しまなみ海道                2011/09/12               トップへ





しまなみ海道】は、尾道ー(新尾道大橋)−向島ー(因島大橋)−因島ー(生口橋)ー生口島ー
(多々羅大橋)ー大三島ー(大三島橋)−伯方島ー(伯方・大島大橋)−大島ー(来島海峡大橋)−愛媛県。

しまなみ海道ー因島水軍城 (3307回) 

因島で「因島水軍城」を見学した。

        

村上水軍
村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海[1]で活動した水軍(海賊衆)である。
その勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれた。
彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されている。
また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は航行船の破壊、略奪、信書の開封破棄等を通じた同盟関係の分断である。
20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている[2]。
代表的な表紋は「 丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。

「起源」

これら三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。
その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。
平安時代に活躍した村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の永暦元年(1160)に越智大島[3]に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。

越智大島を始め伊予各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの寺社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。

また能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。
因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。
また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。

この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。

「村上水軍の活動」

文献史料上、最も古い記録は1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたという。
南北朝時代には、因島、弓削島などを中心に瀬戸内海の制海権を握っており、海上に関を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていた。

戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。
来島村上氏は河野氏に臣従し、村上通康は河野姓を名乗ることを許された。
能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555年(弘治元年)の厳島の戦い、1561年(永禄4年)の豊前簑島合戦、1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵、1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られている。

「村上水軍の解体」

来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となった。
1588年(天正16年)年に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。
因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地とした。
能島村上氏は毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。
来島村上氏は江戸期に豊後国の玖珠郡に転封され、完全に海から遠ざけられた(森藩)。

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会社時代の同僚に、これら水軍の子孫と名乗る「越智氏」「村上氏」などがいたのを思い出した。

船の模型の展示 (3308回) 

因島水軍城に、いろいろな船の展示があった。
水軍(海賊)が使ったような船の展示はなかったが、 中世から近代、現代、未来?の船の色々だ。

マルコポーロが見たであろう13世紀の中国船、
新大陸を発見したコロンブスのサンタマリア号、
大英帝国最強の頃の帆船カティサーク号、
ペリー提督が率いてきた黒船サスクハナ号、
練習船日本丸、南極へ行った砕氷船白瀬、
巨大なコンテナ船、アニメの宇宙戦艦ヤマト、などなど。




  耕三寺(生口島) (3309回)

耕三寺(こうさんじ)】は、広島県尾道市瀬戸田(生口島)に所在する浄土真宗本願寺派の仏教寺院。山号は潮声山(潮聲山)。
1936年(昭和11年)から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」とも呼ばれる。
このうち、山門・本堂をはじめ15の建造物が国の登録有形文化財として登録されている。
また、仏像、書画、茶道具などの美術品・文化財を多数所蔵し、寺全体が博物館法による博物館となっている。

耕三寺の開山は、大正・昭和期に大阪で活躍した実業家の金本福松(1891年 - 1970年)である。
金本は、生口島瀬戸田の出身で、16歳の時に父を亡くし、少年期に島を出て福岡県直方(のおがた)など各地で奉公を重ねた。
後に大阪へ移り、当時来日していたフランス人技師のセギーという人物から酸素熔接の技術を学び、これを生かして29歳の時に東洋径大鋼管製造所を設立して鋼管製造業の経営を開始した。
金本の会社は軍需工場に指定され、彼は一技術者から実業家へと成長していった。

事業に成功した金本は、1927年(昭和2年)、故郷瀬戸田に住む母のために邸宅「潮聲閣」を建築した(耕三寺内に現存)。
母が1934年(昭和9年)に没すると、翌1935年(昭和10年)、金本は母の菩提を弔うため出家して僧侶となり名を「耕三」に改めた。
1936年(昭和11年)から潮聲閣周辺にて耕三寺の建立を開始した。

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事業で成功し、母のために邸宅「潮聲閣」を建築し、母の菩提を弔うため出家して僧侶となり名を「耕三」に改めた、 というのはかなりユニークな人だ。

好みにもよるが、東照宮のようなきらびやかな社殿というのは、僕はあまり好きではない。

  多々羅しまなみ公園 (3310回) 

生口島ー大三島の間に架かる多々羅大橋のたもと(大三島側)にある多々羅しまなみ公園で一休み。

海峡に架かる大橋はとても素晴らしい眺めだった。
地元の産物(ミカン、塩)などを使ったアイスクリームが美味しかった。

しまなみ海道の橋は、車だけではなく人も渡れるように出来ている。
歩いたり、自転車に乗っても渡れるということで、公園でもレンタサイクルが置いてあった。

先日、来島大橋を歩こう(ウォーキング)というイベントも行われたようだ。
大鳴門橋や明石海峡大橋もこういう設計だったら良かったのにと思った。