![]() 10/11-12に、讃岐の5寺を歩いてきた。 #84 屋島寺 −−#85 八栗寺 −−#86 志度寺 #87 長尾寺 −−#88 大窪寺 屋島寺のある山へは、以前ケーブルカーがあったが、今回行ってみると廃止されていた。 高さ300mほどの山登りの参道は、広く整備されていたが、苦しいことに変わりはなかった。 お参りを済ませ、下りは昔の遍路道を下ったが、かなり急な坂道でとても足・腰が疲れた。 この辺りは昔、源氏と平家が争い決戦場(壇ノ浦合戦)となった場所で、 那須与一の扇の的、義経の八艘跳びなどの史実が伝えられている。 来年の大河ドラマでまた脚光を浴び、観光客が戻るだろうか? |
![]() #85 八栗寺は、面白い尖った形の山・五剣山の中腹にある。 神仏混淆で本堂、太子堂などと共に、水天宮(歓喜天)を祀っている。 ケーブルが動いていたので利用させてもらった。 この辺りにも、「源平合戦総門碑」など歴史を偲ばせる史跡がある。 |
![]() #86 志度寺には、立派な五重塔があった。 山門の仁王様の前には、巨大なわらじが奉納されていた。 また、境内でお参りを済ませると、地元の人が「お接待です」と紙袋に入ったアメを。 歩いて疲れた体には有難いアメだった。 |
![]() 志度寺の傍に、平賀源内の墓所がある。 エレキテル(発電機)や防火石綿(アスベスト)で知られる源内はこの辺りの出身だ。 志度寺の参道に当たる街並みは、源内通りと名付けられていた。 ひらが-げんない 【平賀源内】(1728-1779) 江戸中期の本草学者・戯作者。本名国倫(くにとも)、字(あざな)は子彝(しい)、号は鳩渓。 筆名、風来山人。浄瑠璃作者名、福内鬼外(ふくうちきがい)。 讃岐の人。長崎・江戸で本草学・物産学・国学・蘭学を学び、物産会の開催、火浣布(かかんぷ)の考案、エレキテルの実験、鉱山の開発など自然科学・殖産事業に活躍。 また、戯作・浄瑠璃にも手を染めるなど鬼才ぶりを発揮。 門弟を斬り、捕らわれて獄死。著「風流志道軒伝」「根無草」「風来六部集」、浄瑠璃「神霊矢口渡」など。 |
![]() 遍路道には、ところどころに休憩所が作られている。 大部分は、地元の人たちの好意によってだ。 屋根つきの小屋、屋根とベンチ、ベンチだけの場合もある。 いずれにしても歩いてきて、ちょっと一休みしたい時に休憩所を見つけると実にうれしい。 背中の荷物を下ろし、一休みして水分を補給する。 あまり長い時間休むと、再び歩き出すのが辛いので、そこそこ休むとまた歩き出す。 |
![]() 長尾寺の山門には、釣鐘 があった。 朝晩の勤行で鳴らすのだろうか? 境内に樹齢何百年も経つ立派な大楠があった。 また山頭火の句碑「人生即遍路」が建てられていた。 ここから最後の大窪寺までは約16kmの長い登りとなる。 |
![]() 大窪寺へ向かう途中に、お遍路交流サロンがある。 2004年に歩いた時、このサロンで「遍路大使任命書」をもらった。 一休みしながら話を聞くと、任命書の発行は延べで3000人ほど になるという。 毎年は300人前後。 今年は震災の影響か、例年よりも少ないそうだ。 最後の登りはきついので、交流サロン(道の駅)からコミュニティバスに乗り、大窪寺へ。 |
![]() 大窪寺へお参りすると、めでたく「結願」となる。 門前の茶店では、結願をねぎらう「結願定食」「結願うどん」などのメニューがある。 今回は、つまみ食いの歩きで結願ではないが、栗の入った赤飯の定食を食べることにした。 なんだか嬉しく、とても美味しかった。 大窪寺で結願すると、山を越えて1番札所・霊山寺へ戻り報告をするのが正しいやり方。 しかし午後も過ぎてから山越えはきつすぎるので、またコミュニティバスの世話になり志度の町へ戻った。 |
![]() 志度の駅前で汽車を待つ間、喫茶店でコーヒーを頼んだ。 美味しそうなケーキも付き、おまけに饅頭が一つ。 店の人が、「お遍路さんにはお饅頭をお接待します」と。 讃岐の銘菓「かまど」だった。 こういう形のお接待は初めてだった。 |