太公望(3)    宮城谷昌光著  文春文庫   01/12/1

 ひとを神々に贄(ニエ)として捧げる、そんないまわしい時代は去らねばならぬ。諸侯の協力を得て、周公を獄から救い出した 望は、さらに機略を尽くし周召同盟を成立させる。ここに叛意はととのった。宿望の日である。決戦の朝、牧野は清々しく晴れていた。

 望は照れたように笑い、頭をかるく掻いて、
 「私は羌族の出身だ。だが、ここには、四方の出身の者がいる。もしもわたしが邑を造り、邦を治めるようになったら、民族の 優劣をなくしたい。公平な政治をしたい」
 とおもいきっていった。拍手が沸いた。また望は笑った。ここで言ったことは、望の思いつきではない。信念である。一民族を 純正であるとし、他の民族を不純であるとして排抵するような公室や政府のあり方は、望の念頭に存在しない。他民族が寄り集まり、理想の邦づくりに 、協力し合って邁進するような邦が、この世にひとつはあってもよいではないか。望はかねがねそうおもっている。 事実、のちに望が樹てた邦であるには、その精神が生きつづけ、管仲のような異邦の偉材が宰相となってこの邦を富ますのである。

 ★ 太公望といえば、「釣りをしていた人」というイメージが浮かぶ。日本では釣り好きの人を太公望と呼んだりする。 この関連はどこから 生まれたのか。江戸時代の川柳に『釣れますか などと文王 そばにより』というのがある。太公望と周の文王との出会いを読んだものだが、 この時代の知識人はこの川柳を読むくらい、太公望と文王との故事を良く知っていたようだ。

   周王(文王)は3日間斎戒したのち、田車とよばれる狩り用の馬車に乗り、渭陽で狩りをおこなった。すると岩の上に白い茅を敷いて、 その上に座して魚釣りをしている男をみた。周王は近づいてねぎらいの声をかけた。
  「あなたは魚釣りを楽しんでおられるのか」
  「君子は志を得るのを楽しみ、小人は物を得るのを楽しむ。いまわたしがしている魚釣りは、それに似た意味合いがあるのです」
  「どのような意味合いがあるといわれるか」
  「釣りには三権があります。禄で釣るという権、釣ったあと殺すという権、あるいは釣ったあと官に任ずるという権がそれです。 釣りとは得ようとする欲求です。その趣旨には深いものがあり、釣りによって大きなものを観るべきです」
 と男はいった。周王はさらに近づいた。
  「どうかその趣旨をきかせてもらいたい」
  「糸が細く、餌がはっきりしていれば、小魚がそれを食べます。糸が中くらいで餌が香ばしければ、中魚がそれを食べます。 糸が太く餌がゆたかであれば、大魚がそれを食べます。そのように禄をもって人をとりつくすことができ、家をもって国をとろうとすれば、 国を奪うことができ、国をもって天下をとろうとすれば、すべてをとることができるのです」

  「人心を収斂して、天下をとるには、どうしたらよいか」
  「天下はひとりの天下ではありません。天下の天下です。天下の利を民と共有する者が天下を得て、天下の利を独壇する者は天下を 失うのです。仁のあるところ、徳のあるところ、義のあるところ、道のあるところに天下は帰するのです」
 こういった男こそ太公望であり、周王は話をききおわると再拝して、
  「まことにそうである。天の詔命を受けぬわけにはいかぬ」
 と、いい、太公望を馬車に乗せて帰り、師と仰いだ。

 太公望は周・文王の軍師となり、商倒壊の策を練る。商の受王は「酒池肉林の宴」で有名であり、決して愚昧な王ではないが、 神に奉げるため周辺の諸国に多くの負担を強いてきたため、諸国の恨みを買い人気が落ちてきている。それでも商は一声100万の 軍を集めるだけの力が残っており、攻略は容易ではない。
 太公望は南の召を味方につけるべく使者として出かけ召公の説得に成功し、共に商を攻める軍に参加することを約束させた。

 召が周に加担することを知った近隣諸侯も周に味方するものが増え、ついに周王は商王・受を倒すべく立ち上がるが、 病を得、志半ばで逝去する。そこで王子・発(武王)が遺志を継ぎ周軍と商軍との決戦が首都・朝歌の近くの牧野で行われ、 周軍が勝利し、敗れた商王・受は自殺、王妃・姐妃も縊死する。殷周革命は成り、周王朝が始まる。
  
   「娶嫁について、ゆるしを得たい」 と太子発は歯切れの悪い口調でいった。
  「結婚でございますか」
  「ふむ・・、すでにわしには婦がおり、数人の子もいる。が、正婦をさだめておらず、当然、世子も決めておらぬ」
  「存じております」
  「そこで、呂族から正婦を迎えたい」
  「わが族から・・・」
  「継どのだ。ゆるしてもらえようか」  望の心の中に苦笑が浮かんだ。

 (*継は物語の冒頭、商の兵に追われて望が一緒に逃げた幼い子供の一人だった。)
  
  周・商決戦の朝の様子を、『詩』は次のように形容している。

  牧野洋々たり (牧野の広さは はてしなく)
  壇車煌々たり (壇の兵車は きらめいて)
  駟原彭々たり (四頭の馬は 奮い立つ)

 『詩』はさらに「会朝、清明なり」といい、会戦のあさはすがすがしく晴れたことを証言している。

 ★ 商の時代の兵車は2頭立てだったが、太公望が四頭立ての馬車を発案し周軍に配備したとしている。

 ★ 著者の宮城谷さんはこの物語を太公望/周側から描いているが、反対の商王・受の側から書いた『王家の風日』という 作品も書かれている。あわせて読むとより理解が深まるだろう。
  また、この物語の中で、文王の弟/武王・発の叔父にあたる周公旦が重要な人物の一人として登場する。 後の春秋時代に生きた孔子が、理想とし復活させたいと願った『周礼』を作り上げたのが周公旦である。周公旦の話は別項で書きたいと思う。