読書室トップへへ
 胸に突き刺さる恋の句       谷村鯛夢著   論創社 2013        2014/03/02

        ーー女流俳人 百年の愛とその軌跡ーー

いつもは朝日俳壇を読んでいて、恋の句がどうして出てこないのかと不満に思っていたが、この本のプロローグを読んで、自分が【葦の髄から天井覗く】を実行していたことを思い知らされた。
著者谷村氏(1949年高知県生まれ)は国木田独歩が1905に創刊し100年を越す長寿雑誌『婦人画報』の編集長を務めてきた人。
若い女性が恋する今を詠った句は、『婦人画報』『主婦の友』(大正11年創刊)などに投句されてきたのだ。今までの私は、山に登って鯛を釣ろうとしていたようなもので、これでは釣れるはずもなく不明を恥じるばかりだ。

さてこの本の章構成は、
 ・プロローグ (女性俳人、百年の軌跡)
 ・第一章 女性俳句の夜明け前 (子規と北陸の美少女)
 ・第二章 「青鞜」が発信した挑発的恋愛句
 ・第三章 大正から昭和へ (競い合うかな女、久女と『主婦』の誕生
 ・第四章 昭和から平成へ 百花繚乱 (多佳子、鷹女、信子、真砂女、はん女・・・)
 ・エピローグ (俳句で表現することの尊さを知ってほしい)

プロローグでは次の句が挙げられている。
 《我が恋は林檎の如く美しき》 (北陸の美少女)
 《鳴神や、仁王の臍の紙礫》 (平塚らいてう)
 《花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ》 (杉田久女)
 《鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし》 (三橋鷹女)
 《ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜》 (桂信子)
 《雪はげし抱かれて息のつまりしこと》 (高橋多佳子)

ここに挙げられた句は(これまで引き合いに出した古今の短歌と同じく)どれも恋の情念を感じさせる。
季語を入れて俳句のルールを守りながら、それでいて季語のわざとらしさなどはどこにも感じさせない見事な句ばかりで嬉しくなった。さらに言えば、作者が今まさにそれぞれの恋の最中にいて、高まる気持ちを詠み上げていることだ。

プロローグには、こんなことが書かれている。
『皆さんご存じのように、順当な生活、順調な人生から「芸術」は生まれません。(中略)自分の思うようにならないこと、自己実現を阻むもの、そうしたあれやこれやが、うっ屈感や不満感を生み、表現活動のエネルギーとなっていくわけです。 そして、そうした「ままならぬもの」の代表が「恋」ということになるでしょうか。(中略)
女性誌に長く関わり、いま、中学生たちに俳句の授業をする中で現代の女子たちの恋心に直面することになった私のミッションかな、といえば大げさでしょうか』

これから中味を読んで行こうとわくわくしている。

ーーーーーーーーーーー

【プロローグ】に、著者がこの本を書こうとした目的が次のように書かれている。
とても勉強になるので、抜粋を書き留めておきたい。
ーーーーーーーーーーーーー

      《雪はげし抱かれて息のつまりしこと》

よく知られた橋本多佳子の恋の一句。美貌の未亡人多佳子の、切迫感あふれるこの一句について、多くの人が「夫を亡くして長い時間を経ているのに、いまも亡きひととの愛のひとときを思い出し」というふうに解説してきたということが、逆になんとも不自然な感じがして仕方ありません。「思い出」よりも「いま」を詠む、それが俳句だとよく言うのに、です。

【『「思い出」よりも「いま」を詠む、それが俳句だ』・・・・この言葉はよく覚えておこう】

本書のもう一つの主題は、まず、女性の恋の句を時代の空気の中において読んでみようということにあります。
先輩女性たちが苦闘し、また楽しみながら、俳句という表現手段かをどうやって自分たちのものにし、広げて来たのか、ということへの注目です。
女性は男性に比べて多くの社会的制約を受けながら生きてきました。自分の考えを自由に表現することもままならない、そうした制約の多い、いわば長い「負の時代」の中で、先輩女性たちは、ときにひとりで、ときにグループで「自由な、自分らしい表現」を獲得するためにさまざまな活動をし、さまざまな作品を作り、発表してきました。
そうした作品の中で、恋や愛をテーマにしたものには人間の最も原初の感情が表現されています。恋や愛という事象は、隠しようもなく、その人の本質、原質が現れてくるものだからです。まさに、小倉百人一首の「しのぶれど色に出でにけりわが恋は・・・・・」ですね。

元来、詩というものは恋愛の喜び、悲しみ、悩みを盛り込む器でした。そして、俳句ももちろん、詩であることはいうまでもありません。ですから、俳句で恋や愛を詠もうとするのはしごく当たり前の成り行きです。
しかし俳句は、世界で一番短いともいわれる短詩形、同じ短詩形の和歌に比べても半分ほどという短さですから、省略につぐ省略をします。そして最終的には読む相手に「解釈はゆだねますからよろしくね」という形にし、はっきりとこうだとは言わないことを旨としています。ですから、思いを伝えなければならない恋や愛の表現には、俳句はどうも似合わないのではないか、とされてきたきらいがあります。
俳句をあえて選んだ女性たちは、自らの恋と恋心を、愛を、愛の始まりと終わりを、どのように表現したのでしょうか。
その経緯を、時代の織り成す背景の中で、醸し出す空気の中で、たどってみたい。(中略)
恋心だけではなく、きっと、彼女が生きた社会の空気、匂い、湿気、そして本質のようなものまで、浮かび上がってくるのではないか、出来れば、それを読者の皆さんと一緒に受け止めたい。一緒に、読みとりたい。(引用ここまで)

橋本多佳子は明治32年生まれ。
冒頭の句は、著者も言うように、「思い出」というよりは「いま」を詠んだ句と思いたい。

ーーーーーーーーーーーーー
千脇 義憲さん、Ben Yangさん、他2人が「いいね!」と言っています。
.
松村 京子 面白そうな本を紹介していただき有難うございます。
..
北野 和良 >松村さん。『思いを伝えなければならない恋や愛の表現には、俳句はどうも似合わないのではないか』という一般論に、そうではない、明治になり女子が俳句に参加し始めた当初から恋の秀句はあるんだよというとても嬉しい本です。
..
松村 京子 やはり「恋の歌」は、男より女の方が熱心なのでしょうかね。一途ですから・・(笑)

ーーーーーーーーーーーーーー

【第一章 要約】  《女性俳句の夜明け前》 

 《我が恋は 林檎の如く 美しき》 (中川富女)

俳句は「座」の文芸である。江戸の前期、松尾芭蕉の時代の前に、貞門、談林の俳諧があり、芭蕉も、まずそうした文芸サロンの世界の宗匠、つまりプロとして立とうとしたのです。「宗匠」が仕切る俳諧の「座」は、文化サロンであり、武士や大店の主人とか、俳諧のプロたち、つまり男の世界だった。
正岡子規は江戸時代の俳句を「月並俳句」と切り捨て、「写生」を標榜し、女性にも門戸を開いた。

明治30年前後、金沢の中川富女(明治8年生まれ)は第四高等学校に通う下宿生・竹村秋竹に俳句を学び恋仲になり、秋竹が東京へ戻ると彼を追うように上京し、子規に紹介された。この時、子規は富女の「句材の豊かさと天性の俳想」に彼女の美貌と天才的な感性に驚き、
 《行かんとして雁飛び戻る美人かな》 と詠んだ。
この時代は、自由恋愛などもってのほかで、男ですら親(家長)の許しがなければ結婚できず、秋竹も親の許可が得られず富女との結婚は成らなかった。富女は失望し、俳句界からも去って行った。

冒頭の富女の句は、不思議な魅力に満ちた句だ。現代人の心にもまっすぐに響いてきます。勢いよく放たれた矢のように胸に突き刺さります。詠みっぷりによどみがない、若々しいということもありますが、どこか近代的な響きが感じられるのです。

しかし、俳句のプロにかかると突っ込みどころが多いらしい。
・「美しき」の言葉で、この句が現在の事(恋愛宣言)を言うのか、過去を振り返るのか(悲恋の遺作)がはっきりしない。(作句年が分かっていない)
・林檎は、季語か?
著者は、この句にさらに藤村の「初恋」やキリスト教の「賛美歌・アメージンググレイス」の影も感じている。
富女が少女期を過ごした金沢の「柿木畠」の町のイメージソングとして、「富女の恋」がインターネットに流れ町おこしにに一役買っている。(要約ここまで)

虚子が子規を引き継ぐ以前に、このような恋の句を詠んだ少女がいたことは、実に驚きだ。
現在、このような瑞々しい句が全国紙俳壇に見られないのはどうしてだろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

【第二章 要約】 『青鞜』が発信した挑発的恋愛句

 《鳴神や、仁王の臍の紙礫》 (平塚らいてう)

明治44年(1911)平塚らいてう(明子)は自らリーダーとなって文芸誌「青鞜」を創刊する。日本女子大学校の卒業生たちが「表現」の拠点を持とうとしたものでした。
創刊の辞に『元始、女性は太陽であった』と宣言し、 有名な歌人・与謝野晶子の詩「そぞろごと」が寄せられた。

 山の動く日来る。
  かく云へども人われを信ぜじ。
   山は姑(シバラ)く眠りしのみ。
    その昔に於て
     山は皆火に燃えて動きしものを。
      されど、そは信ぜずともよし。
     人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
    すべて眠りし今ぞ目覚めて動くなる。


冒頭の句にある、「鳴神」「仁王」「臍」「紙礫」とはどういう意味を持つのか。
「鳴神」は、「雷」「電光/稲光」のことで、怖いものの代表の一つ。 「仁王」はお寺の門を守る仏教尊像。
月並俳句的に理解すると、雷が鳴って力自慢の仁王も臍を紙礫で隠した、一種の写生句となろうか。
著者は、鳴神に恋の匂いを嗅ぎつける。 雨を降らせる竜神を滝つぼに閉じ込めてしまった鳴神上人を、雲絶間姫が「色仕掛け」で陥落させて注連縄を切って竜を開放する歌舞伎十八番。

恋はいつも、あの「鳴神」の雲絶間姫のように女がリードするもの。
男は仁王さんみたいに力瘤なんか作ってエラそうにしているけど、ちょっと何かあれば臍を隠してバタバタするものなのよ。そんな男の臍、男の中心部めがけて、この紙礫=「青鞜」を投げつけてやりましょうよ。

らいてうは、「塩原心中未遂事件」を起こすなど、多情な女だったようで、漱石の『三四郎』のヒロイン美弥子のモデルだったという説もあり、「若い燕」という言葉も作り世に流行らせた。
ーーーーーーーーーーーー
 『♪男なんてさ 男なんてさ嫌いよ はっきりしてよ ♪
♪好きなら好きだと ききたいの 駄目よ浮気じゃ 出直して ♪』

『元始、女性は太陽であった』の言葉で、
できそこないの男たち』ー生命の基本仕様ーそれは女であるー(福岡伸一著 光文社新書 2008)を思い出した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~kitanok/dokusho_2009/dekisokonaino_otoko.html

ーーーーーーーーーーーーー
松村 京子 平塚らいてうの「青鞜」や与謝野晶子の「山の動く日来たる」は懐かしい言葉です。若い頃(未だ男女雇用機会均等法など無かった時代)、封建的な銀行という社会の中で、女性の地位向上のために微力ながら奮闘した時期がありました。「大したことは出来なかった」という無力感が残っただけでしたが、現代では少しはマシな時代になったようですね。
..
北野 和良 >松村さん。女性の地位向上という面では、日本はまだまだ世界で遅れていますね。
ーーーーーーーーーーーーー

【第三章 要約】   『大正から昭和へ』 --競り合うかな女、久女と「主婦」の誕生ー

 《呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉》  (長谷川かな女)
 《花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ》  (杉田久女)

虚子は明治41年に「ホトトギス」に「雑詠欄」というページを新設し、広く一般から俳句の投稿を募る新企画を始めた。
虚子と碧梧桐とは、有季VS無季、定型VS非定型、伝統VS前衛と対立した。碧梧桐は「新しい俳句の行き方」を全国行脚し新傾向俳句は、大流行の勢いとなった。
虚子は一般からの投稿による雑詠欄で碧梧桐の勢いを止めようとした。  《春風や闘志抱きて丘に立つ》
子規は二人を評して「虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐は冷ややかなること水の如し」言った。
虚子の決断力は、「台所俳句」「主婦俳句」という形になって、女性の才能を俳句の世界に呼び込むことに成功した。

男社会の俳壇に登場したかな女は、ひとり輝くマドンナ。
 《あるじよりかな女がみたし濃山吹》 (原石鼎)
世間に負けない芯の強さ、柔軟さ、日本橋生まれの都会的センス、その蔭にあるある種の凄み、こういったさまざまな要素を兼ね備えた女性だったと思われます。
もうひとりのホトトギス俳人・杉田久女と軋轢もあった。

 《虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯》  (久女)
 《花蜜に命うるさし歌を詠む》  (かな女)
 《青柿落ちる女が堕ちるところまで》 (かな女)

虚子は大部数を誇る「主婦の友」にも読者投稿のによる俳句欄を創設する(大正11年)。読者に対して、蕪村の句のような「素直な」「ありのままな」写生句を作るよう強く勧めた。

 《春の灯に金粉けむる睫かな》  (かな女)
 《残雪や水しむ靴に爪紅く》  (同)
 《足袋つぐやノラともならず教師妻》  (久女)
 《張りとほす女の意地や藍ゆかた》  (同)
 《押しとほす俳句嫌ひの青田風》   (同)
昭和11年、理由も不明のまま久女はホトトギス同人から除名された。

ーーーーーーーーーーーーーーー
かな女と久女、ふたりの句の景色の向こうに恋と、さらにその向こうに男の影を見る気がする。
ーーーーーーーーーーーー

【第四章 要約】   『昭和から平成へ 百花繚乱』 --多佳子、鷹女、信子、真砂女、はん女・・・・

 《雪はげし抱かれて息のつまりしこと》 (橋本多佳子 明治32)
 《ゆるやかに着て人と逢ふ蛍の夜》 (桂信子)
 《死なうかと囁かれしは蛍の夜》 (三橋鷹女)
 《香水やその夜その時その所》 (武原はん)

多佳子は昭和12年、38歳で夫と死別するが、俳人としての生活に全力を打ちこむ。
 《月光にいのち死にゆく人と寝る》 (多佳子)
 《着てすぐにわかれの言葉霧の夜》    《七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ》
 《泣きしあとわが白息の豊かなる》    《許したししずかに静かに白息吐く》

寡婦として新たな恋に踏み込んだ多佳子の句だと考えたい。

三橋鷹子は多佳子と同い年、千葉県成田の名家の娘、若山牧水に私淑したが、結婚後夫に勧められ俳句に転向した。
 《鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし》    《薄紅葉恋人ならば烏帽子で来》
 《みんな夢雪割草が咲いたのね》    《蛸が嘆くよ 肢に指輪を嵌めかねて》


恋愛句の金字塔、桂信子。 《ゆるやかに着て人と逢ふ蛍の夜》
 《逢ひし衣を脱ぐや秋風にも匂う》    《いなびかりひしと逢ひきし四肢てらす》
 《窓の雪女体にて湯をあふれしむ》    《逢ひたくて凧を見てゐる風邪ごこち》    《女ざかりといふ語かなしや油照り》


 恋愛俳句の巨匠、真砂女。明治39年千葉県鴨川生まれ。
激しい恋愛の結果、日本橋雑貨問屋の次男と結婚し一女をもうけるが、夫は博打に入れあげて失踪。
実家を継いでいた長姉の急逝でその長姉の夫と結婚し吉田屋の女将となるが、夫とは心を通わすことが出来ず、館山海軍航空隊の七つ年下の妻のある海軍士官と恋愛関係となり戦中戦後を通じて長く関係が続く。

 《羅(ウスモノ)や人悲します恋をして》    《何を以って悪女といふや火取虫》
 《ふるさとに悪名かくれなくも涼し》    《冬菊やノラにならひて捨てし家》
 《今生のいまは倖せ衣被》        《かのことは夢まぼろしか秋の蝶》


武原はんは、明治36年徳島県生まれ、大坂に出て芸妓学校に入り、14歳で芸妓「はん」となる。
27歳で東京の大地主の次男坊・「高等遊民」青山次郎の後妻なり、小林秀雄、中原中也、柳宗悦、永井龍雄、宇野千代、白洲正子などと交際する。青山と離婚した後、虚子と出会い「はん女」の俳号を与えられる。
 《小つづみの血に染まりゆく寒稽古》    《春の夜や岡ぼれ帳をふところに》 
 《秋雨やトランプ占ひ相ぼれと》


その他にも著者は自分好みの40句ほどを載せている。
 《虹二重神も恋愛したまへり》  (津田清子)      《抱かれたし信濃夏霧捲き来たる》  (鬼頭文子)
 《人の手がしずかに肩へ秋日和》  (鶯谷七菜子)      《逢ふための薄刃のごとき夏の帯》  (櫛原希伊子)
 《抱かれて痛き夏野となりにけり》  (津沢マサ子)      《抱擁や初髪惜し気なくつぶす》  (品川鈴子)
 《ハンカチを拡げて何も始まらず》  (森田智子)      《春満月袋の中に二人いる》  (鳴門奈葉)
 《抱かれて指繊くなる雪明かり》  (寺井谷子)      《その人の汗がひくまで待ちにけり》  (高澤晶子)
 《蛍狩うしろの闇へ寄りかかり》  (正木ゆう子)      《桃熟れてもうすぐ叫ぶ叫んでしまう》  (鎌倉佐弓)
 《水着選ぶいつしか彼の眼となって》  (黛まどか)      《くちづけのあとの真っ赤なトマト切る》  (大高翔)

ーーーーーーーーーーー
松村 京子 鎌倉佐弓さんは、私の高校時代の親しい友人です。
..
北野 和良 >松村さん。鎌倉さんのあの句は何歳の時に作られたのでしょうね?
..
松村 京子 正確な時期は私にも分かりません。ただ、手許にある佐弓さんの句集(2冊)には掲載されていないことから類推するに、30代半ば以降ではないかと推察されます。
..
北野 和良 >松村さん。俳句が「今」を詠うものだとしたら、作者の歳によって「桃熟れて」の解釈も違ってくると思ったものですから。

ーーーーーーーーーーーーー
【エピローグ 要約】   『エピローグ』--俳句で表現することの尊さを知ってほしいーー


昭和3年『婦人画報』の俳句欄を受け持った長谷川かな女は、「日常生活と俳句」でこう書いた。
「これは人と生まれ出た誰もが持っていなければならない詩情ともいいましょうか。自分では気がつかずにいても誰にもないはずの尊い珠玉であると思います。ただその詩想をそとに現わすことを知らなかったため、現わすことは知っていても自然に親しむことを知らなかったため、などで尊い珠玉を持ち腐れに一生を終わってしまうことの多いのは大変悲しいことだと思います・・・」

昭和七年、「婦人画報」はいきなり河東碧悟桐の「旅中吟」五句を掲載し、彼による読者俳句欄を始めると告知する。しかしこれは大失敗に終わり、翌八年、碧悟桐は還暦を機に、俳句界からの引退を表明する。
この後、「婦人画報」には、御大高浜虚子と愛娘・星野立子の「父子共撰」のビッグ企画が登場する。しかし日本は日中戦争、太平洋戦争へと突入し俳壇の活動も縮小される。
昭和14年、「主婦の友」が水原秋桜子(子規の弟子、「ホトトギス」から離反独立し「馬酔木」を主宰)の俳句欄を作る。
昭和27年秋桜子は中村汀女に交代する。汀女は昭和59年まで三十余年、戦後の女性俳句はこの人の名を抜きには語れない。
 《外(ト)にも出よ触るるばかりに春の月》
名のある人が自分の表現を選んでくれたという事実が、どれだけ俳句を作る上での励みになり、人生の大きな支えになったことかと思います。そして、そうした女性誌の俳句欄投句者たちが、現在の女性俳句隆盛の大源泉になっていることは間違いありません。

『あとがきにかえて』ーー女性俳句の未来は恋愛句が開くーー
著者が関与する「石田波郷俳句大会」(東京都清瀬市)に触れて、地元小学校への「俳句出前授業」を紹介している。
 《波乗りとカキ氷が好き君が好き》      《君の心つかめぬ天の川つかめぬ》
 《夏服の彼を横目で追っている》      《恋しくていつも夢見る蛍の夜》
一番感じるのは、中学二年生から三年生にかけての少女たちの感受性の成長度。多くの女子中学生が、その一年間にびっくりするほど、そしてうれしくなるほど感受性が豊かになるのです。

ーーーーーーーーーーーー
恋愛句という縦軸を通じて、明治以来の俳句の歴史を学んだ。各時代の女性俳人たちが男社会の俳壇で健気に戦ってきたことに感服する。今詠み人の70%は女性だと言われている。小林凜くんのような才気ある少年を含めて若い世代が俳句界をさらに活性化することを期待したい。


ーーーーーーーーーーーー
《着物、和服のイメージ》   2/23

着物(和服)は古来からの民族衣装として世界に誇る日本文化の一つだ。
海外の要人と会われる日本のトップレディたちがパーティで着物姿を披露されているのを見ると誇らしく思う。

ただ現実の日常生活の面では、(特に若い女性の)着物は成人式や女子大生の卒業式、結婚式などでしか見られなくなった。
縮小した市場で価格は高止まりへシフトし、辛うじて伝統を維持している状況だ。

従って着物(を日常に着る)と聞くと、趣味の良いご年配、或は明治、大正、せいぜい戦前までの習俗というイメージではないだろうか?
前に紹介した、杉田久女、三橋鷹女、桂信子、高橋多佳子などの恋の歌も、女性が自由に何の遠慮もなく自分の気持ちを現すことの出来ないという時代の空気の中で、よくぞ勇気を出して恋の情念を詠いあげたと感心するばかりだ。
しかし、少し句の細部に目を向け、着物姿を垣間見ると、ああやはり明治の句だなあと感じるのも事実だ。
秀句ではあっても、同世代としての共感を持つというわけには行かない。


TV笑点の歌丸師匠が、”皆さん、今度は「俳句」の問題です。ここにあるのは明治の女流俳人の有名な俳句ですが、皆さんはこの句の心を汲み取って、平成生まれのお譲さんになったつもりで五七五を作ってください。上手く出来た人には座布団を差し上げます。えっ、もう出来たの、喜久ちゃん、どうぞ”

 《花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ》 (杉田久女)
   〈初振袖 脱いでまつわる紐いろいろ〉
   〈ブラジャーの 紐外すのも もどかしく〉


 《鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし》 (三橋鷹女)
   〈花びらで 占う恋は メトロノーム〉

 《ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜》 (桂信子)
   〈桃色の 勝負パンティ 蛍狩り〉

 《雪はげし抱かれて息のつまりしこと》 (高橋多佳子)
   〈雪はげし メロメロになる 溶けるまで〉