小石川後楽園                        2007/2/22

小石川後楽園は、東京ドーム(元後楽園球場)のすぐ傍にある庭園、
江戸時代、水戸藩の中屋敷(後に上屋敷になる)で 二代目藩主・光圀が完成させた回遊式築山泉水庭だ。
入ってすぐのところに、光圀が諸国漫遊?した時の着物と杖が飾ってあった。

 

得仁堂には、光圀18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受けた「伯夷、叔斉」の木像が安置されている。
梅の木は20種類ほどあるそうで、紅い紅千鳥 が満開だった。

 

赤い橋は通天橋、江戸時代には神田川から暗渠で水を引き園内に流れていたようだ。
後楽園とは、中国の范仲淹(ハンチュウエン)の岳陽楼記にある
「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」(先憂後楽)から名づけられた名前。

 

小石川後楽園・東京ドームから少し歩いて御茶ノ水に出ると湯島聖堂がある。

【湯島聖堂、昌平黌】
東京都文京区湯島一丁目にある湯島聖堂は、1690年(元禄3年)5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟である。
「生類憐れみの令」で知られる綱吉の治世した時代を元禄時代と呼んでいるが、
先の将軍家綱による儒学に重きをおいた文治政治をいっそう発展させた時代と言われている。
林羅山が上野忍が岡に開いていた学塾が、その後1797年(寛政9年)に
湯島聖堂内に開設された 昌平坂学問所(幕府直轄の学問所「昌平黌」)の起こりであると言われている。
綱吉は羅山の孫信篤(鳳岡)を大学頭に任じ、信篤の子孫が代々大学頭となり
「林家」(りんけ)と称されて文教を司り、儒学・朱子学が大いに盛んになっていった。

(1923年の関東大震災で全焼した為、復興計画が立てられた。)
1935年(昭和10年)4月4日に、復興聖堂竣工式が行なわれた。
木造であった建物を鉄筋コンクリート造り、大成殿は建物内外を黒色エナメルペイント塗りにし、
屋根は入り母屋造り両端に青銅製の鬼狛頭・鬼龍子を置いた。

 

湯島聖堂のすぐ北側に、神田明神 がある。
この神社の祭神は大国主命(大黒さま)で、境内に大きな石の大黒さまが立っていた。
明神さまの一之神は大黒さま、二之神は少彦名命、三之神は平将門 だそうだ。

 

【少彦名命(すくなひこなのみこと)】 : えびす様。商売繁昌の神様。
商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。 日本に最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、
大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。
商売繁盛、縁結びのご利益があり、なんだかとっても庶民的という雰囲気、江戸っ子の自慢の神社に見えた。

 

いろいろな観光地で、顔の部分だけ穴の空いた人形絵姿?を見かけるが、神田明神では〈銭形平次〉がいた。
これも江戸っ子の好きなキャラクターなのだろう。

 

神田明神から北へ上がって行くと、湯島天神 がある。天神さまには菅原道真が祀ってある。学問の神様だ。
今頃の入試シーズンには、たくさんの人が合格祈願や合格お礼にやってくる。
境内の絵馬掛けには、溢れてこぼれそうになったたくさんの絵馬が架かっていた。

 

梅の花も満開。神社の東側にある石段を降りて歩いてゆくと、JR御徒町駅 に出る。
この辺りは丘陵地帯で坂が多い。団子坂、明神坂、地獄谷坂、嬬恋坂、清水坂、横見坂、立爪坂、三番坂、などの名の付いた通りがある。