ブログ日記(復刻版)    2016 Septmber        トップへ

01 異端 俳句の鑑賞論(1) (5044) 異端 俳句の鑑賞論(2) (5045) NHK俳句を見て。異端 俳句の鑑賞論(3) (5046)
04 異端 俳句の鑑賞論(4) (5047) 【詩情】 異端 俳句の鑑賞論(5) (5048) 秋物のワゴンセールを掘り起こし (5049)
07 惑星プロキシマb (5050) 「テーマ」の意味 (5051) 選句とは (5052)
10 盛況の東京句会秋麗 (5053) ラセゾン句会について (5054) 句会はバトル(真剣勝負)。(私論) (5055)
13 【結】が抜けている (5056) 熊本キャンパス句会 (5057) 水前寺成趣園 (5058)
16 漱石の第3旧居 (5059) 城彩苑 (5060) コマ名人吉田さん (5061)
19 熊本吟行3句 (5062) 蓮の俳句に応募 (5063) 熊本吟行−2 (5064)      09/21
22 熊本吟行−3 (5065) 熊本吟行−4 (5066) 米IBMの人工知能「ワトソン」 (5067)
25 もんじゅ廃炉へ (5068) 横倒し石宝殿秋気満つ (5069) 現代新語 (5070)
28 股のぞき (5071) 狂言鑑賞 (5072) NHKのど自慢観覧 (5073)


09/30 NHKのど自慢観覧 (5073)

NHKのど自慢が近くの常総市に来る(10/16)というので、観覧に応募してみた。
昨日、応募はがきの返事が来た⇒抽選で落選!!
応募は全部で8061通だったという。会場は1,500人ほど収容だろうから、
倍率は5.4倍ほどだったことになる。

毎週日曜日楽しみに観ている。時々観客席も映るがあの人達は何倍もの競争を勝ち抜いた幸運の人だったのだ。

09/29 狂言鑑賞 (5072)

高校の友人のお嬢さんの『狂言 万之会』を見に行った(9/24 セルリアンタワー能楽堂)。
観た演目は、
狂言  〈蝸牛〉〈魚説法〉〈伊呂波〉〈梟山伏
独吟 「海道下り
小舞 「風車」「七つ子」「海老救川」

久々の狂言で大笑いした。

09/28 股のぞき (5071)

『股のぞき』(股かがみ、股眼鏡などとも)がイグ・ノーベル賞を受け話題になっている。
受賞した東山教授は股のぞきによる錯視の効果を実験で確かめた。
幼児が行う股のぞきは、次の子供が生まれる前兆であるという
伝承は青森県、秋田県、新潟県などの各地に伝えられている。

 〈びっくりポン賞になる秋股のぞき  和〉

  〈股眼鏡子宝めぐむ秋眺め   勉実落〉

09/27 現代新語 (5070)

佐藤多佳子さんの新刊「明るい夜に出かけて」は若者ことばの宝庫だ。
ペラい」は薄っぺらい。「フラグが立つ」は予感がする(先が見える)。
作中20歳の主人公の独白や会話が難解で、知り合いの大学生に翻訳してもらった
▼こうした新語の浸透度は、先日発表された第1回「現代人の語彙(ごい)に関する調査」でもテーマログイン前の続きになった。
高校生世代の方が親世代よりもよく知っている言葉として挙げられた上位30語がなかなか興味深い。
ディスる」はけなす。「りょ」は了解。ネットで頻用されるが会話でも使われる
▼「じわる」は、すぐにはわからなかった妙味や笑いが後になって徐々にこみ上げること。
「きょどる」は不審な挙動や緊張でとちることを言う。 「飯テロ」は、空腹の人が多い時間帯に、食欲をそそる写真をこれ見よがしに投稿するいたずら。
半数は初耳だった▼調査では逆に、親世代にはおなじみでも高校生世代がわからない言葉も浮かんだ。
「阿漕(あこぎ)」「鞭撻(べんたつ)」「風采」「経団連」「つまびらか」「ひねもす」「こきおろす」。世代間の溝にしばし考え込む

09/26 横倒し石宝殿秋気満つ (5069)

◆ 石宝殿の外観の特徴
兵庫県高砂市の採石場の中に、生石(おうしこ)神社という、巨石を御神体とする神社があります。
1828年、離日の際、日本地図の海外持ち出しが発覚し、国外追放となったシーボルトは、
石宝殿(いしのほうでん)と呼ばれるこの御神体に興味を示し、3枚のスケッチを残しています。

重量が500トンもあろうかといわれるこの巨大な石造物は、切り出して加工しもたのではなく
岩山を直に彫ったもので、三方は削られた元の岩山によって囲まれた形になっています。
制作に従事した石工には、これを遠くに運搬することが不可能なことは分かっていたはずです。
それにもかかわらず、巨石の底部は岩盤から切り離なすように四方から深く削られています。

なお、現在の拝殿の位置からいえば、前面は長方形の平面で、背後に屋根形の突出部があります。
だから、少しだけ岩盤につながっている底部を切り離し。拝殿側に起こせば家形になります。

09/25 もんじゅ廃炉へ (5068)

政府は21日、原子力関係閣僚会議を開き、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)について、年末までに廃炉を含む抜本的な見直しをすることで合意した。
首相官邸は、約1兆円の国費を投じながら20年以上ほとんど運転していない実態を重くみており、もんじゅは事実上、廃炉に向かうことになる。
政府は会議で、プルトニウムを利用する新たな高速炉開発の計画を年内にまとめる方針を確認した。
ただ、核燃料サイクルの要に位置づけられてきたもんじゅが廃炉に向かうことで、国のエネルギー政策は大きな節目を迎える。
 経産省は、もんじゅに代わる炉として、燃料を増やせない高速炉で、フランスで計画中の「ASTRID(アストリッド)」への協力を通じ、日仏共同研究を軸に計画をつくろうとしている。
この方針に沿った技術開発計画が続く見込み。もんじゅと同じ、冷却材にナトリウムを使う原子力機構の実験炉「常陽」(茨城県)の活用も検討する。(竹石涼子)

09/24 米IBMの人工知能「ワトソン」 (5067)

米IBMの人工知能「ワトソン」=キーワード=をがん患者の診断支援に使った東大医科学研究所の研究で、8割近くの症例で診断や治療に役立つ情報を提示したとの研究成果がまとまった。
がんの原因となっている遺伝子変異を10分程度で特定し、適切な抗がん剤の処方につながったケースもあった。より早い正確な診断・治療ログイン前の続きにつながると期待される。

ワトソンは2千万本以上の医学論文や薬の特許情報などを参照し、がん発症や進行に関係している可能性のある遺伝子変異の候補を見つけ、根拠となるデータや抗がん剤の候補と一緒に提示する。
ワトソンを導入した同研究所の宮野悟・ヒトゲノム解析センター長は「がんの黒幕となっている遺伝子変異を突き止めるのに、医師が人海戦術で様々な文献やデータベースを調べるのは限界がある。ワトソンのような技術の活用が今後欠かせない」と話す。

09/23 熊本吟行−4 (5066)

右書きの書名懐かし肥後の秋

 秋麗肥後のちょんかけ独楽愉し
  (熊本城二の丸広場、肥後ちょんかけ独楽保存会理事・吉田さん)

  手づくりのいきなり団子後の月

        

09/22 熊本吟行−3 (5065)

成趣園色変へぬ松泰然と

 漱石に倣ひ旧居の縁の秋

  望月や陣太鼓てふ銘菓食ふ

        

09/21 熊本吟行−2 (5064)

天帝の鯰懲らしめ水澄めり

 秋澄むや旧居に則天去私の軸

  名月やゆかしき古今伝授の間
  (細川幽斎公が桂宮智仁親王に「古今和歌集」の解説の奥義を伝授した建物・京都御所から移築) 小鳥来る稲荷神社の赤鳥居

        

09/20 蓮の俳句に応募 (5063)

宇都宮市城跡蓮池再生検討委員会が《蓮の俳句募集》をしていると聞いて応募することにした。
3句応募できる。
応募料(審査料)は1000円。全部で18作品が入賞する。
入賞句は、カレンダー(一枚/2ヶ月/3句ずつ)に掲載され、応募者全員にカレンダーのプレゼントもある。
(もし落選しても、カレンダーを1000円で買ったと思えばあきらめもつく)

発表は10/15日。楽しみに待とう。

09/19 熊本吟行3句 (5062)

@ 涙する辛子れんこん郷の秋  和
A 天高く馬刺しに肥後の甘醤油  和
B 秋澄むやガラシャを祀る出水宮  和

(水前寺成趣園の出水神社には、歴代藩主、藩主夫人とガラシャ夫人が祀られている)

09/18 コマ名人吉田さん (5061)

4年前に肥後ちょんかけ独楽保存会の理事・吉田さんの演技を見せてもらいに来たことがある。
今回、事前に連絡を取り、二の丸広場でまた演技を見せて頂いた。
私よりも3歳年上だが、あいかわらずお元気そうだった。

地震で被害を受けた熊本城本丸付近は今は入ることが出来ない。
観光客は保護フェンスの外から城を遠望するだけだ。
石垣の崩れた場所の復旧工事のための鉄骨の支え構造が見えた。

09/17 城彩苑 (5060)

城彩苑は熊本城二の丸広場側にある観光施設。
土産物店、食事処などがり、観光客で賑わっていた。

熊本は馬刺し(馬肉)や阿蘇のあか牛が有名で、あか牛の焼肉定食を食べてみた。
柔らかい肉でとても美味しかった。
広場では少女たちが忍者?の衣装を着て踊りを見せていた。

09/16 漱石の第3旧居 (5059)

夏目漱石が熊本で住んだ3番目の家で、漱石はこの家から同僚の山川信次郎とともに「草枕」の旅へ出かけました。
かつては大江にありましたが、現在水前寺公園の洋学校教師館の敷地内に移築されています。

内部には、漱石ゆかりの掛け軸、書物、写真などが展示されていた。

09/15 水前寺成趣園 (5058)

細川侯の作った桃山様式の回遊式庭園を見学した。
園内には富士山?を模した小山や湧水の江津湖などがある。
出水神社には、主座として歴代の藩主、配座として歴代藩主夫人およびガラシャ夫人が祀られている。

江津湖には絶えず湧水が流れ込み、澄んだ水で鯉が泳いでいた。

09/14 熊本キャンパス句会 (5057)

今回(9/10(土))は、永田満徳、原孝之、古賀蘭水、俣江美智子、森さん(出句なし)歌代美遥、向瀬美音、北野和良の8名が参加した(敬称略)。
兼題2句(季語あり  秋麗、流星、小鳥、季語なし  公園、どんどん、マネキン)雑詠2句 。合計4句
出句の後で互選(3句x2)、鑑賞を行った。
参加7名の方の句会自薦句は次の通り(公開の了解を頂きました)。

 ・Amazon の過剰包装秋旱       永田満徳
 ・秋麗の肥後に再会なる過客      歌代美遥
 ・また鳴動ひびに浸み入る虫の声    古賀蘭水
 ・マネキンでなく実物の秋の女     原 孝之
 ・マネキンのそっぽ向きたる秋気かな  俣江美智子
 ・マネキンは新作纏ひ百日紅      向瀬美音
 ・鉦叩どんどんとなる陣太鼓      北野和良

句会の後、場所を変えて懇親会、俳句談義に夜の更けるのを忘れました。

09/13 【結】が抜けている (5056)

『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。』(方丈記)とあるように、
Facebookもまたたくさんの記事が書かれては、流れて消えてゆく。句会もこれと同じ。
出句して幸い採られれば、「有難うございます」と返信するだけ。
沢山の人に採ってもらえたとか、誰にも採られなかったとか、どなたかの句は沢山の票を集めたとかに拘らず、ただひたすら流れに身を任せるだけで良い、それが「ゆるゆると」の意味ですね。

ただ私は(起)【テーマの提示と募集】ー(承)【出句】ー(転)【互選】ーの後の【結】が抜けているように思えます。
上にも書いたように『句会(互選)の終わった後で、優秀に闘った人を顕彰する仕組み(優秀句を改めて発表するなど)』或いは『参加者全員の自選句の発表』などで締めくくると良いのではないかと思います。
(但し、これを実行するには管理者の方にかなりの負担が掛かるでしょうが)

09/12 句会はバトル(真剣勝負)。(私論) (5055)

俳句が好きで良い(と自分では思う)句が出来たら、「ラセゾン俳句の広場など」に披露する。
誰かに読んで共感してもらい、感想や批評を受け、ある時は反省してさらに上を目指すためだ。
(そういう目的ではなく、単に自分の記録のためだけとするなら、このFacebookは機能的に無理がある。
わずか一週間前、或いはひと月前の記事ですら捜しだし見直すのには大変な苦労を伴うから)

自分の句が認められ誉められると嬉しい。他の人も同じだろう。そういう人同士が同じ土俵に集まって
力比べをしようと言うのが「句会」だ。満を持した自信作を持ち寄り、互選で比べ合い、勝負を競う場だ。
勝てば嬉しいが、惨めに負けて凹むのは嫌だという人は、初めから参加しなければ良い(句会は強制ではないのだから)。

互選で採って貰えれば嬉しい(1点)、採ってもらえなければ悔しい(0点)、圧勝(特選)は美酒に酔う。
試合が終わると、お互いに健闘を讃え合い、勝ちの多かった人、見事に一本を決めた美技に惜しみなく拍手を贈り、 次は自分も頑張るぞと心に誓う。
「句会の点取りゲームは無意味」ではなく、句会の本質は点取りゲームだ。
ゆるゆると〜が信条の人は句会には向いていないと思う。
句会(互選)の終わった後で、優秀に闘った人を顕彰する仕組み(優秀句を改めて発表するなど)があっても良いのではないだろうか。

09/11 ラセゾン句会について (5054)

私が一番印象が深く面白かったのは、5月に行われた「尻取り俳句」でした。
@尻取りで句を捻り出すという機知が求められ、且つA他の人に割り込まれないように即吟するという制約で興奮しました。
但し慌てて作るという事になり、充分な推敲は二の次でした。
また今考えるとAの制約のために参加できなかった方も多かったのかなと思います。
最近の金曜日夜にテーマ・兼題の提示、土曜日中に投句というスケジュールは、他の行事とぶつかりやはり充分な推敲が出来ません。
そういう意味では、提示⇒投句までに一週間ほどおいてという案に賛成します。
また選句に対して今回中島さん、加納さん、大関さんが試みられたように、特選だけではなく並選についても鑑賞コメントを書くというのが鍛錬のためには良いように思います。
私は地上での句会などの経験は殆ど無いのでそこではどのように行われているのかを知りませんが、「句会の点取りゲームは無意味」ということであれば特選ー並選の区別すら必要ないのではないでしょうか。

09/10 盛況の東京句会秋麗 (5053)

(9/03 東京キャンパス句会報告)
参加19名、出句(当季雑詠)は76句(4句/人)と盛況でした。
最高得点句は5点句が三名と今回は拮抗していました。
(ご本人の了解を得ていないため句の紹介は割愛します)
個人合計点は12点〜1点と分散しました。

私の出句・成績は、
鈴虫がアリバイ崩すサスペンス   (4点)      鈴虫の移住計画四光年       (3点)

旅誘ふバスタ新宿花野まで     (0点)      理を捨てて情に溺れる蟋蟀     (0点)


(グラフで見る限り、私の句力は真ん中辺りでした)

09/09 選句とは (5052)

出句して選句されると嬉しい。他の人も同じに違いない、選句されて迷惑顔をする人はいない。
○句選という規定があれば、○人に喜びを配るのと同じことだ。数を満たさず、ポケットに残しておいても誰も喜ばない。
もっと多くの人に配りたくても、○句という制限は守らないと混乱を招くだけだ。
そういう意味で、選句(数)は権利であり義務でもあって、ゆるゆるやる〜とポケットに残す訳にはいかない。

09/08 「テーマ」の意味 (5051)

句会にテーマが定められている時は、出句の選をする時、
@面白い、共感できる、よく出来ている、
Aテーマが上手に反映されてる、
の二軸の評価が当然だと思う。当季雑詠なら@の評価だけだ。
また「兼題・季語(傍題をふくむ)」や「埋め字」などでは、チェックは容易であり、それを守っていなければ、例え句としては良く出来ていても評価を下げるのもやむを得ない。

さて【九月のテーマ 『清か』さやか】だったが、【さやか・爽やかは秋の季語ですがそこを言わないで爽やかさが出ればいいですね】 とも書かれていた。これによって、テーマの解釈・想像の広がりが人毎(作者/選者)に大きく分かれたと思っている。
例えて言えば、『東京を出発して北へ向かって下さい』と指定されたように。ある人は新幹線で北へ向かい、郡山、仙台、青森へ向かう。山形新幹線で山形へ、足を伸ばして北海道まで行く人も出て来ても可笑しくない。高速道路を使う人も居るだろう。
極論を言えば、当季雑詠と変わりはなくなり、テーマを設定した意味が薄れてしまう。

《大関博美 私は、前回北野さまの、題にそぐう句が選ばれたのだろうか?という提言を受けとめ、今回はそのような視点で選をいたしました。》
《大関博美 今回の選では、題「清か」にそって考えました。》と冒頭のAを真剣に評価されたようだが、選の結果は「特選1,並選3」 とされています。
私自身は皆さんの大部分の出句はテーマを踏まえていると読みましたが、『そこを言わないで爽やかさが出ればいいですね』という注書きに大きな疑問を感じています。

09/07 惑星プロキシマb (5050)

英国クイーン・メアリー大学などが、地球からわずか4.2光年のところにある惑星プロキシマbが非常に地球と似通った環境にあることを確認したと発表しました。
プロキシマbは、三重連星アルファ・ケンタウリの第2伴星プロキシマ・ケンタウリを周回しており、ほぼ地球と同じ大きさで、水が液体で存在できる環境とされます。

今回発表されたプロキシマbは、これまでに見つかった「ハビタブル惑星」の中でもかなり地球に似通った特徴を備えています。
まず、惑星の質量が地球の1.3倍程度であり、岩石質の地表を持っています。
そして恒星からの距離は非常に近いものの、プロキシマ・ケンタウリが暗く弱い赤色矮星であることから地表温度が水が液体で存在できる程度に温暖と予想されるとのこと。

09/06 秋物のワゴンセールを掘り起こし (5049)

毎朝、一日一句互選欄を覗いて共感できる句を探す。
早く行って誰も手を付けていなければ選り取り見取りだが、時間が遅れると 良さそうな句には先人がいて売約済みとなっている。
同じ句を選ぶという事も可能だが、大概は別の句を探す。 多くの人の句を選んであげたいという気持ちもあるからだ。
また、つい先日買ったのと同じメーカーを続けて買うというのは避けたいという心理も働く。
「句は十七音で独立する」という観点からすると、メーカーを調べて判断するというのはいささか邪道ではあるのだが。

小川 コウ ワゴンセールは女子には魅力です。
北野 和良 私もパソコンショップのワゴンセール(小物品)はよく覗きます。

09/05 【詩情】 異端 俳句の鑑賞論(5) (5048)

俳句には【詩情】が不可欠で、それが無ければ単なる報告になってしまうという。
季語や正確な言葉選び・文法などは、知識で解決できるが、【詩情】は実に難しい。

【詩美】詩の美しさ。詩のような美しさ。
明治期から昭和戦前期にかけての時代に、よく使われました。
内田魯庵や梶井基次郎といった文学者たちが執筆した作品の中に、よく出てきます。
この概念は、詩=美しい、と規定しており、詩でなければ美しくないと言っている。

【詩】 文学の様式の一。自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムをもつ言語形式で表現したもの。
押韻・韻律・字数などに規定のある定型詩と、それのない自由詩・散文詩とがあり、また、内容から叙情詩・叙事詩・劇詩などに分ける。

【詩情】
1 詩にみられるような趣。詩的な情景。「―あふれる夏の高原」
2 詩に表現されている気分。詩のおもしろみ。「―を解する」

十七音に使われた幾つかの言葉(或いはその組合せ)に詩情を感じ取るというのも、また読み手の個人差が大きいだろう。
一つの言葉に、古人の詩歌を思い起こす、遠い歴史の故事を思い浮かべる、そうすることで句の時空間が広がり詩情を感じ取ることが出来る。逆に言葉の背景を知らない人には、何故作者はこの言葉に感情を籠めたのかが理解できない。

詩(句)の言葉は、作者の想いを引き出すための手がかりに過ぎない。書かれた言葉を手がかりに作者の想いを推量することが大事だ。
作者は十七音だけでは想いを表しきれず、断片的な言葉だけで後は読み手に託していると言える。
句を読み作者の想いを解読するのは読み手に任されている。
詩情を感じ取れるか否かは、読み手の心の中にも共鳴し得る詩情の海を湛えているかどうかに懸かっているようだ。
それが無ければ、作者がいくら想いを籠めたと力んでみても、馬の耳に念仏となってしまうだけだ。

良い読み手がいてこそ、句が完成すると言えるだろうか。

佐藤 直路 いつも、真剣な俳論のご展開、ありがとうございます。
 個人的にも、俳句の核心とするには、詩美は感覚的に狭すぎると感じます。
 詩情は、他者の情動を動かしうる詩的表現といえましょうか。 俳句の核心を、詩情とすれば、あいまいながらも、広がりがあるように感じます。
北野 和良 佐藤さん、ご意見を有難うございます。詩情というスパイスをどうやって振りかけるかいつも悩んでいます。
佐藤 直路 同感^^ 掛けすぎてもいけませんしね^^
山野辺 茂 季語に語らせるとよく言いますが、もともと季語に詩情が備わっていて、それをいかに醸し出すかで詩が生まれるのかと思っています。
季語をどう生かすかで詩にも説明にもなるように思います。季語以外にことさら詩情を求めなくもよいかと。ただ季語の持つ詩情というのは、俳句の世界が長年培ってきた共同幻想みたいなもんかと思いますが。感想程度ですいません。
北野 和良 山野辺さん、ご意見有難うございます。確かに伝統派の方々は「季語の本意」ということをよく言われますね。
ただ、初心者にはこの「季語の本意」がなかなか掴めないのが事実です。最初に(例えば新涼のような)季語がありそこから発想を展開して句を練るというのが本来なのでしょうが、往々にして逆の場合があります。
何かを発見し、感動してそれを句に繋げたいと考えつつ、どのような季語がマッチするかと探すという順序になります。 さらにその感動した物、事柄(例えば果物、祭、花火など)がすでに季語であるなら、後は適当な言葉・措辞を捜し整えればいいのですが、 それが季語ではない場合は、上に書いたように無理やり季語を捜し整えなければならなくなる。
それが季語であるかないかの境目がとても理不尽に感じられる時があります。
季語を無視して〈無季〉という答えもありますが、それでは季語に厳しい人には認めてもらえない。
結局、「長いものには巻かれろ」ということになるのでしょうか?

山野辺 茂 よくわかります。季語の本位といっても俳句や詩歌をよく勉強しないと分かりませんので、実感や実体験が動機になるのは普通のことですよね。結局、その実感や実体験と季語の本位をどう折り合いつけるみたいなことでしょうかね。
佐藤さんが例に出していただいた高柳さんの文章では身体性といっていますが。新涼といったとき、本位の新涼とそれぞれの新涼があるわけですが、それがうまくシンクロすると詩になるのかなとおもいますが。体験的に述べているだけですので、ご容赦を。
山野辺 茂 あと詠み手と読み手がシンクロしないと詩にならないということもありますね。それが現代の多様性で面白いところではないでしょうか。
佐藤 直路 季語の本意について、柳克弘のこんな文章を見つけました。http://weekly-haiku.blogspot.jp/2010/02/21_7373.html
自然の手触り ……柳克弘 『季語の本意は、絶対的なものではない。本意が変容していくケースには、大きく二種類あると考えられる。ひとつは、生活の変容。時代の更新にしたがって、ひとびとの暮らしや感性が変わっていく。季語の本意のあり方も、そうした変化と無関係ではいられない。もうひとつは、詩歌によって読み替えられていくことでの変容である。』
『現代俳人は必ずしも、季語の本意を意識して作句しているわけではない。むしろ、自分が見たもの、感じたものに即して句を作る、という姿勢のほうが一般的だ。』
佐藤 直路 詩の本質は、創造性、想像性だと思います。それを否定するのであれば、俳句は詩でさえなくなるような気がします。
桑本 栄太郎 現代俳句において「季語」と呼ばれている言葉は江戸時代には「季節の詞」・・(季節のことば)とも言われ、その言葉を五・七・五の中に提示すれば沢山の言葉で表現しなくてもその言葉の持つ季節感、生活感が詩情として作者万人の共通したものとして共感されていました。
その為俳句の勉強には「季語の生い立ち」又、その昔の時代の生活様式なども探り調べる事も詩の豊かな表現の一助となります。但し、言葉と生活様式は時代と共に変遷するものであり、最近では地球温暖化に伴い季節感まで大きくずれています。
しかし、そうであるからと云って、ハナからすべてを無視するのではなくやはり先達の名句を沢山読み、良い句とは「何が、何処がよいのか」を勉強したいものです。
山本健吉著の現代俳句上・下を一度精読されたら良いものと思います。

09/04 異端 俳句の鑑賞論(4) (5047)

句には作者の人柄が反映される。人格と言ってもいいのかも知れない。
和服の似合う人もいれば、カジュアルな装いが得意な人もいる。
文系の人、理系の人、草食系の人、肉食系の人などなど。
それぞれの人の句には、その人らしさが感じられて当然だ。

種々雑多な人たちの句を、一次元的に並べて優劣を比べるというのは元々無理なことだ。
試験の採点やスポーツ競技の演技を点数に置き換えて、高い点数の人を秀と決めるという風にはいかない。
それでも人は自分の句を表出し仲間に認めてもらいたい、褒めてもらいたいという気持ち(向上心)を抑えきれない。
私はそんなつもりではないと言う人がいるなら、では何故ネットなどに公開するのかと聞いてみたい。

選者の立場で心の琴線に触れた句を選び鑑賞する時、句の作者の人柄と自分の好みとが共鳴している。
自分の句に良く共鳴してくれる仲間が多ければそこは居心地の良い場所となる。(逆も又真)。
他人の句を鑑賞し、率直な感想を述べれば、相手は喜び仲間意識が強まる。
自分は褒めてもらいたいが、他人を褒めることはしないという人は絆が強まるはずがない。

正式の鑑賞文でなくとも、投句に対して簡単にコメント・感想を述べてくれる人もいる。
これも投句者にとっては嬉しい反応で、励みになる。
鑑賞やコメントに対して、「有難うございます」と返信するのは、煩わしい面もあるが、欠かせない礼儀だと思っている。
有難うの一言を書かない人もたまにいるが、何とも理解し難い。

09/03 NHK俳句を見て。異端 俳句の鑑賞論(3) (5046)

NHK俳句では、数千の投句の中から選者が9句を選び番組で紹介する形で始まる。
司会者、ゲスト、選者が9句に対してそれぞれ鑑賞を行った後で、選者による一席、二席、三席が発表される。
9句は厳選された句であるから、どれも秀句で、私のような素人には優劣は判断不可能だ。
選者はここが良かったという風に解説をされるが、それで落選句との違いが腑に落ちるわけではない。

話は飛ぶが、ホテルに泊まると朝食は和食にしますか、洋食にしますかと聞かれる場合がある。
和食と洋食そのものには優劣はない、あくまでも本人の好みで決めることになる。
飲む酒を決める時も、日本酒、洋酒、焼酎、ビールなどは個人の嗜好による。酒の種類に優劣はない。

(NHK俳句の)選者は、「自分の好みで入選を決めている」としか思えない。
もしも同じ9句を別の選者に選ばせれば、別の選になり、同じというケースはまれではないのか?
句の鑑賞をする時、選者の知識や人生経験などが動員されるが、それは選者一人一人異なっている。
選者の心を楽器に例えると、高い音に共鳴する人と低い音に共鳴する人に分かれるはずだ。
心の楽器の共鳴度合いを見て決めているのであれば、どの句が共鳴するかは人によって異なって当然だ。

(極論すれば)選者が何を好み何を嫌うかを知っていれば、どんな句を作れば採ってもらえるかの作戦を立てることも出来そうだ。
だがそういう姿勢で句を作るというのは邪道だろう。

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大澤 徹也 選に入るか否かよりも(そんなのおかまいなしに)、巧い句が作りたいと切に思っております。
なお、画像の中では三席の「念力を…」が好みです
北野 和良 大澤さん、仰る通りです。ただ、選に入るか、漏れるかの境目がどこにあるのかが分からないので悩んでいる次第です。逆に言えばたくさんの点を取られた句のどこが素晴らしいのかの見極めが出来ない(鑑賞力不足)のも事実です。
田中 由美子 私も観てましたよ?(^o^) 選者は正木ゆうこ先生でしたね。かなりの応募数だとか?
私も、「念力を」のお句が好きです(^o^)/
鈴木 正明 本番組を観たことがないので、選者がどの様な方なのか、勿論、プロの俳人であると思われるが…
この選者がプレバドに出演している夏井いつきさんのような説得力のある俳人の方なら納得出来るのではないですか?
いずれにせよ選者は一人で一席から三席を九句の中から選ぶわけなので、選者の好みもあって当然ではないだろうか。
俳句同様に写真もコンテストに応募する場合、審査する写真家はどのような顔ぶれかを調べて、
審査する写真家の好みに合った作品(写真)を応募した方が選ばれる確立はたかい。
写真コンテストの場合は選者は一人ではなく、奇数人いるので、甲乙付けがたい場合には多数決で決めているようである。
北野 和良 今回の選者正木氏は、恋句を作りましょうと力説されていました。それで一席の句を選ばれたのかも知れません。
田中 由美子 北野さん、私もそんな風に思いながら観ていましたよ?o(^_-)O

岩本 ひとみ 北野さんは、ご正解です。NHKは台詞は回答まであると言われています。
ましてや、俳句に正解がある筈が無いのに、、、。
文法。文法と言いますが…。これ又、頼り無い。
全ては結社の主幹の好みが、その結社のカラーに成ります。
嘗て私自信も結社に入り大会にも出て色々な経験を積んで来ました。
結果分かった事は主幹好みの句を詠めば選ばれるということを知りました。
大きな大会に成れば主幹達にどれだけの金品を使う者が選ばれるかも知りました。
これを書くにはタイムラインですので、大変な勇気が要ります。過去の句友も同人、幹部同人、顧問同人のお目に触れるでしょうから。
北野 和良 ひとみさん、私はどこにも所属しない初心者ですので怖いもの知らずです。
岩本 ひとみ 北野さん 怖い者知らずは良いと思いますよ。
過去の上も無ければ下も無いのですから。私も結社から離れて詠みたいように詠んでますから、自分の句が一番愛おしいです。
「結社に入って見ればいい。」という清水さんのご意見も分からなくもありませんが、入る入ら無いは個人の自由ですからね。
私は北野さんの声を大にしたような俳句が好きです。
北野 和良 ひとみさん、有難うございます。私の句は自分の感動を表現したいということに熱中してしまい、自分を外から眺めるという視点が欠けているのだろうと自覚しています。経験の無さ、修業の不足の故でしょうね((笑)
岩本 ひとみ それで良いと思いますよ。 経験積んで句をテクニックで作るように成ったら終わりですよ。
語(素材)は簡単なもので、難しい語やテクニックで誤魔化したら駄目ですね。
北野 和良 ひとみさん、励まして頂き有難うございます。
岩本 ひとみ 北野さん、これは本心です。私はいつも本心です。不器用なんです。

清水 憲一 皆さん方は俳句結社に属しておられないから良く分からないでしょうが、
各俳人には師系と言うものがありどのような師の俳句を学んだかによって俳句の見方選句の仕方が変わってきます。
正木ゆう子さんとは以前俳句甲子園のあとの打ち上げの時に話しましたが、最初沖(おき) に所属され主宰:能村登四郎氏でその師系:水原秋櫻子ですその同人として久保田博、福永耕二、能村研三、中原道夫、正木ゆう子氏などがいるわけです。元は水原秋櫻子ですね。さらに彼女独自の領域として現代の女性のライフスタイルを反映した奔放な詠みぶりで、同世代の女性俳人の先駆けとして活躍しました。
代表句に「いつの生(よ)か鯨でありし寂しかりし」(『水晶体』)、「かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す」(『悠 HARUKA』)、「水の地球すこしはなれて春の月」(『静かな水』)などがありますね。
ですから応募する人も正木氏の俳句の特徴を掴んでおけば取って貰いやすいかも知れません。
何れにしてもどの俳人も類想類句のあるものは絶対取って呉れません。ユニークさ季語が生きているかどうかで取ります。
皆さんも結社に入られたら主宰の傾向を先ず真似ることから始まります。それは仕方がないことですね。
主宰もその師を真似て俳句を学んで来たわけですからね。俳句大学ではそれは学べません。(*^▽^*)
北野 和良 清水さん、詳しい解説をして頂き、有難うございます。
正木ゆう子氏の句では《もっときれいなはずの私と春の鴨》《あたたかや背と腹とある松の幹》などが私の印象に残っています。
清水 憲一 北野さんは何かご不満な様なので詳しく選句の仕方を解説しますと
これはNHKであろうと朝日俳壇で在ろうと俳人協会であろうと皆同じですが、先ず千句来たとしましょう。
そこから類想類句なものを除きます。これで二百句ほどになります。意外と多いのです。次に季語が生きていないものを除きます。
これで五十句ほどになります。次に語順のおかしいものリズムの良くないもの誤字のあるものを除くと十句ほどになります。
それから一句除いて九句とし番組の始まる前に一席から三席を決めておきます。最後は選者の好みで決まります。
最初の段階と次の段階はほぼどの俳人が選んでも一緒です。実際の映像は一週間程前に録画したものです。
北野 和良 なるほど良くわかります。季語が活きている、累層的でない、リズム。でも一番難しいのは詩性かなとも思います。
清水 憲一 その詩性とは、詩美性のことと思いますが、しかし在る有名俳人がこんな句を出しておられますが、
詩美性があると思いますか「ファーストキッスのあと立てなかった遠花火」池田澄子ですが!(*^▽^*)
北野 和良 詩美性は分かりませんが新規性・冒険を感じます。

池田澄子氏の句では《じゃんけんで負けて蛍に生まれたの》《ふたまわり下の男と枇杷の種》などを覚えています。いずれにしろ俳句大学でこういった句は見られませんね。或いは出しても取られないのではと感じています。
清水 憲一 俳句大学ははっきり言って初心者の集まりですからそんな句が作れたら俳句大学卒業で投句する必要はないですよ。
ただ単に池田先生の真似をしても駄目でさらにそれと違ったユニークさがないと駄目ですね。
それを磨こうと思ったら最低でも二十年程掛かるでしょうね。(*^▽^*)
北野 和良 有難うございます。この会話をコピーして冥土の旅のカバンに入れておきます。(笑)
清水 憲一 九十四歳の瀬戸内寂聴さんは未だに新たな小説を書いておられますよ。北野さんもまだお若いから鞄などに入れる必要は全くありませんよ。鞄に入れるのは北野さんの今後出される句集にしてくださいね。(笑)
清水 憲一 要は詩美性とは各俳人によって違うと言うことです。ですからその原点はどのような師系で作句して来たかに関わって来ます。池田澄子さんの場合は三橋敏雄に私淑、のち師事し、三橋指導の「檣の会」に入会された経緯から詩美性の原点がありますね。
平井充 俳句を本気出してやってはるって、難しいもんでんなぁ。俺なんかただ楽しみでやってるだけやから、気楽。気楽。 Chiau-Shin Ngo 古い文章ですが、一外国人として私は中川氏の評論で俳句の本質について疑問を持ちました。
中川氏の言う師系とか、結社とか、、、、、方々のお説によれば今でも季語がなければ俳句でないように思われているようですね、
今世界で持てはやされている各国語の俳句は俳句でないでしょうか?
俳句は日本語でないと読めない、だから日本に閉じ込めておかないといけないのでしょうか????
http://www1.odn.ne.jp/~cas67510/haiku/index.html
佐藤 直路 私の感じていることが、圧倒的に書かれています。「一般社会における文学とは教えられるものではなく、それぞれが自己の感性で捉え、表現するものである。」とは、慧眼です。ありがとうございました。
Chiau-Shin Ngo 俳句とは瞬間的感動を詠むもので、詠み人と読む人それぞれの人生経験及び生まれつきの感性の違いにより解釈または鑑賞の様相が違うものである。上手も下手もなく詠むと読む人双方の感性が同じなれば同じく感動するものである。

09/02 異端 俳句の鑑賞論(2) (5045)

小説家は、「作品を発表した途端、主人公は一人歩きを始めてしまう」とよく言う。
読者が小説を読み、主人公に感情移入をし、更に主人公の性格に想像を膨らませて行くことを言うのだろう。
「俳句は未完成な文芸で、読み手の鑑賞により初めて完成する」という説がある。
作者の意図を感じ取ることは大切だが、十七音で提示される情報にはどうしても限界がある。
季語を頼りにし、作者の述べ切れなかった事を自分の想像で補うのが鑑賞だ。
とんでもない見当違いの鑑賞をしてしまうこともあるだろうが、それを恐れることはない。
百人が鑑賞すれば、百通りの句が完成するということだろうか 。

詠者は頭の中の着想/観念を紙に書く(外に出し固定する)ことで作品(原句)が出来上がる。
(頭の中に留まったままなら名句でも何でもない)
鑑賞者 A が原句を読んで鑑賞文 A を書くことで、作品 A が完成すると考える。同じように
鑑賞者 B が原句を読んで鑑賞文 B を書くことで、作品 B が完成する。
原石を磨くことで立派な宝石が生まれるように、原句をどのように鑑賞するかで作品の輝きは違ってくるはずだ。
的確な鑑賞は原句を輝く作品に仕上げ、下手な鑑賞は原句の良さを引き出すことが出来ない。

鑑賞文もまた第三者の眼に入るように表出され、第三者の鑑定を受ける必要がある。
鑑賞者が頭の中で考え判定しただけでは、それを第三者が受け入れることは不可能だから。

俳人は他人の句に良い鑑賞をすることで、自分の作句力も向上すると知り実践すべきである。

09/01 異端 俳句の鑑賞論(1) (5044)

民放TVに『プレバト・俳句ランキング』というのがある。
毎回、5人のゲスト(俳句の素人)を選び、テーマの写真を見せて作句させ、その句を夏井いつき氏が採点する。
採点は、(才能あり)(凡人)(才能なし)の三段階評価。
(才能あり)が続くと(特待生)に昇格し、特待生(5段階)として成績が良いと段位も上がっていく。

三段階評価の添え物として「点数」が示されることもあるが、およそ次のようだ。
才能あり・・・70点以上(特待生は80点以上?)
凡人・・・・・40点〜70点未満
才能なし・・・40点以下

それぞれの句に対する夏井氏の解説を聞き、 また、このように直せば良い句になるという添削を示されると、なるほどと納得する。

話は飛ぶが、オリンピックの各競技の判定を見ると、
どのようにして演技の優劣を判定するかについて工夫がされていることが分かり、
各選手の獲得点数で勝敗が決まる仕組みに異論をはさむ余地はない。

だが、俳句を含め文芸作品の判定には、数値化という方法が確立していない。
季語や言葉の選び方、詩性の有無、などを数値化することなく選者の独断で選ぶ/決めているのが実情だ。
選者の好みによって評価が左右される度合いがかなり大きい。 かつて桑原武夫が第二芸術論を唱えた根拠でもある。

数値化は出来ないが、【季語や言葉の選び方、詩性の有無】などを【鑑賞文】として表すことは出来る。
つまり読者は感想文を書くことで、句に対する自分の評価を第三者に伝えることが出来る。
「面白い」や「つまらない」の一言では、第三者を納得させるには不十分である。
その点で夏井氏の解説は鑑賞文そのものではないがとても良く理解でき、
ゲストの句のどこが良くてどこが悪いのか、それらを総合してのランク付けが納得できる。



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