ミニ遍路 #68-70 #78-82           2012/05/07-09          トップへ


ミニ遍路 #68--#70 、#78--#82  

讃岐へミニ遍路に出かけた。

(1日目) 鳴門駅 → 観音寺駅 → #68 神恵院、#69 観音寺、#70 本山寺 →宇多津駅(ホテル泊まり)
(2日目) 宇多津駅 → 国分駅 → #80 国分寺、#81 白峰寺、#82 根香寺 → 宇多津駅(ホテル泊まり)
(3日目) #78 郷照寺、#79 天皇寺 → 八十場駅 → 高松駅経由 鳴門駅

今回は、宇多津駅を拠点にして小さなナップザックだけを担いで歩いたのでかなり楽だったが、
二日目の白峰寺、根香寺は500mクラスの山で焼山寺に次ぐ”へんろ転がし”の難所でしんどかった。

(一日目)朝、鳴門駅から汽車に乗り、昼ごろに観音寺駅に到着。歩きはじめた。

#68 神恵院、#69 観音寺は、隣り合った場所(一つの境内)にある。
寺域はびっくりするほど狭いが、夫々本堂と太子堂があり、山の斜面を上手に使った植え込みや池がある。

山門は両寺共通で、立派な仁王様が護っていた。

  銭形砂絵 

#68 神恵院、#69 観音寺、両寺の裏は小高い山となっていて、
そこに登ると町の名物、琴弾(コトヒキ)公園の銭形砂絵(ぜにがたすなえ)を眺めることが出来る。

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銭形砂絵(ぜにがたすなえ)は、香川県観音寺市にある寛永通宝を模した巨大な砂絵である。
縦122メートル、横90メートル、周囲345メートルの楕円形をしており、琴弾公園山頂の展望台からみると真円に見える。夜になるとライトアップされる。

謂れは「1633年(寛永10年)に、丸亀藩藩主の生駒高俊侯が領内を巡視することになった折、土地の人々が歓迎の気持ちを現わすため、急遽白砂に鍬を入れ一夜にして作りあげて藩主に捧げた」と伝えられているが、寛永通宝が鋳造されたのは寛永13年(1636年)からであり、その点でこの伝承には矛盾がある。

例年春季と秋季の「銭形化粧直し」や、台風などで砂が流されたりした際には、市民総出で補修工事が行われる。

「銭形」にちなみ、世界中の貨幣を展示する「世界のコイン館」が琴弾公園内に設置されている。

琴弾廻廊  

琴弾公園のある”有明浜”に、”入浴施設・琴弾廻廊”があったので、休憩に入った。
ここは西に面していて、”夕陽を見る町・観音寺”を代表する場所だ。

トイレの案内板が面白かった。

#70 本山寺  

琴弾公園、有明浜から財田川に沿って東へ歩いて行くと、前方の森の中に五重塔 が見えてくる。

本山寺の本堂は、国宝に指定された立派な建物。
横に時代の古い五重塔も立っていた。

境内に2匹の馬を見つけた。
神社では神馬がいるのはよく見かけるが、お寺では珍しいのではないだろうか?

本山寺のお参りを終え、JR本山駅へ。汽車をつかまえ、宇多津駅へ。今夜はホテルだ。
(2日目) 順番を少し変えて、今日はきつい山道に挑戦することにした。
JR宇多津駅からJR国分寺駅まで行き、歩きはじめる。

#80 讃岐・国分寺  

天平十三年、聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基によって建立された寺。

国分寺は、天平当時の国毎に建てられたので、四国にも4つ、全国に70ほど建てられた。
(現在では、跡地だけになっているものも多い)

この讃岐・国分寺も創建時の建物ではないが、かなり古い立派な本堂だ。
山門も銅葺き屋根の重厚な建物だった。

創建当時は朱塗りの七重塔が建っていたそうだ。

ミニ八十八ヶ所  

#80 讃岐・国分寺の境内には、「ミニ八十八ヶ所」が作られていて、
#1番から#88番までの仏様がずらりと並んでいた。

これを順番にお参りすれば、八十八ヶ所霊場にお参りしたのと同等のご利益があるという。
一つずつお経を唱えたとしても、一時間もかければ満願だ。

安チョコ過ぎる気もするが、忙しくて時間のない人には良いのかも知れない。

金箔貼り  

やはり境内に、「金箔縁結び」と「願かけ金箔大師」があった。
寺務所で金箔(一枚300円)を買って、貼り付けるとご利益があるという。

縁結びが叶うならと、貼り付けるカップルも多いのだろう。
お金儲けの上手な寺だ、と思った。

ぴんころ守 

齢を取った人たちには、”健康で元気に過ごし、死ぬ時はポックリ”という願いが強い。
四国霊場には、「ポックリ寺」と言われる寺もいくつかある。

観音寺で、「ぴんころ守」というのを見つけ、買ってきた。

ピンピンーコロリ”という願いを叶えてくれそうだ。

七福神  

この寺には、「七福神」も揃っていた。

本来は、”弁財天”さまを祀るらしいが、残りの福神さまもお揃いだ。

七福神巡りは、各所にあるが、普通は一寺一福神で、七カ所を巡るのが楽しみだ。
だが、この寺に参れば七福神に一遍にお参り出来るらしい。

ミニ八十八ヶ所と同じく、忙しい人に便宜を図ろうと言う有難い意図だろうか?

五台山にある#81 白峰寺、#82 根香寺へ  

讃岐・国分寺のお参りを済ませ、いよいよ五台山にある#81 白峰寺、#82 根香寺 へ向う。

前方に500m級の山塊 が待ち受けている。急な斜面を登り、稜線に辿り着く。
昔は大きな「一本松」が目印だったが、松は枯れてしまい、今は小さな「新一本松」が植えられていた。

左へ道を取ると自衛隊の演習場の横を通り、#81 白峰寺へ。
白峰寺からの帰りは、遍路道を辿り右方向だ。




  #81 白峰寺  

稜線の道路から100mほど下っていくと、「摩尼輪塔」「下乗」の石があった。
お寺が近いという印。どんなに貴い人もここで乗り物を降りる規則。

本堂、太子堂の他にも生まれ歳(干支)に応じてお参りする幾つかの堂があった。
この寺は、大黒天 も祀っている。

境内にシャクナゲがきれいに咲いていた。

  閼伽井 と 丁石  

白峰寺から#82根香寺へは、昔の遍路道(山道)を通って行く。

途中、「閼伽井(アカイ)」跡があった。
閼伽井とは、神仏にささげる水の湧く井戸のこと。
遍路の人はこの井戸で冷たい水で喉をうるおし、手を清めた。

丁石」は、○○丁と刻まれた石仏で、あとどれ位歩くのかの目安になる。
(新しく立てられた丸木の丁木?もあった)

遍路道は市民のハイキングコースにもなっていて、野鳥観察の説明 の看板もあった。

#82 根香(ネゴロ)寺  

遍路道から稜線の県道に出て、最後はまた少し山道を下ると#82 根香寺

山門には大きなわらじが奉納されていた。

本堂の奥に、万体観音 が祀られていた。
昔からたくさんの檀家信徒の人たちが納めたものだろう。

 白猴欅(ハクコウケヤキ)  

智証大師が当山開基の時、この樹下に山王権現が現れ、
また白い猿 が下りてきて大師を守護し創業を助けたという伝説があるらしい。

欅の木は周囲約7m、樹齢は1600年と推定されているが、
昭和50年頃に枯れてしまい、今は根元付近の幹だけが保存されている。

お参りを済ませた後、ひたすら山道を下り、JR鬼無駅を目指して歩いた。
この辺りは、植木、盆栽を育てているらしく、盆栽街道の名前も見られた。

 JR鬼無駅  

今日の歩きは、35000歩、22km ほど。さすがに疲れた。

鬼無駅(きなしえき)は、香川県高松市鬼無町佐藤にある四国旅客鉄道(JR四国)予讃線(瀬戸大橋線)の駅。駅番号はY02。
駅表示パネルのコメントは「桃太郎と盆栽の駅」。

駅の周辺には松の盆栽畑が広がる。鬼無駅周辺の地、鬼無は桃太郎伝説の発祥地のひとつ である。
桃が流れてきたといわれる本津川、おじいさんが柴刈りに行ったといわれる山などもある。
ただしこれらの話は創作である可能性が指摘されている。

勝賀山には香西氏が中世にたてた勝賀城址 がある。石垣などが残る。

桃太郎が「鬼を退治してしまった」から、「鬼無」なのだろうか?

「鬼無」という地名は、信州・長野市鬼無里地区の方が有名だろう。
飛鳥時代(あるいは白鳳時代)に鬼無里に遷都の計画があったとされる伝承。
『日本書紀』には信濃への新京設置計画が記録 されているそうだ。
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鬼無駅から再び宇多津駅へ戻り、昨夜と同じホテルに泊まった。

(三日目)
#78 郷照寺 (3542回) 

JR宇多津駅から30分ほど歩いた場所、宇多津港を見渡す高台に、#78 郷照寺 がある。
奈良時代(725年)の開基で「厄除うたづ大師」として信仰を集め、
門前には、「開運大吉地蔵」も祀られていた。

本堂などは、17世紀に建て直されたものだ。
お堂の天井に見事な花の彫り物があった。

また地下蔵のような場所に、「万体観音像」が祀られてもいた。

さぬきの三大ポックリさん  

境内に、如来様、地蔵様の石像が祀られ、「さぬきの三大ポックリさま」と看板が。

「ピンピン、コロリ」「ポックリ」はどの寺に行っても大流行りのようだ。

お守りや枕カバーなども売られている。

ポックリの願いがかなうなら、安いものだろうか?

#79 天皇寺と白峰宮  

郷照寺から#79 天皇寺 までは歩いて2時間ほどの距離。
だが、郷照寺を出た頃に急に雨が降り始めたので、宇多津駅に戻り、電車で八十場駅へ行った。

八十場駅から#79 天皇寺へは5分ほどの距離。
寺の前に、天皇寺と彫られた巨大な岩 が目に飛び込む。
その横には、「崇徳天皇白峰宮」と書かれた標識もあった。

今大河ドラマでやっている平清盛に、崇徳上皇と後白河天皇が戦う保元の乱(1156)の話がある。
戦いは後白河側(平清盛)の奇襲で決着がつき、崇徳上皇は讃岐に流された

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崇徳上皇は讃岐に流された後、後白河朝廷に対する激しい恨みをあからさまに表現します。
我魔性となり王を奪って下民となし下民をとって王となし、この国に世々乱をなさん」と言い、 自らの血で大乗経を書き、
「この写経の功力を三悪道に投げ込み、その力をもって日本国の大魔縁とならん」と言って、
その経を瀬戸内海に沈めて呪詛をしたと言います。
そしてその後、爪も髪も切らずに、日々凄まじい形相になっていったと言います。

都では上皇の不穏な動きを聞くに付け、状況調査の為平康頼を派遣しますが、
康頼は「院は生きながら天狗となられた」と報告しています。

崇徳上皇は保元の乱の9年後に45歳で没しています。死因は特に語られていませんので病死と思われますが、 ここに暗殺説というのが昔からあります。

上皇の遺体は葬儀に関する指示を待つ間八十場の霊泉に20日間漬けていたとされますが、その間全く様子が変わらず生きているかのようであったといいます。
こういう話が伝わるのも如何に上皇の怨念が凄まじかったかということを伝えるものでしょう。

 ところてん  

天皇寺のすぐ近くに、「八十場名物ところてん」を食べさせる店があった。

昔から、きれいな水が湧きだす場所だったようだ。

お参りの後で、冷たく冷やしたところてんは、とても美味しかった。


 うどん県 高松城  

天皇寺のお参りを終え、今回の遍路は終了。
高松に出て、鳴門へ帰る汽車待ちの間に、高松城を見学した。

駅の看板、またディスプレイに「うどん県」という文字が。
高松城公園では、「鯛願成就」という幟が立っていた。
何かのイベントが行われているようだった。

讃岐のこの辺りの車窓からは、子供の絵本に出て来るような「山」が見える。
何故だか懐かしさを覚える風景だ。