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 龍尾の剣  柳生十兵衛(1)      峰隆一郎著     徳間文庫    1990       2016/09/29

 弥助の竹刀が唸った。十兵衛の頭上に振り下ろされた。十兵衛は体を左へ移動させる。
 躱しておいて、面を打つつもりだった。だが、弥助の竹刀は激しく十兵衛の胴を打っていた。
 奇妙な竹刀使いだった。上段からの速い打ち込みが、途中で横に薙がれたのだ。真剣だったら存分に腹を割かれて死んでいるところだった。
 十兵衛は呆然としていた。そして想った。これが竜尾の剣か?! 書下ろし。

  一章 猿女
 酒井忠世は、かすかに眉間を寄せた。二十五歳にもなっていて、十四、五の少年のような顔を見せる、そのことが頼りないのだ。
 いまは神になられた家康公は、なぜ家光のような男を三代将軍の座に就かせたのだろうと思うことがある。
 本来は、大御所秀忠公の実子忠長公をもって三代将軍にすべきであった。酒井忠世は忠長公が将軍になあっれるものと思い込んでいた。まだ、家光が竹千代、忠長が国千代と言っていたころである。国千代は本丸に住み、竹千代は西の丸に生活していた。
 重臣たちは誰もが国千代が三代将軍になるものと思い込み、秀忠、お江与の方ですらおのれの子が将軍になるものと決めていた。
 ご神君家康公の気分が急に変わったからではない。またお福が駿府の家康のところに行って泣きついたからでも、もちろんないのだ。
 家康が家光を三代目にした理由はいろいろとある。家康は大局を見るのが得意だった。小さなことにはこだわらない。世の中がどおう動いていくかを予想できたのだ。もちろん予想通りに世の中が動くとは決まらない。
 家康は、二代将軍の座を秀忠にゆずったことを悔やんでいた。秀忠には将軍になる資質はなかった。だから、政事のことすべて家康が支配して来た。あるいは秀忠を無能にしたのは家康だったのかもしれない。
 三代目を秀忠の子忠長にしたくなかったのは無能秀忠の子というだけではなかった。忠長の母はお江与である。もとをたどればお江与は、豊富秀頼の母である淀君の妹である。またその血をたどれば織田信長にたどりつく。信長は神道派の典型であった。もともと神道から出た武将は気性が烈しい。癇症も高い。
 家康は、天下をとったときに、歴史を考えてみた。天下を治めるには、神道派より仏教徒のほうがよい。治まりやすいのだ。
 古代のことはよく知らない。源平のころからのことを考える。仏教徒の平氏を神道派の源氏が討って鎌倉幕府ができた。だが、鎌倉幕府は短命だった。そのあとにできた室町幕府の足利氏は十五代続いたのだ。この足利将軍家は仏教徒であった。
 源頼朝が弟の義経をなぜ討たなければならなかったか、義経が奥州・藤原家で育った仏教徒だったからである。
 また、武田信玄と上杉謙信が、なぜ川中島で六度も戦わなければならなかったのか、それは信玄が仏教徒であり、謙信が神道派であったからだ。
 古代から仏教と神道は確執を続けて来ている。合戦のほとんどは、たいてい二宗教が絡んでいるのだ。
 徳川家を二百年以上保たせるには、仏徒である家光でなければならないと、家康が家光を三代将軍と決めたとき、お江与は泣いて怒った。国千代が三代将軍と思い込んでいたからだ。
 竹千代が将軍と決まったとき、秀忠は一言も抗議できなかった。すでに家康は神であり、神の言葉には従うしかない、と秀忠は考えたようだ。自分の意見を表に出さないほうが、徳川はうまくいく。神の申されることに間違いなどあるわけがない。

  二章 豚尾
 

  三章 密書
 お半は十兵衛の一物を口にしていた。そしてゆっくりと頭を上下させる。一物は女の唇の間を出入りする。
 十兵衛は天井を見ていた。天井には父宗矩が顔を出す。宗矩は、おまえなどに何ができる、と言っている。十兵衛もまた、家光を押しのけて忠長を将軍にできるとは思っていない。また、おのれ一人の力で世の中を動かせると思い上がっているわけではない。
 ただ、神徒として、仏徒将軍をそのまま受け入れるわけにはいかないのだ。神徒ということは骨身んも同化しているのだ。家康のように、おのれは神道派でありながら、世の中が治めやすいからといって、将軍家を仏徒にするような、そんな軽いものではないはずだ。
 また、将軍家が仏徒だからといって、仏徒になってしまう父宗矩もどうかしている。柳生家を繁栄させるために、祖先からの神道を捨ててよいものか。神道とは、もっと大事にしなければならないもののはずだ。
 「上さまが黒とおっしゃれば、白も黒だ」 と宗矩が言ったことは忘れていない。
 お半が、十兵衛の腰を跨いで来て、一物を切れ込みに誘い込む。触れもしないのに、切れ込みには充分に潤みが伝わり、一物を壺の中に滑り込ませたのである。
 「あーっ、十兵衛さまァ」 と声をあげてしがみつき、そして腰を使いはじめる。襞がうねって一物をしきりに締めつけてくる。
 幕府の重臣の中にも、神徒将軍にもどしたいと腹の中で思っている者は多いはずだ。だがそれを口に出さないのは「もちろんだが、顔色にも出さない。黒の仮面をかぶって澄ましている。忠長が将軍になれば、その下面を脱ぎ、神徒の顔にもどる。大名だって旗本だって同じだ。
 家光が病死でもすれば、将軍家は、そして徳川幕府はがらりと変わる。仏徒から神徒に一変するはずだ。
 お半が声をあげて腰をゆする。腰をゆすりながら、次々と気をやる。上に跨っても気をやれる女だ。襞がよじれ吸い付いて来る。十兵衛は女の尻を両手で抱いていた。
 「果てる!」 と十兵衛は声を上げた。下から突き上げ、突き上げ、したたかに精を放った。
 精を子壺に受け、お半はまた声をあげる。
 家光が病死すれば、と考えているものは多い。予備に忠長がいる。それを最もこわがっているのは春日局だろう。家康が願ったことも水泡に帰し、春日局の半生も無駄になってしまうのだ。
 お半は十兵衛の上から降りると萎縮した一物を咥え、露にまみれた一物から露を舐めとっていた。

  群狼


  斬刃


  六章 血闘
 「おのれなどには負けはせん!」
 「それが敗北の因よ、勝つと思っては勝てん。生きることに執着がありすぎる」
 「キェーッ!」 と気合をかけた。その気合の中にすべてを投げ込めばいいのだ。雑念は消える。
 細身の十兵衛の姿が大きく見えだした。もしかしたらこの若僧、おのれの及ばない達人かもしれないと、疑心暗鬼が生じた。背中にびっしりと汗をかいた。冷汗である。心臓の動きがおかしかった。
 「ギャーッ!」 と十兵衛が叫んだ。上段から斬りつけてくる。狙いは額にあった。そのときに種次は体を左に移動させた。
 「しめた!」 と思った。十兵衛の刃は垂直に降りて来る。左に移動しながら体を開く。刃が降りてくるころには、体は刃を外れている、刃は一直線に流れていく。刃の重さにつれて体もまた前につんのめる。
 {勝った!」 と思った。あとは隙だらけだ、どこでも斬れる。二百石! と思った。勝ちは間違いない。動きだした体はとどまりようがないのだ。
 種次は笑った。これで父の代からの念願がかなう。徳川の臣になるのだ。だが、笑った顔がそのまま凍りついた。腹に衝撃を受けた。振り降ろした刃が腹に来るわけはない。何が何だかわからない。
 十兵衛の体は、軽く種次に触れておいて、左へ流れていく。八双に構えた刃は十兵衛のあとを追ったが、それは空を切っていた。
 「そんな馬鹿な」 種次は、目を剥いておのれの腹を見た。上布が裂けていた。裂けているのは布だけではない。腹の中も深々と裂けている。
 勝った、と思った瞬間、腹を裂かれていたのだ。こんな技があったのか。目をあげて十兵衛を見た。右手に刀を下げて立っていた。
 「おのれ!」 と刀を振り上げて、斬り込もうとした。足が動かなかった。
 上半身だけが前に突っ込み、そのままうつ伏せに倒れた。
 竜尾であった。竜尾が決まった。

 ◆ 家康は徳川将軍家を仏徒化して安泰を図ろうと家光を将軍にした。二代秀忠の子・忠長は将軍の座を外され駿河公となる。
 将軍家に従い柳生家を守ろうとする父宗矩と神道派であり続けようとする十兵衛は、忠長を軸に抗争をするという筋書きだ。
 柳生流に伝わる剣の技を著者なりの解釈で解説しているのが興味深い。