![]() #12の焼山寺は、「へんろ転がし」と言われる難所の一つだ。 #11の藤井寺から山越えで12.3km、次の#13大日寺までは26kmもある。 今回は難所#12をパスして、#13から#19までを歩くことにした。 徳島駅から市バスで大日寺近くまで行き、そこから歩き始めた。 #13 大日寺 −− #14 常楽寺 −− #15 国分寺 −− #16 観音寺 −− #17 井戸寺 −(徳島で宿泊)− #18 恩山寺 −− #19 立江寺 −− JR立江駅から帰宅 |
![]() 徳島駅からバスで約30分、一宮札所バス停で降りるとすぐに#13大日寺に。 道の反対側には、阿波国一宮神社がある。 境内には、地蔵、観音、しあわせ観音像、剣に巻きつく龍の像などもあった。 お参りをして、手作りの小さな仏像も奉納した。 次の#14常楽寺へは30分ほど。 鮎喰川に沿ってしばらく歩き、橋を渡り北へ向かう。 途中、水門に新しい種類の遍路標識を見つけた。 |
![]() 道の途中で、ギンギラギンのデコ・トラックを見た。 一頃はずいぶんと流行ったが最近はあまり見かけない車だ。 トラックの扉には、阿波踊りの絵が描かれていた。さすが徳島! 石屋があり、相田みつをの言葉を書いたものがあった。 ・あとじゃできねんだよなあ。いまのことはいましかできぬ。 ・その時の出逢いが人生を根底から変えることがある。よき出逢いを。 ・うつくしいものを美しいとおもえる あなたのこころがうつくしい。 ・生きていて よかった。 |
![]() きつい階段を登って境内に入る。 本堂、太子堂はかなり古い建物だった。 本堂の前に、樹齢数百年以上大きな木があった。 石の観音像や鐘楼は最近造られたもののようだった。 納経所の戸に貼られていた、 ・喜びは心の中から生まれるのです 境内につわぶきがきれいに咲いていた。 |
![]() ビールやジュースのアルミ缶を細工して、風車にしたものを所々でみかけた。 何個かを縦に繋げたものが風に舞っている様子は楽しいものだ。 秋空の下、田園地帯を歩くと、色々なものが目を楽しませてくれる。 葉をすっかり落とし、赤く色づいた柿は青空と良く似合う。 紫色の花(名前は分からない)、黄色い葉鶏頭などなど。 |
![]() #14 常楽寺から15分ほどで、#15 国分寺に着く。 この寺は天平12年(740年)国分寺造営詔勅によって建てられた。 現在の建物がいつ頃のものかは知らないが、本堂の形はとても古い様式だ。 境内に「七重塔心礎」という大きな石の遺跡があり、 七重塔も天平年間の建立されていたと推測されている。 また国分寺の少し手前に、岩船地蔵尊という真っ赤に塗られた中国様式の建物があった(右下写真)。 |
![]() 国分寺から南へ、およそ30分で#16 観音寺へ。 古いが立派な山門が構えていた。 本堂は比較的新しいが、太子堂はやはり古い。 境内に、石造りの弘法太子の像や地蔵尊が建っていた。 お百度石はお寺でよく見かけるが、ここの百度石は大きかった。 |
![]() 道をさらに南へ向い井戸寺を目指す。 途中、「国府町」という場所を通った。 町の中心部の交差点の名前に、「府中 KOU 」というのがあり不思議だった。 普通は、府中→フチュウ と読むはずだ。 しばらく歩くとJRの踏切に出た。 ここで「府中東 踏切」に「こう・ひがし」と振り仮名が付いていた。 以前住んでいた八王子に、「廿十里 とどり」という地名があった。 廿十=十(とう)と十(とう) が訛って「とど」ということだ。 地名・人名は難しい・・・・ |
![]() 境内にあった井戸寺縁起によると、この寺は天武天皇の勅願により 白鳳二年(673年)に建てられた。(元の名は瑠璃山妙照寺) 弘仁六年(815年)弘法大師が逗留し、十一面観世音菩薩像を彫刻した時に、 当地の濁水を憐れみ、錫杖でもって一夜のうちに井戸を掘り清水が湧出した。 以降、寺を井戸寺、付近の村を井戸村と称するようになった。 七難即滅 七福即生 開運厄除 難病平癒 の霊験あらたかだとされている。 本尊国宝十一面観音や不動明王も祀られていた。 |
![]() 井戸寺のお参りを終え、今日は徳島へ戻り泊まることにした。 途中、広々とした場所に大きな煙突が。ゴミ焼却場の煙突だった。 さらに進むと前方に不思議な形の塔が見えた。仏舎利塔?にも見える。 民家の人に「あれは何ですか?」と尋ねたらなんと 「NTTのアンテナの塗装工事のため覆いを被せている」とのことだった。 普通の家でも壁を塗り替える時は覆いをかけるからそれと同じだった・・・ 佐古駅に近い辺りで歩き疲れたのでバスをつかまえて徳島のホテルへ戻った。 |
![]() 翌日朝、徳島のホテルを出てJR牟岐線で地蔵橋駅まで行き、そこから恩山寺を目指して歩き始めた。 遍路道は勝浦川を渡る辺りから国道55号線と重なり、道に迷う心配はない。 東には小松島の街並みが見え、西は小さな山だが田園地帯と言う雰囲気が漂っていた。 ただ、55号線の傍には、新興の郊外型大型店、ファミリーレストランなどが出来ていて、 この辺りでも郊外化が始まっている様子だった。 途中、立派な遍路休憩所があった。ロータリークラブが作り、町のボランティアの人が面倒を見ているようだった。 田んぼの真ん中に突然立派な老人介護施設があったりする。 2時間ほど歩き、大師お杖の水を過ぎて、55号線を離れて恩山寺へ向う田舎道を30分ほど。 途中、「源義経上陸の地」の石碑があった。 恩山寺は小山を登ったところにあった。 |
![]() 恩山寺の古い朽ちかけたような山門を通り、急な坂道を登ると、 石段が見えてきた。参道を掃除していたおばさんが僕たちの姿を見て、お接待にとアメをくれた。 本堂、太子堂、鐘楼などかなり古い建物だった。 大きな地蔵尊(銅像)と信者が奉納した小さい千体地蔵などがあった。 また木造の地蔵尊や「彩色の十大弟子の木像」が飾られていた。 十大弟子とは、釈迦(釈尊)の弟子達の中で主要な10人の弟子のこと。 舎利弗(しゃりほつ) 、摩訶目?連(まかもっけんれん) 、摩訶迦葉(まかかしょう) 、 須菩提(しゅぼだい) 、富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし) 、摩訶迦旃延(まかかせんねん) 、 阿那律(あなりつ) 、優波離(うぱり) 、羅?羅(らごら) 、阿難(あなん) |
![]() 恩山寺から#19 立江寺へ向う遍路道に「弦巻坂」という場所がある。 義経軍が釈迦庵から恩山寺へ登る坂の向こうに敵兵がいないことを探知して弓の弦を巻かせたので、 ここを弦巻坂という。 この一帯は義経軍にまつわる故事がたくさんあるので「義経ドリームロード」というハイキングコースも設定されていた。 【釈迦庵】 ここに四国で唯一、最古の 佛足跡 がある。 三国伝来佛足跡之図、南都薬師如来寺所珍蔵之者他 の銘文がある。 奈良薬師寺の 佛足跡 と同じ法量を持つ。400年以上も前に置かれたものらしい。 |
![]() 途中にお京塚というのがあった。 へんろ振りする不逞の徒輩に対する天罰のいましめを顕彰する祈念塚である。 享和3年(1803)の頃のこと。大坂新橋で芸者嫁業中の お京 は、要助なる者と深く契って脱走、親里に帰り夫婦となつたが、いつしか密夫をこしらえ、遂に密夫を手引きして夫を殺し、ともに讃州丸亀に上陸して四国巡拝を思い立ち立江寺まで来た。 お京の髪は逆立って寺の鉦の緒に巻き附き、不義の天罰を与えたという。 お京は茲に懴悔して真人間に還り、一心に地蔵尊を念じて当地で余生を終わったという。 肉髪付鉦の緒の由来の主人公の塚である。 「遍路に発心を聞くな」との言葉がある。 いろんな事情で歩いている。沢山の遍路が一人づつの動機で。 お京塚はそんな遍路の心を思わせた。 |
![]() 恩山寺から#19 立江寺までは、山を下りながら約2時間。 立江川の朱塗りの立派な橋を渡って立江寺に入る。 この寺も聖武天皇勅願により建てられ、行基が光明皇后の安産を祈って「延命地蔵尊」(子安の地蔵尊)を作り、 伽藍を建立した。 行基の作った像は一寸八分と小さかったので、後に弘法太子が六尺の大像を彫りその胸に納めたという。 天正年間に兵火にあい御本尊を残して灰塵に帰したが、蜂須賀家によって再建され、 「子安の地蔵尊」「立江の地蔵さん」と呼ばれ信仰されている。 この寺には宿泊施設があり、前回(2003年)の時は泊まらせてもらい、翌朝の勤行に参加した記憶がある。 また般若心経の経本をもらい、今もお参りの度にその経本を読んでいる。 立江寺のお参りを済ませ、近くのJR立江駅まで歩き、帰宅した。 |