千駄木・根津 散歩    2008 Novenber 21        トップへ

    高校時代の友人たちと、千駄木ー根津 を歩いた。
千代田線千駄木駅からスタート。駅のすぐ前の不忍通りにはメルヘンチックなコミュニティバスが走っていた。
通りから公園を抜けた住居地で、最初に見たのは、旧安田邸。安田財閥の当主の屋敷跡だ。
  

団子坂を下っていき、不忍通り を渡り、「へび道」を歩く。
この道は、細い道でくねくねと曲がっているので、へび道。
道の片側は文京区、反対側は台東区になっている。
二つの区の境界線なので、区画整理で真っ直ぐに出来ないようだ。

  

昔ながらの「染物」「洗張り」を扱う「丁字屋」、由緒ある旅館、大名時計博物館など。

  

  

台東区谷中にある大名時計博物館 を見学した(300円)。
展示品は、
掛時計、櫓時計、台時計、尺時計、枕時計、印籠時計、御籠時計、置時計、和前時計、香盤時計など。
(江戸時代のものだから、当然古色蒼然。ちゃんと動くのも少ない)
印籠時計=ゼンマイが動力で、腰に下げて使用した携帯時計。(この当時は、鯨のヒゲをゼンマイに使ったようだ)
江戸時代は、陰暦で、不定時法。  日の出と日の入りの時を、「六つ」と決めていたから、
季節によって、一刻=約2時間の長さは変化する。  (日の出から日没を六等分するのが昼の一刻)

子の刻(夜中0時)→丑の刻 (2時)→明け六つ(6時)→正午・九つ
(12時)→八つ半(15時)→暮れ六つ (18時)→   という風に数えていた。
大名時計は時計を専門的に調節する人が必要で、
この人たちを”御土圭役御坊主””御土圭間御坊主”と呼んでいました。
寛政11年(1799)の江戸城には御土圭役御坊主が7名、御土圭間御坊主26名がいたそうです。
時計を作る職人は”御時計師”(御土圭師)といい、
大名のお抱えで、旗本くらいの禄高をもらって生活が保証されていたようです。
(旗本は千石以上、 千石以下は御家人と呼ぶ)

旗本の禄高がどれくらいかは知らないが、
高級エンジニア、大学教授くらいの生活は出来たのだろうか?
  

散歩の終点は、根津神社。つつじの名所だが、今の時期は何もない。
正月に備えてか、神社や楼門の大掛かりな化粧直し?をしていた。

  

散歩の後、渋谷駅に寄って、岡本太郎氏の壁画≪明日の神話≫を見た。
壁画は縦5・5メートル、横30メートル
1960年代後半にメキシコで制作後、行方不明となっていたが、
2003年に発見されて大がかりな修復が施された。
原爆のエネルギーを表現した迫力のある画面だった。
通りすがりの皆さんも、感動したように見上げ、携帯写真を撮っていた。