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 五郎治殿御始末         浅田次郎著     中公文庫    2006       2017/12/05

 男の始末とは、そういうものでなければならぬ。
 決して逃げず、後戻りもせず、能う限りの最善の方法で、すべての始末をつけねばならぬ。
 幕末維新の激動期、自らの誇りをかけ、千年続いた武士の時代の幕を引いた、侍たちの物語。
 表題作ほか六篇。

  椿寺まで
 「手前どもの丁稚でござんす。一言お声をかけてやっておくんなせえ」
 いくらか芝居がかった小兵衛の声が聴こえた。椿の帳を押し開けて新太の前に立ったのは、小さな尼僧だった。
 数珠をからげた白い掌を合わせて、尼僧は新太を見つめた。
 「おやおや、旅の疲れでお休みでしたかえ」
 せめて武家言葉を覚えていたのなら、「母上」と口にすることができるだろうにと新太は思った。幼い日の記憶も、侍の言葉も習いも、すべて時代の生垣の向こう側に捨ててきてしまった。そうせねば、たぶん生きることができなかった。  母は白い指先を伸べて、新太の頬を拭ってくれた。もしやその指先が赤く染まっていはしまいかと、新太は目を瞑った。
 「おいら、一所懸命やるから、心配しねえでくれろ」
 抱きとめようとする母の手をすり抜け、新太は椿の枝間から走り出た。  

  箱館証文
 差し出された一通の書状を開いて、大河内は驚愕した。
  証文一筆差入申候  拙者   白河城下黒川之戦陣ニ而貴殿ニ命売渡候   随而ハ後日 本証文ト引替 一金壱壱阡両 御支払致候   御約定ニ言無之 恐惶謹言     慶応四年五月一日       会津藩士 中野伝兵衛   山野新十郎殿

  西を向く侍
 「一年が三百六十五日と定まり、大の月は、一、三、五、七・・・・ああ、わからぬ」
 「西向く士、というのはいかがでござるか。ニ、四、六、九、武士の士の字は十と一でござろう」
 少し考えるふりをしてから、老婆は娘のようにころころと笑った。
 「勘十はさすがにおつむがよいわ。なるほど、西向く士か」

 江戸時代の太陰暦からグレゴリオ暦に切り替わった混乱を描く話。

  遠い砲音
 

  柘榴坂の仇討


  五郎治殿御始末
 「町人ふぜいが、知ったようなことをぬかすでない」
 祖父は飲めぬお酒を呷った。
 「はい。ですからご無礼は承知の上で申し上げておりまする。手前がお侍ならば何も言えませぬ。町人ふぜいだでこそ、立ち入った説教もできるというものでございまする」
 祖父の溜息が聞こえた。いかにも明治の世を果無むような溜息であったな。
 「もはや、武士も町人もない、というわけか。いやはや、いやな世の中になってしもうたものじゃ」
 とたんに、忠兵衛がかたわらの膳をひっくり返した。倅はアッと叫んで腰を浮かせ、さすがにわしも掻巻からはね起きた。
 「人の命の重さに、もともと武士も町人もあれせんぜえも。たとえ徳川様の御世であっても、この忠兵衛は同じ説教を申しまする。そんだでえも、話のかかりに無礼討ちもけっこうだともうしあげましたなも」
 忠兵衛の突然の剣幕に、祖父は脇差の柄を握った。
 「無礼者、容赦せぬぞ」「侍は侍じゃ。世の中がどう変わろうと、武士は武士じゃ」
 「いんや、そうではない。侍とて人間でござりましょう。人間ならば、いかなる事情があろうと、血をつなぐ子や孫をわが手にかけてはなりませぬ。それが士道なりと言やぁすばすのなら、武士など人間ではない獣でござりまするぞ」

 ◆ 幕府が終焉し明治になったころの時代の混乱、武士の嘆きを映している。