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 風樹の剣   日向景一郎シリーズ(1)      北方謙三著     静山荘文庫    1993       2017/02/13

 『父を斬れ。斬らねばおまえの生きる場所は、この世にはない』ーー。
 謎めいた祖父の遺言を胸に、日向景一郎は果てしなき旅に出た。手挟むは二尺六寸の古刀・来国行。
 十八歳の青年剣士は行く先々で道場を破り、生肉を食い、女を犯し、遂には必殺剣法を体得。
 宿命の父子対決の地・熊本へ赴く・・・・・。
 獣性を増しながら非情の極へと向かう剣豪の血塗られた生を描く凄絶なシリーズ第一弾。

  第一章 斬撃
 刀身が、白い光を放っている。闇に向かって刀を構える日向将監の姿を、芳円は毎夜見ていた。
 闇以外に、なにもない。将監の姿がぼんやりとしか見えないのに較べ、刀身の光だけはいつもはっとするほど鮮やかだ。
 地摺りから正眼に構えられた刀は、半刻近く動くことはない。将監がなにかにむかい合い、なにを見ようとしているのか、芳円は考えないようにしていた。
 いずれ、将監は死ぬだろう。それも明日かもしれず、十日後かもしれない。
 青梅村のこの寺へ将監が来て、十四日が過ぎていた。十八歳になる、孫の景一郎が一緒であった。景一郎を、芳円はほとんど知らなかった。母の満乃は、知っている。
 「闇が斬れぬ」 呟くように、将監が言った。毎夜自分が見つめているのを知っているのだろう、と芳円は思った。床に就いた将監は、やせ細った躰に、老いを剥き出しにしている。

 「景一郎、おまえの刀は、私が預かろう」 「なぜです?」
 「先生の遺言だ。これからは、この刀を遣うのだ」 「これは」
 「来国行。先生が遣われていたものだ。山城来派の祖で、二尺六寸ちかくある古刀だ。知っていたか?」
 「長いとは思っていました」 「これで、父を斬れ。そう言い遺された
 「父を。なぜです」 わからぬ。わかっているのは、これからはひとりだけの旅だということだ」
 「父を、斬るのですか」 「そうしなければ、おまえの生きる場所が、この世にはないのだそうだ

  第二章 獣肉
 父を捜して江戸を出た景一郎は高遠に立ち寄る。

  第三章 わに
 景一郎は鳥取の海辺にやって来た。老漁師の安蔵の小屋に住み、舟を操ることや素潜りの方法を学ぶ。
 鳥取城下の道場で、父の消息を聞く。また父が削ったという枇杷の木刀を手に入れた。
 父はこの地を通り、九州へ向かったらしい。
 海へ潜り鰐(鮫)と格闘をして、剣技につながる何かを掴んだ。  

  第四章 蓬莱島
 萩城下から二里ほどの、小さな村に景一郎はいた。この村に来て十日が過ぎている。九州へむかう途上である。益田でも、津和野でも、日向流という名を耳にした。それを手繰っていて、時を繰ってしまったのである。
 益田も津和野も、仁科伝八郎とその師が、日向流を名乗っていたらしい。
 景一郎は仁科伝八郎を斬った。
 「来たか」 大貫主計が、闇の中に立っていた。「伝八郎を斬ったのだな」
 「日向流を、この世から消してしまいたい。なぜだかわからぬが、俺はそうしたいのだ」
 「すればよい。わしを斬れば、ひとつ消せる」 「ひとつ?」
 「森之助を斬らぬかぎり、日向流はいつまでも残る。最後は自分を斬らぬかぎりはな」
 低い声で、大貫主計は笑ったようだった。
 「俺は」 「臆病者だ。ゆえに、生き延びている。それも終わりだ」
 「蓬莱島だ」 景一郎は叫んでいた。
 「おまえは、蓬莱島のようなものだ。それでも、俺は勝つ」
 「ほう。では抜け。わしは眠い。伝八郎を待ち過ぎたのでな」
 景一郎は主計を破り、九州へ向かう。

  第五章 皿の日
 玄界灘を越え、黒田藩内で父森之助に教えられたという荒川兵衛に出会う。
 海辺の小屋へ向かう途中で七人の侍の襲撃を受ける。彼らは加賀藩の者だった。父森之助に因縁があるらしかった。
 

  第六章 乳房
 示現流である。顔の脇で、剣先を中天に立てた構えは、一撃にすべてを賭けることを示している。景一郎は正眼だった。
 お互いの息が読める。そこまで対峙は長くなっていた。来国行が、刀ではないもののように、重く感じられる。
 野尻の、高く構えられた剣だけが見える。ほかには、なにもなかった。いままでの潮合とはまるで違ったものが、景一郎を包みこんできた。躰が、自分のものでなくなった。跳んでいた。来国行が、野尻の頭を二つに割っていた。
 野尻が倒れても、しばらく景一郎は刀を構えたままだった。野尻の斬撃が送ってきた刃風が、全身を痺れさせていたのだ。
 ようやく、来国行を鞘に収め、景一郎は歩きはじめた。半里ほど歩いたところで、立っていられなくなった。草の中に倒れ込む。

 身重の女を連れた小関鉄馬という男と道連れとなり、薩摩へ海から小舟で密航する。
 浜に上陸するが、薩摩藩士に襲われ女は死ぬ。景一郎は赤子を連れて熊本へ戻るが、小関は山へ逃れる。

  第七章 鬼の子守唄
 

  第八章 手首


  第九章 父と子
 鉄馬が語った。
 「まず、日向景一郎は、森之助の子ではない。森之助が江戸を出る時、俺にそう言った」
 「将監先生の子だ、と森之助は思っていた。はじめは、おまえがわが子と信じていたようだがね。森之助が、幾つかの藩に出稽古に招かれていたのは知っているか。江戸屋敷ではなく、国許に招かりたりしたのだ。ふた月、三月の旅にもなった」
 「ある時、旅から戻ったら、将監先生に抱かれているおまえのおふくろを、森之助は見ちまったってわけさ」
 「母が、私の目の前でのどを突いたのは、父が出奔して一年以上も経ってからです」
 「その辺のことは、知らん。森之助は江戸を出て金沢へ行った。金沢で自分を鍛え直すつもりだったのさ」
 「金沢で主筋のさるお方の御側室に、あろうことか懸想してしまった。それが、赤子の母親の多恵殿だ」
 「それで、上意討の命が下ったということですね」
 「森之助は、多恵殿の安全を考えてか、加賀藩のある文書を持ち出したのだ。柳生流の極意と、それを破る方法を克明に書いたものらしい」
 森之助が加賀藩から執拗に追われた理由がそれだった。

 景一郎は森之助と立合い、森之助を倒す。

◆ 祖父の遺言に従い、父を捜して放浪する日向景一郎。遺言は「父を斬れ」というものだった。
 遺言の意味が最終章で明らかにされる。