南淡路ドライブ                2012/01/18               トップへ


 丘の上の発電風車群  

 鳴門海峡大橋のある鳴門公園から対岸の淡路島を見ると、西側にたくさんの発電風車が立っているのが見える。
風車を近くで眺めてみたいと思い、出かけてみた(1/18)。
良く晴れて風も無くとても良い天候だった。

 高速道・南淡路ICを降りて海岸沿いに西に向かうと、西淡町阿那賀、阿那賀港の近くから丘の上の風車が見え始めた。
丘を登って行くと晴海が丘という住宅・別荘地が広がり、その上の丘の上に15基の風車が立っていた。
 この日は風が無いせいか風車は回っていなかった。

 風車のすぐ下までは道も無く行かれなかったが、たくさんの風車の林立を見たのは北海道以来だった。
原発問題で関西・四国も節電を強いられている。
風車が電力の問題を救ってくれることを期待したい。


海釣り公園  

 風車の丘を降り、阿那賀港へ出た。
堤防の傍に大きな海の展望広場があった。子供連れの人には嬉しい施設だ。
港から突き出た弁天島は 丸山海釣り公園 となっていて、有料(1000円)だが海釣りが楽しめる場所のようだ。

管理事務所もあって、餌や貸し釣り竿も用意されていた。

大橋を渡るが家からは25kmほどの近さだ。 折を見て釣りに来てみようと思った。


 どんな魚が?  

 海釣り公園の近くの食堂で煮魚定食を食べた(1000円)。
ガシラ(カサゴ)とカワハギが新鮮で美味しかった。

 壁に海釣り公園のポスターが貼ってあった。これによると、

  1月:タコ   2月:ヒラメ   3月:ガシラ   4月:チヌ
  5月:眞鯛    6月:鰆   7月:ベラ   8月:スズキ
  9月:太刀魚   10月:カレイ  11月:カワハギ  12月:穴子


などが釣時らしい。 うまく2〜3尾も釣れたら入漁料は安いものだ。

   
 波止に「小さいアオリイカを釣った時はリリースして下さい」との注意書きが。  養殖をしていて、大きく育つまで見守ろうという事のようだ。


 慶野松原  

海岸に沿って北へ向い、慶野松原へ。

慶野松原
 慶野松原(けいのまつばら)は、淡路島の西側、播磨灘に面した兵庫県南あわじ市松帆古津路から松帆慶野?にある松原である。

 三原川河口北側の砂浜、約2.5kmに渡って約5万本のクロマツ林が広がる景勝地である。
 様々な枝ぶりを見せる松林内には、1997年(平成9年)に地域特産の淡路瓦をふんだんに用いた「プロポーズ街道」の名の散策路が整備されている。
また、播磨灘に沈む夕陽や遥か沖合に浮かぶ小豆島の姿が美しい。
さらに北には、兵庫県の郷土記念物に指定された5色の小石が美しい五色浜が続いている。

古くは柿本人麻呂によってこの地が『万葉集』に詠まれている。国民宿舎慶野松原荘の北側にはこの歌碑が建てられている。

 ◆  飼飯(けひ)の海の 庭よくあらし刈薦(かりごも)の 乱れ出づ見ゆ 海人(あま)の釣船

この浜はチドリの生息地だという。百人一首の歌を思い出した。

 ◆ 淡路(あはぢ)島 かよふ千鳥の 鳴く声に  いく夜寝覚めぬ 須磨の関守(せきもり)

         源兼昌(78番) 『金葉集』冬・270

 五色温泉  

 五色浜の辺りはサンセットラインと名付けられていた。
小高い丘の上に立派なスポーツ公園・アスパ五色があった。(洲本市五色町都志)

 また少し北にウエルネスパーク五色という施設。
ここには、温泉、洋ランセンターなどがあったので、温泉で一休み(600円)。

どれも立派な施設だったが、休日以外はそれほどの観光客が来るとも思えない。
淡路に高速道が通る時に、道路公団から金が落ちたのではないかと話し合った。


 高田屋嘉平と日露友好  

 ウエルネスパーク五色は公園にもなっていて、高田屋嘉平の日露友好の像が立っていた。

 【高田屋嘉平
淡路島(現在の兵庫県洲本市五色町)の農民の子として生まれる。
漁業に従事し、18歳で兵庫へ出て廻船業者を志して出て、淡路と大坂とを往復する瓦船に乗る。
1790年に樽廻船の水主から、船頭となる。紀州での鰹漁や、和泉屋伊兵衛のもとで船頭となり酒田へ航海して資金を貯める。
寛政7年(1795年)には、兵庫の北風家の助けを得て、庄内で1700石積の辰悦丸を建造し本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。

幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。また、箱館(函館)の北洋漁業の基を築いた功労者である。近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路開拓を行った。
択捉島は鱒・鮭が豊富で、嘉兵衛は17ヶ所の漁場を開き、島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え、彼らの生活向上に資した。

享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した。

文化9年(1812年)幕府によるロシア船ディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン幽囚の報復として、嘉兵衛は国後島で副艦長のリコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、翌年帰国。帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無いことを納得させ、人質解放に尽力した。
また、幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられた。1818年に隠居し、59歳で死去。

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露寇」という言葉を見たことがある。
幕末、ロシアが国交を迫った時、元寇になぞらえた言葉だ。
しかし高田屋嘉平は開国派の思想の持ち主だったようだ。

 彫刻が  

 公園には色々な彫刻 が立っていた。
瀬戸内少年野球団」(夏目雅子主演) の群像と
作者・阿久悠(洲本市出身)の「あの時 空は青かった」の碑があった。
終戦後の淡路島における、野球少年らの青春の日々を描いている。
(1979年度下半期の直木賞候補作品。)

句碑などもあった。
広々として、日だまりを浴びながら散歩するにはとても良い場所だ。
四国は暖かいせいか、鉢植えのチューリップが咲き始めていた。
池の鴨が怖がらずに寄って来たので、土産に買った煎餅をやると争って食べていた。

   

またこの五色町の海岸にも風車が一本 立っていた。    

帰りは洲本ICから高速に乗り帰った。往復約100km強、(高速代2000円ほど)。