでも郊外化が始まっている様子だった。 途中、立派な遍路休憩所があった。 ロータリークラブが作り、町のボランティアの人が面倒を見ているようだった。 田んぼの真ん中に突然立派な老人介護施設があったりする。 2時間ほど歩き、大師お杖の水を過ぎて、55号線を離れて恩山寺へ向う田舎道を30分ほど。 《十大弟子彩像に拝礼恩山寺》 #18札所 《阿難なる聖の逸話春日和》 ![]() ![]() 《千体地蔵納めし庶人の祈り思う》 《孟宗竹の林を抜けて春深し》 《道端に何気に筍春惜しむ》 ![]() ![]() 《義経の戦の故事弦巻坂》 《若者は義経ドリームロード ハイキング》 《釈迦庵に四国最古の佛足跡》 【お京塚】へんろ振りする不逞の徒輩に対する天罰のいましめを顕彰する祈念塚である。 享和3年(1803)の頃のこと。大坂新橋で芸者嫁業中の お京 は、 要助なる者と深く契って脱走、親里に帰り夫婦となつたが、 いつしか密夫をこしらえ、遂に密夫を手引きして夫を殺し、 ともに讃州丸亀に上陸して四国巡拝を思い立ち立江寺まで来た。 お京の髪は逆立って寺の鉦の緒に巻き附き、不義の天罰を与えたという。 お京は茲に懴悔して真人間に還り、一心に地蔵尊を念じて当地で余生を終わったという。 ![]() #18札所立江寺は聖武天皇勅願により建てられ、行基が光明皇后の安産を祈って 「延命地蔵尊」(子安の地蔵尊)を作り、 伽藍を建立した。 行基の作った像は一寸八分と小さかったので、後に弘法太子が六尺の大像を彫りその胸に納めたという。 《苗代時立江のお地蔵さんと親しまれ》 #19札所 《六尺の地蔵の胸に行基像》 ![]() この日は井戸寺宿坊のお世話になった。勤行は夜行われ参加した。 (9/26) ◆ 遍路吟 阿波の国(その6) 《お遍路を試すかのごと山聳え》 ![]() ![]() 朝、食事を済ませて7時に立江寺を出発。一般道を歩いてやがて 勝浦川に沿って鶴林寺への参道のある生名をめざす。 このあたりの道には信号機がほとんどない。 朝の出勤の車が忙しく走っているが、 ある場所で女性の運転するミニカーが警官に停止させられていた。 ねずみ取りに引っかかったようだ。さらに500mほど行くと道端に目立たない形で速度計測器が置かれていた。 3時間ほどで鶴林寺への上り口、生名に到着。いよいよ山道を登る。 始めは比較的なだらかな道で、両側にみかん畑が広がっている。 水のみ地蔵で一休み、道は階段状の屋か道に変わり、勾配がきつい。 汗が流れ息が切れる。行けども行けども登りは続く。 もう勘弁して欲しいと思いだした頃、ようやく山上のバス駐車場に到着。ここからさらに900m歩いて鶴林寺に到着。(11時) #20札所 鶴林寺は「桓武天皇勅願の寺」。桓武天皇といえば、平安京を造った天皇で空海と同時代の人だ。 《本堂に鶴の双像鶴林寺》 《三重塔鶴を見下ろし春うらら》 ![]() ![]() お参りを済ませ昼食を摂り、山を下る。降りは息が切れることはないが、勾配がきついので、膝が疲れる。 50分ほど下り、一般道に出る。 元々の計画はさらに山道を登り太龍寺へ向かうはずだが、とても体力が続きそうにない。 計画を変更し山越えは止めて麓からロープウエイで上ることにし、 ロープウエイ乗り場までの7kmを歩く。 《バスはあれど日に三本で日中は無し》 《勝浦川流れ穏やか春深し》 《陽炎のロープウエイ駅道遠し》 ![]() ![]() ようやくたどり着いたロープウエイ駅に歌碑があった。 《川を超えまた山超えてもう一つ往きつく彼岸太龍の寺》 リープウエイは標高差550m(頂上駅は標高960m)をわずか10分で運んでくれた。 谷を隔てた舎心嶽に空海修行の像が見える。 《春霞舎心嶽に空海座す》 《苔むした二重の塔も厳かに》 ![]() ![]() お参りを済ませ再びロープウエイで下山。今夜の宿に入ったが、電波の状態は最悪。 宿のおばさんの話では、「Docomoは何とか受かるらしいけど、Auはねえ・・・・」ああ、無情。 《山奥はGPS地図も電波も役立たず》 (9/27) ◆ 遍路吟 阿波の国(その7) 《道野辺の地蔵に祈る無事遍路》 ![]() ![]() JR牟岐線、新野駅まで行き、そこから#22 平等寺を目指して歩き始めた。 駅を出て、いかにも遍路道らしいひなびた道を西へ向い、桑野川を越えると平等寺が山裾に見えてきた。 《人丸忌薬師如来祀る平等寺》 #22札所 ![]() ![]() 平等寺の門前には石造りの立派な寺標があった。 山門の仁王像も迫力がある。 山門をくぐると太子堂が見え、正面の石段(男坂、女坂)を登ると本堂に。 《仁王会(ニンノウエ)別れて登る夫婦坂》 《空井戸を護る擬宝珠や鐘霞む》 ![]() ![]() 寺伝によれば、空海がこの地で厄除け祈願をすると5色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が浮かんだ。 さらに薬師如来が現れたので、その場で錫杖で井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。 その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置したのに始まるという。 《弘法の奇蹟雲湧き如来と書》 《お大師は所構わず井戸を掘り》 《薬師彫る乳白の水で躰清め》 ![]() 平等寺から南へ山道の遍路道を歩く。50分ほどして、月夜御水庵に着く。 【月夜御水太師】 昔、弘法大師さまが四国修行のおり、ここに足をとめられ、手を洗おうとされたが、 あたりに水がなかったので、山の岸をつついたところ清らかな水が湧き出た。 それで身体を拭いたところ元気になられた。 その後各地から諸病の「大師加持水」として使うようになり、「お水大師」と伝えられるようになった。 弘法大師さまは裏山で三日月がかかっていたので野宿することになった。 やがて三日月は山の向うへ入り光がなくなった、 そこで弘法大師さまは一心にお経を唱えたところ三日月さんは元に戻り一夜を過すことができた。 そこで地名を月夜と名付けられたと伝えられた。 《月さえも大師の請いに後戻り》 【月夜御水太師の大杉】 高さ約31m、幹の回り約6.2m、樹齢約1000年と伝承されている。県内でも数少ない大杉である。 すべての枝は一度下を向いてから上に伸びていることから、別名逆杉といわれている。 伝説によると、弘仁2年(811)弘法大師さまが当地で薬師如来・不動尊を刻み、その杉を後世に残すため、 枝をさしたものだといわれている。( 昭和44年7月18日 天然記念物 市指定 ) 月夜御水大師の庵はとても古くあまり手入れもされていないようだった。 《月夜坂大師手植えの逆杉》 ![]() 月夜御水太師を過ぎ山を下ると福井川に出る。 《世界遺産登録目指す遍路道》 ![]() ![]() (9/28) ◆ 遍路吟 阿波の国(その8)発願の道場 完結 遍路道はさらに山を越えて薬王院(日和佐)へ向う。 ![]() 北河内川に沿って30分ほど歩くと日和佐の町、右手の山裾に薬王院、 左手の山の上には日和佐城が見えてきた。日和佐城の周辺は桜の名所のようだ。 《桜守いまもいますか日和佐城》 ![]() 門前・商店街の桜のデザインの街灯が可愛らしい。 ![]() #23 薬王院は、吉川英治の小説『鳴門秘帳』の舞台として有名であり、その石碑がある。 また司馬遼太郎の『空海の風景』にも記述があり、その一節を書いた石碑もある。 《春疾風鳴門秘帖に思いはせ》 《『空海の風景』再読桃の酒》 ![]() ![]() 女厄坂、男厄坂を登り本堂で参拝する。 《一段に一円落とし鐘供養》 ![]() さらに山の上には、瑜祇(ユウギ)塔がそびえているのが見えた。 観音菩薩の銅像、町天然記念物の大楠(二本)なども。 《風光る四本の九輪瑜祇塔》 《桜舞う日和佐見下ろす大観音》 ![]() ![]() 下を見下ろすと日和佐の街並み、その向こうには日和佐城や日和佐港が見えた。 日和佐の町は、「ウミガメの来る町」として有名だ。 以前NHK朝ドラ『ウエルかめ』の舞台にもなった。 ![]() 海岸に「日和佐うみがめ博物館」があったので見学した。 ウミガメに関して色々な展示があり、養殖しているウミガメも水槽の中で泳いでいるのが見えた。 《春の海浦島の亀悠々と》 ![]() 《発願の道場終えて春惜しむ》 ![]() ![]() ーーーーーーーーーーー 阿波の国・発願の道場の遍路はこれで終わり、次は土佐の国・修行の道場へと続きます。 ーーーーーーーーーーーー ◆ 遍路吟 阿波国・発願の道場を終えて 《回想の句を練る日々もまた遍路》 ふと思いついて、お遍路の時の日記や写真を振り返りながら、句を作ってみた。 この試みが上手くいったのかどうか、作った句が当時の感動を伝えられたかどうかは分からない。 しかしアルバムを開いて振り返るのと同じことで、その時その時の様々なエピソードが思い出され、 まるで3回目の遍路を歩いているような感覚もあった。 ![]() ![]() 句の出来栄えを別とすれば、一日歩いた思い出だけで10句位はすぐに出来た。 ある人が「一句を練り上げるのに一年かかることもある」と書いておられたが、そんなに手間暇をかけるのは私の本意ではない。 元々の実力からしても、推敲に時間をかけるのは、「下手な考え休むに似たり」だと割り切ることにした。 初めの内は無季の句が多かったが、段々と季語を探して入れ替えても、句趣を保てることに気がついた。 文章の達人なら、文章だけで人を惹きつけることも可能だ。 写真の大家もまた然り、俳句の熟達者なら「17音は独立する」で勝負されるだろう。 私のようなどれをとっても下手な横好き人間は、 (文章+句+写真)の三点セットで、「物語絵巻」として退屈はさせません、という作戦しかない。 (読者には旅行ガイドブックを開いたように、気に入る部分だけ見てもらえばいい) ![]() ![]() 毎回、二桁の数の人たちから”いいね”を頂いたから、全くの失敗ではないと思うが、 逆に毎回の句については何のコメントも頂けなかったので、鑑賞以前のダメ句揃いと言われたに等しくちょっと悲しくもある。 きっと俳人の方は、これだけの凡句を恥ずかしげもなく並べた度胸に”いいね”を下さったのだろう。 FB俳句大学投句欄及び”いいね”を頂いた皆さんには心からお礼申し上げたい。 ![]() ![]() 最初の遍路では、阿波国(春)、土佐国(夏)、伊予国(秋)、讃岐国(翌年春)と分けて歩いたので、 この後の回想遍路もこの順番、季節でまとめ結願まで続けようと思っている。 |
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