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 詩的思考のめざめ        (阿部公彦著 東京大学出版会 2014)   2014/07/22
     ー心と言葉にほんとうは起きていることー

 この本のことは少し前に新聞の書評欄で知った。題名に興味を惹かれた。
 ただ、読みこなせられるか自信がなく、価格も2500円なのでちょっと躊躇して、ダメ元で図書館に購入依頼をしたら、運良く手に入った。

◆ はじめにーー詩の「香り」にだまされないために

 私たちは「詩的」という言葉が好きです。詩的な気分。詩的な装い。詩的な言い回し。
 芳香剤のようなもので、「詩的」とつけるだけでちょっといい感じがする。でも、私は「詩的」という言葉を耳にすると警戒してしまいます。「詩的」という形容にはむやみに気安い心地良さが塗りこめられていて、言葉としての威力が失われているように思うのです。
 「詩的」という言葉に本来の意味を取り戻してもらいたいーこの本にはそんな願いをこめました。(中略)

 私たちは詩など滅多に読みませんし、詩の歴史だの、詩にかかわる手続きだのといったこともよく知らない。知りたいとも思わない。 ところが、なぜか「詩的」という表現に託して何かを伝えたり、何かを受け取ったりしようと思う。おもしろいことです。
 おそらく私たちはどこかで、自分なりのやり方で「詩」をしっているのではないでしょうか。教わらなくても、本を読んで勉強したりしなくても、何となく詩の居場所に心当たりがある。気配を感じ取ったり、作用に敏感に反応したりできる、しかし、それ以上はなかなか踏み込めない。意識化したり、言語化したりもしない。(中略)

 多くの人は多少なりと自分の中に「詩が苦手な自分」を隠し持っているのかもしれません。とするなら、「詩が苦手」という設定をとることで、むしろ根本的なことが話題にできるかなと思うわけです。このような設定をとるにあたって心がけたのは、無理に詩に入っていくよりも、むしろ詩から出ていくということです。詩は詩の外側にある。それがわかれば、言葉にはこんな作用もあるのだということもわかります。
 言葉は私たちの日常と生活に密接にかかわるものです。詩はそこに入り込んでくる。(中略)

 「詩的」という表現にくっついたちょっといい感じのことは忘れましょう。あわてて詩作品を読む必要もありません。
 まずは詩がいったいどこにあるのか、その居場所を見つけましょう。そうすると、私たちと世界との関係がちょっと違って見え始めます。その世界との付き合い方が変わる契機でもあります。

【目次】
T 日常にも詩は”起きている” ーー生活篇
 第1章 名前を付ける
   阿久悠「ペッパー警部」、金子光晴「おっとせい」、川崎洋「海」、梶井基次郎「檸檬」ほか
 第2章 声が聞こえてくる
   宮沢賢治「なめとこ山の熊」、大江健三郎「洪水はわが魂に及び」、宗左近「来歴」
 第3章 言葉をならべる
   新川和江「土へのオード」、西脇順三郎「失われた時」、石垣りん「くらし」
 第4章 黙る
   高村光太郎「牛」
 第5章 恥じる
   荒川洋治「詩とことば」、山之口貘「牛とまじない」、高橋睦郎「この家は」

U 書かれた詩はどのようにふるまうかーー読解篇
 第6章 品詞が動く
   萩原朔太郎「地面の底の病気の顔」
 第7章 身だしなみが変わる
   「伊藤比呂美「きっと便器なんだろう」
 第8章 私がいない
   西脇順三郎「眼」
 第9章 型から始まる
   田原「夢の中の木」ほか
 第10章 世界に尋ねる
   谷川俊太郎「おならうた」「心のスケッチA」「夕焼け」ほか

おわりに ーー詩の出口を見つける

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著者は素人、普通の人にも解るようにと例にふさわしい詩と丁寧な文章で解説を進めている。
だが、著者の真意を理解することはとても難しい。

各章で記憶に残る文章を拾っていく事にする。

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 第1章 名前を付ける

 名づけは詩のもっとも基本的な機能です。何かの存在をみとめ、その対象が気になってしまうこと。それに名前をつける必要があると思うこと。実際に名前をつけるかどうかよりも、名づけの必要を感じること自体に詩のエッセンスがあるのです。
 冒頭で私が、詩を知るためには詩を読まなくてもいいと言ったのは、まずこのことに意識を向けてもらいたかったからです。
 私たちはふだん、どれくらい名づけをおこなっているのでしょうか。何かを見つける。目につく。いや、「あっ」と思うだけでいい。
すると、この事件を何らかの形で自分の中に配置したくなる。そのためには言葉が必要になります。欲しい、と思う。この事件にぴったりの場所が欲しい。どこかに行ってしまわないように、そこに立てる旗が欲しい。人に言いつけるための、便利な言い回しが欲しい。
 このように「欲しい」という気持ちとともに言葉に手を伸ばすことが、詩の第一歩だと私は思っています。

 詩とは、名づけられるべき、でも、未だ名づけられていないものと出会うための場なのです。あるいはそういう名づけられていないものと出会うことが詩だと言ってもいい。強烈な名づけの衝動に駆られることが詩なのです。
一度でもこうした体験をしたことがあるなら、あなたはすでに詩をしっていると言っていいでしょう。

 第2章 声が聞こえてくる

 詩の外にこそ、詩はある。詩が苦手だという人は、たいてい自分が詩の外にいると思い込んでいるのですが、ほんとうは中にいる。 知らないうちにも、私たちは詩を実践しているのです。この章で注目したいのは、聞こえてくるという感覚です。

 詩人は音や声が聞こえてくるという感覚にとても敏感です。しかし、敏感なのは詩人だけではありません。私たちも敏感なのです。そのことを覚えておいて欲しい。日常生活の中で「あ、声が聞こえてくる」と思ったとき。私たちは詩のすぐそばまで来ているのです

 第3章 言葉をならべる

 詩では語り手は列挙をしたがるし、それをすることが許されている。
 日常生活の中でなぜ私たちが列挙をしないのかということから考えてみましょう。
道具として言葉を使うとき、私たちは言葉に意味させようと必死です。言葉に役割を与え、その役割を全うさせるために私たちはいろいろと工夫をする。明瞭に発音するとか。語順を組み替えてみるとか。相手がちゃんと聞いているか確かめるとか。そのとき私たちがとくに注意するのは、一つ一つの語が文の中でどのような役割を果たしているかを明らかにすることでしょう。
 ところが言葉を列挙するとそのあたりがあいまいになりやすい。そのため、私たちは意味がちゃんと伝わっているか不安になってくる。おそらく詩が苦手という人は、このような列挙にとまどったことが多いはずです。

 列挙によって言葉が連なり述語から遊離すると、私たちは目がくらみ、まるで語り手がそれに何も意味させていないような錯覚をするのです。言葉そのものがどんどん連なる結果、言葉が語り手から自由になる。ふと、言葉が意味や意図を喪失したように見えたりする。少なくともそういう瞬間がある。
 私たちはふだん、言葉を前にしてくらくらしたりはしない、でも、実はそういう言葉との付き合い方があっていいのです。むしろ、このくらくらっとするめまいの感覚は、詩の神髄にあるものでさえあると私は思う。

 列挙とは詩人の支配力と暴力性のあらわれです。言葉を列挙できる詩人は強い。しかし、それは危険な行為でもあります。下手な列挙を行えば、言葉はほんとうに意味をなくし、虚無に陥ってしまう。虚無すれすれのところから、こちらに戻ってくる列挙こそが圧倒的なのです。

 第4章 黙る

 私たちは言葉のことを考えるときに、ついすでにある言葉ばかりを見てしまいがちです。しかし、どんな言葉もはじめからそこにあるわけではありません。誰かが言おうと思って、体が反応して、口を開いて、そこでやっと言葉になる。書かれた言葉もそうです。
言葉というのは、ほんとうはいちいち生まれ出るものなのです。
 生まれなければそこにはない。これは驚くべきことです。いや、そういうことに驚くセンサーを私たちはみな持っている。
 あ、言葉がある!言葉が発生した! とその出現に驚き、ときには感動し、ときには怒ったり、悲しんだりする
。  そういう意味では言葉は衝撃的です。強いもの。強烈なものです。私たちが大きな声を出すのは、言葉がもともと持っているこの”強さ”を駆動させたいときではないかと思います。意識するとしないとにかかわらず、言葉の持っているエネルギー性にその持ち味を存分に発揮させようとしている。

 では言葉がもっともエネルギーを発生させるのはいつか。やや奇妙に聞こえるかもしれませんが、それは実は大きな声で語っていないときかもしれません。より正確に言うと、すでに大きな声で語っていないとき。つまり、いったん大きな音量になってしまった声はたいしたことはないのです。それほどの強さを持ち得ない。むしろ、これから大きな声になろうとするとき、沈黙を破って突然、言葉がでてくるとき、もしくはかつて大きな声だったものが静まるとき。そんなときに声は最も強烈になる。言うか言わないか、沈黙か無言かといった境界が意識されればされるほど、言葉は先鋭になるからです。

 第5章 恥じる

 詩は(カラオケと違って)曲がつかない。だから、はじめから恥ずかしい。
 歌だって恥ずかしいのに、曲がない詩はもっと恥ずかしい。何しろ「いつものその人とはちがう。日常をはずれている。反俗的なもpのである。もっといえば過激である」のです。
 しかし、詩を書くことに意味があるとしたら、この「恥ずかしさ」を背負っていることが大事なのではないかと私は思います。ひょいひょいと恥ずかし気もなく語られてしまう詩にどれだけの価値があるのか。
 詩はかつては歌とほとんど同義でした。しかし、詩は、今、歌とはちがいます。詩にはうたうことに対する疑いがこめられています。 詩はもともと歌とほぼ同義だったから、今でも歌に肉薄できます。肉薄することでこそ、歌との際どい違いを見せつける。今にも歌になりそうなのにならないという瞬間を示すことで、歌を疑うということを実演してみせるのです。
 語り手は知っているのです。もはや追い詰められた個人が、共同体の夢をあてにして自分を開放できるような時代ではなくなっていることを、自分というものをそう簡単に手放すことはできない。自分はしつこく自分に戻ってくる。まとわりついてくる。だから、自分の発信もブーメランのように自分に戻ってくる。それが言葉の「はずかしさ」というものです。
 しかし、この恥ずかしさはきわめて重要なものです。一種の威力があるからです。ほんとうに強いのはそういう言葉です。ひょいひょいと言えてしまう言葉など、たいした力を持つことはできない。

 そんな恥ずかしさの中でももっとも根本的なのは「語っているつもり」の自分に対する恥じらいです。言葉がほんとうに自分のものなのか、という疑いが生まれることがある。そうなると、とても陽気に歌になどひたってはいられない。

 第6章 品詞が動く

 問題にしたいのは、詩のどこを読むのか、ということです。
 私たちの心にはあるスイッチがある。このスイッチをオフにしてもらいたい。このスイッチは、ふつう言葉を読むときには一番大事になる部分ー内容の読み取りにかかわっています。これをオフにしたい。そうすることで、内容を読まずに詩を読んでみて欲しいのです。  内容を読まずに読むための方法を体得すれば、詩のみならず、ひいては小説や批評を読むときにも、これまでよりも深みのある読書体験をすることができるようになります。

 意味がわかるなどというのは、とくに詩を読む場合にはたいしたことではないのです。あくまでも通過点にすぎない。なのに多くの人はその通過点を”あがり”と勘違いしてしまう。そして、「で? だから何?」と思う。詩がわからないという人の多くは、詩を議論として読み、その物足りなさや呆気なさに呆然としている人たいです。「そんなこと言われてもなあ」と思ってしまう。

 言葉というのは理性や論理を表現することもできるけれど、他方では感情や気持ちをも表現する。でも、感情は言葉にしないとなかなか伝わらないものだけど、実際には言葉の枠からあふれ出るときこそもっとも効果的に表現される。そういうあふれる感じを表現するには、きれいに淡々と語られる言葉よりも、言葉ならざるものへと逸脱しつつある言葉の方がうまくいく。

 (名詞や動詞の反復がそういった効果を生むことがある)  いずれにしても大事なのは、私たち読者がそうした(名詞や動詞の)言葉の役割分担に敏感になることで、単に内容を読み取って、”あがり”にしてしまわないことなのです。

 第7章 身だしなみが変わる

 今回は少し視点をかえ、「よそ行き」か「普段着」かというところに注目してみたいと思います。
 日常生活でも私たちはよそ行きの顔と普段の顔を持っています。何よりも明瞭なのは服装です。近所のコンビニに買い物に行くときにはスウェットの上下で平気な人も、学校や仕事に行くとなると制服やスーツ姿になる。
 言葉にも「よそ行き」と「普段着」という区別はあります。端的なのは敬語。改まった場所ではですます調になる。またふだんは「僕」と言う人が急に「私」となったり、省略語を使ったり使わなかったりといろいろな違いが出てきます。
 文学作品の言葉はどうでしょう。当然「よそ行き」になりそうなもの。しかし、おもしろいのは文学作品の場合、むしろ「普段着」になることの方が多いということです。

 このような傾向は詩でもはっきり見られます。そもそも抒情詩はその名の通り、感情を表現するものです。感情を語る以上、それにふさわしいような、内側と直につながるような繊細な言葉が使われることも多くなります。しかし、単に怒りとか喜びといった感情をドバッと噴出させればいいわけではなく、どことなく独り言風であったり、あるいはごく近い人にささやくようにして語りかける口調もうまく使われてきました。
 詩の言葉というものはたとえ内面的なことを書くときであっても、社会や共同体の持つエネルギーを上手に生かすことができます。「内向き」もいいのですが、「外向き」の言葉もなかなか使い出がある。

 (ここで著者は伊藤比呂美の『きっと便器なんだろう』という詩を読みながら上のことを説明する)

とても良い詩なのですが、内容的に国語の教科書には載せにくいのではじめて読むという人も多いかと思います。

『きっと便器なんだろう』   伊藤比呂美(1955年生まれ)  「伊藤比呂美詩集 1980」

ひさしぶりにひっつかまえた
じっとしていよ
じっと
あたしせいいっぱいのちからこめて
しめつけてやる

抱きしめているとしめ返してきた
節のある
おとこのゆびでちぶさを掴まれると
きもちが滲んで
くびを緊めてやりたくなる

あたしのやわらかなきんにくだ
やわらかなちからの籠め方だ
男の股に股が
あたる
固さに触れた
温度をもつぐりぐりを故意に
擦りつけてきた
その意思に気づく
わたしの股をぐりぐりに擦りつける

したに触れてくびすじを湿らせてやるとしたは
わたしのみみの中を舐めるのだ
あ声が洩れてしまう
髪の毛の中にゆびを差し入れけのふさを引く
あ声が漏れる
ぐりぐりの男は
ちぶさを握りつぶして芯を確かめている
い、と出た声が
いたいともきこえ
いいともきこえる
わたしはいつもいたい、なのだ
あなたはいつもいたくする

さっきはなんといった
あいしてなくたってできる、といったよね
このじょうのふかいこういを
できる、ってあなたは

何年も前に、I という男と
やったことがある
今、体重と体温がわたしのしりを動き
畳の跡をむねに
きざみながらわたしはずっと I を
わすれていた I を忽然と I を

I の部屋 I によって
手早く蒲団が敷かれたこと
とうめいな
ふくろ、とか
こんなことやってきもちよくなるのかあたしはちっともよくならない
と言ったら I が
抜いてしまったこと
きもちよくならなくても暖かく
あてはまっていたのに
駅まで抱きあって歩いた風が強く
とても寒く
かぜがつよくとてもさむく
とてもさむく
そのあといちど会った腕に
触らせてもらって歩いた
性交しないで別れた
それから
会うたびに泣いた、あこれはあなたに対するときだ
わたしをいんきだと言った I の
目つきが残るその I のことをずっと

あたしは便器か
いつから
知りたくは、なかったんだが
疑ってしまった口に出して
聞いてしまったあきらかにして
しまわなければならなくなった

ーーーーーーーーーーーーーー
 この詩人の目的が性を描くことそのものにあるというよりは、性を扱うことを通して得られる言葉の風情を表現することにあるとわかってきます。
 そもそもなぜ性行為なのでしょう。セックスというのはふつうふたりで行うものです。また多くの場合、人前でしたりするものではありません。密室で、人目につかないよう夜などに、知人や両親や子供などに気づかれぬよう、いつの間にか行われるもの。そしてこの密室の行為は、ふつうは他人には語られないものです。
 つまり性行為というのは人間の行動の中でもかなりプライベートで秘密的な行いなのです。しかし、原理的にはそれは一人ではなく二人で行うものですから、秘密的でありながら共同性、もしくは共犯性がある。二人という最低限の「社会」で営まれる秘密でもある。

 性行為は親密で、プライベートで、秘密的。また暴力的で、傍若無人でもある。そして「愛」に満ちている
 この詩では、ひらがなと漢字を入り混じらせて使うことによって、男女のこころのズレを表現しているように見える。
 行為の最終局面で、男の心が入っていないことがわかっているから、それが「いたい」。あるいはほんとうは「いい」のに、そのために「いたい」になってしまうのかもしれません。しかし、そんな状況でありながら、二人がこの上なく物理的に密着しているのも確かです。語り手にとってはそれは不本意な、男の主導権に従った密着なのだけど、二人の距離が縮まって、言葉が例のプライベートなささやきの形(ひらがな)をとっているのは間違いない。

 第8章 私がいない

 日本では抒情といえば、短歌というきっちりした枠のはめられたジャンルがあり、それゆえ。まずは五七調という形式を破ることが至上命題となりました。
 しかし、五七調を乗り越えたあとに待っていたのは「自由」というよりは「欠如」でした。言葉の違う西洋の抒情詩を五七調を打破するためのモデルとした日本の口語自由詩は、形式上のモデルにできるものを持っていませんでした。そのため、口語自由詩には形の上での決まりはほとんどありません。”詩”というものを理念の上では志向しつつも、共同体的な形にはとらわれたくないという意識です。
 そこで唯一共同理解として残ったのが「私」だった
というわけです。徹底的に「私」である、ということ。「私」の言葉を語る、ということ。これが現代詩の最低限のルールとなってきました。

 西脇順三郎の『眼』という詩では、〈語り手=私〉という構図を暗示しつつも、なお、語り手が「私」にはほとんど言及していない。つまり、語り手は単に「私」を設定したり隠蔽したりするのではなく、「〈私〉がいるのだけれど、まるでいないかのように扱いますからね」という複雑な態度を表現している。

 第9章 型から始まる

 口語自由詩にも時折、型らしきものを見つけることができます。
 型の根本にある原理は反復です。特定の言葉の使い方を何度も繰り返すことで、その使用法がことさら目立つ。すると、そのような構造そのものに何らかの価値があるような気がしてくる。情報の伝達という面から見ると繰り返しは無駄であり、意味の停滞につながりそうですが、他方、繰り返すことで、言われている内容とはかあくぁりなくなぜか力が漲るような気がしてくる。型は勢いを生み、リズムを作り、やがては歌謡性につながります。

 第10章 世界に尋ねる

 散文の言葉には潔さが要求されます。白黒はっきりさせろ、と言われる。
 詩の言葉はーー少なくとも谷川俊太郎の詩はーーそこのところを突く。何しろ彼の詩は、自分よりも「全体」を語ろうとするのです。  そのために、人がふだんは触れないような痛い部分や隠された部分まで暴いてしまう。そうすることでほんとうの全体に到達しようとする。でも、ぜんぶを言えばいいというものではありません。全体は、なかなかすばしっこい。ぜんぶを言えば全体が語れるというものでもないし、そもそも数十行の詩でぜんぶなんて言い切れるわけがない。だからいろいろな技を駆使することになる。
 彼が「どきっ」とさせることを好むのはそのためです。全体を語るぞ、と見せかけておいて、ぱっとそこから飛び立つ。それまで積み重ねてきた「次はどうなる?」という問の連鎖をぱっと投げ捨て、いきなり別の言葉で語り始めるのですそうすることで全体の果てしなさを生む。そんなことが詩では許されるのです。

おわりに ーー詩の出口を見つける

 詩には書く人の生理的な特徴がかなり強烈に刻印されているものです。とくに詩を読み始めてすぐの頃は、詩にあらわれた匂いのようなものがすごく気になる。作品や書き手との相性もはっきり出る。中には問答無用におもしろい、いや気分が悪くなるものだってある
 そういうときはやせ我慢はやめましょう。今、読まなくてもいい。まずは自分の体質に合うものから手にとってはいかがでしょう。
 体質ということでいうと、詩人にはだいたい二通りいます。

 一方には言葉の遅い詩人。どちらかというとその言葉が読者より”遅れてくる”と感じられる詩人です。
 読む人の方が先を歩き、詩は後から追いついてくる。読者は少しペースを落としたり、聞き耳を立てたりしないと、なかなかその詩の世界には浸れない。忍耐がいる。こういう詩人は、詩人なのに言葉少なで、もの静かで、一行にせいぜい五字か十字くらいしかしゃべらない。「自分にしゃべれるのは詩の言葉だけだ・・・」というような追い詰められた頑なさがあって、ひとつひとつの言葉へのこだわりも強く、どうしてもこうでなくちゃいけない、と寸分のスキもない語りになっている。
 こういう詩を読むときには、書いた人の生理や神経に没入することになる。密着型です。読むことと、好きになることがかなり接近している。というか、好きにならないと読めないのかもしれません。でも、日本の近現代詩の主流派、たぶんこういう作品によって作られたのです。

 しかし、これとは逆に、読者の一歩先を行くような詩人もいます。文字通り多弁でやかましい。
 どんどん先に歩き、読者だけではなく語る自分自身さえも置き去りにしてしまう。固有の文体だの生理だのということにはこだわっていないように見える。刺激と、強度と、変化が特徴で、読者もじっくり待つような忍耐はいらないかもしれないが、わあわあしゃべる早足の人を後から追いかけていくのはなかなか大変です。ときには適当に聞き流したりしながら、ちょっと隙間のあいたお付き合いをすることになる。このような詩人はたいてい「異色」などと呼ばれます。たとえば鈴木志郎康とか。ねじめ正一とか。

 詩は入っていくためのものではなく、そこから出て行くためのもの。少なくとも、私がこの本で提示したかったのはそういう意味での「詩的思考」でした。

 それでもあなたが「詩」にとりつかれてしまったら、どうあがいても、「詩」から自由になれない。しかも、もっともっと「詩的」なものに囚われたいと思うようになったとしたら、それはまた別の話です。

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 一生懸命に読んでみたが、正直な話良く分かったとは言えない。
 ただ、詩(広く詩歌)を読む場合には、言葉を追って意味を掴もうとするのではなく、言葉の群れから何かを感じ取ることが大切なのだということは分かった。
 逆に若しも自分でも詩歌を作るなら、単純に思い/想いを言葉に連ねるだけではなく、その時の感情や衝動を表す言葉を丹念に探すことが秘訣のようだ。