埋み火 秋山久蔵御用控 4
藤井邦夫著 文春文庫 2012 2013/10/07
神楽坂下の掘割に、袋物屋『丸菱』の内儀・お艶の死体があがった。
お艶は半年前に入婿の文吉を追い出して離縁しており、恨みによる殺しと思われた。
だが、当の文吉は事件と係わりがないらしい。
南町奉行所吟味方与力・秋山久蔵は、二人の離縁の裏には何事かが潜んでいると睨み、手下に探索を命じる。
人気シリーズ新装版第4弾。
狂剣
「助けて・・・・・」 由里の恐怖に震えた声がした。助けなければ・・・・・。
香織は焦った。だが、眼の前にいる浪人が、由里を助けに行こうとする香織の邪魔をした。
香織の焦りが募った時、浪人たちの悲鳴があがった。二人の浪人が倒れ、若い浪人が由里を後ろ手に庇って見下ろしていた。香織の邪魔をしていた浪人が、慌てて倒れている二人の傍らに走った。
どうやら若い浪人が、二人の浪人を叩きのめして由里を助けてくれたようだった。
「何をしやがる・・・・」 香織の邪魔をしていた浪人が怒鳴り、刀に手をかけて身構えた。
「・・・・・無駄なことだ」 「黙れ」
身構えた浪人の刀が閃いた。刹那、刃の噛み合う音が甲高く響き、浪人の刀が宙高く舞い上がった。
若い浪人が微かに笑った。若さに似合わない、落ち着いた静かな笑いだった。
次の瞬間、三人の浪人は身を翻し、野次馬を掻き分けて逃げた。
若い浪人の名は、柊右近・・・
遺恨
「十年前、浪人たちが悪辣な金貸しを勾引し、無理矢理身売りさせられた女房や娘を身請けしろと迫った事件があったのを覚えているか・・・・」
「ええ、確か追い詰められた浪人どもが、金貸しを人質にして浅草今戸の荒れ寺に取り籠った件ですね」
「私も捕物出役に出たが、何しろ相手は死を覚悟した浪人どもだ。最後には剣使役の秋山さもの鉄鞭を振るわれた・・・・」
「蛭子の旦那、確かその時の浪人どもに弓矢を使う奴がおりましたね」
「ああ、何人もの同心や捕方が、矢傷を負って手を焼いたが、秋山さまが飛び込んで鉄鞭の一撃で倒した」
「秋山さまも弓矢で・・・・・」「うん。あの時の浪人と関わりがあるかも知れない・・・・」
「旦那、あの時の浪人は・・・・」「本間平三郎、仕置をされる前に、秋山さまの鉄鞭の傷がもとで伝馬町の牢屋敷で死んだ」
「じゃあ、本間平三郎と関わりのある者が、そいつを恨んで・・・・」 「かも知れない・・・・」
埋み火
「袋物師の文吉とは、どういう関わりだい」 「文吉さんとは幼馴染みです」 「幼馴染み・・・・」
「はい。文吉さんの亡くなったお父っつぁんは錺職でして、店には簪や帯留めを納めに来ていましてね。その時に子供だった文吉さんも付いてきて、良く護国寺の境内で遊んだものです・・・・」
懐かしげに答えるお美代の言葉に、嘘偽りは感じられなかった。
「成る程。そして文吉は袋物師になり、お前さんは京屋の女主になったって訳か・・・・」
「はい。秋山さま、文吉さんが丸菱のお内儀さんを殺したと・・・・」
「六年前に入り婿に迎えられ、半年前にいきなり縁切り、追い出されちゃあ、殺したくなるほど恨んでも可笑しくねえと思ってな」
「仰る通り恨むでしょうね。普通の男の人なら・・・・」
「ですが秋山さま、私は文吉さんが丸菱を追い出されて良かったと思っていますし、文吉さんもお艶さんを決して恨んじゃあいません」
お美代の淡々とした言葉に、文吉への愛が秘められている。久蔵はそう思わずにいられなかった。
密告
「八年前、親分が捕まえて、新島に島流しになった髪結崩れの遊び人の新三だ」
「あの新三が、ご赦免になって戻ってくるんですか」
「一応な。ま、幾ら獣のような悪党でも、八年かけて罪を償ってきたんだ。少しは真っ当になっているかもしれねえ・・・・」
「秋山さま。新三は根っからの悪、死ぬまで真っ当にはなりゃあしませんよ」
「俺もそう思ってるさ。だが、何もしねえのに取り押さえる訳にもいかねえ。くれぐれも気をつけるんだな・・・・」 「はい・・・」
八年前、髪結崩れの遊び人新三は、賭場の揉め事で博奕打ちを殺し、逃亡した。そして弥平次に追い詰められて捕らえられた。
新三は人殺しの大罪を犯したが、相手が無宿者の博奕打ちだったのが幸いし、死罪を一等減じられ、遠島の刑になった。
新三が捕えられたきっかけは、女房のお袖が隠れ家を密告した為だった。お袖はその後、大工と再婚して幸せに暮らしているが、
新三は密告されたことを怨み、お袖に復讐をしようとする・・・・
◆ 秋山久蔵、カミソリ久蔵ともあだ名されている。事件に鋭く斬り込むという意味もあるが、実際にカミソリを武器に使うこともあるらしい。