マスカレード・ホテル         東野圭吾著    集英社   2011       2012/07/18

 「最近、都内のあちらこちらで殺人事件が起きている。発表は控えられているが、どうやらそのうち三件の事件については、同一犯人による連続殺人事件の可能性が高いということなんだ。しかも、近々四つ目の事件が起きる可能性があるという。で、問題なのは、次の事件はどこで起きるかということだがーー」 片岡は指先で机を二度突いた。「うちのホテルで起きる、と警察はいっている」
 えっ、と尚美は声をあげていた。「どうしてですか」
 犯行場所はこのホテルだと推定されたが、犯人のプロファイルも被害者が誰なのかも判らないまま、警察の大々的な潜入捜査が行われることになった。

  同一犯による連続殺人事件?
 第一の事件が起きたのは、十月四日の夜だった。現場は、りんかい線品川シーサイド駅から徒歩5分ほどの月極駐車場だ。
 契約車両のボルボXC70の運転席で、三十歳前後の男(岡部哲晴)が死んでいた。絞殺だった。  助手席のシートに奇妙なメモが残され、次の二つの数字が印刷されていた。
 45.761871     143.803944     (第二の殺人現場の緯度経度)
 品川警察署に特捜本部が開設された。新田たちはそこに詰めることになった。
 容疑者として被害者の会社の同僚が浮かんだが、その男にはアリバイがあった。
 第二の殺人は十月十一日の早朝、千住新橋付近のビル建設現場。
 殺されていたのは野口史子という四十三歳の主婦。夫は足立区内で町工場を経営していた。
 被害者の衣服の下から一枚の紙が見つかった。
 45.648055     149.850829     (第三の殺人現場の緯度経度)
 第三の事件が起きた。十月十八日の夜。被害者は畑中和之という高校教師だった。
 殺害現場は首都高速中央環状線の葛飾ジャンクションの下の道路上、被害者が毎夜ジョギングで走るコースに入っていた。
 致命傷となったのは後頭部への打撃だった。被害者のウインドブレーカーのポケットに一枚の紙片が見つかった。
 45.678738     157.788585     (第四の殺人現場の緯度経度??→ホテル・コルテシア東京)

 殺人の方法に共通性はなく、被害者、関係者に共通点も見つからないが、残された奇妙な数字が、次に起きた殺人現場を示しているとの解析の結果からは、同一犯による連続殺人の可能性が濃厚と警視庁は判断した。
 第四の犯行の場所は確実にコルテシア東京だが、犯行の日時と誰が被害者として狙われているのかが分からない状況だ。  

  川岸尚美(フロントクラーク)
 「警察の方に常駐してもらう、ということですか」
 「一言でいうとそういうことだが、そのやり方はいろいろある。問題は宿泊客だ。ホテルを訪れるすべての宿泊客を観察し、宿泊施設内で起きるすべての出来事をリアルタイムで把握するためには、捜査員が客になりすまして泊まっているだけではだめなんだ。捜査員は、君たちと同じように表舞台に立っている必要がある」
 「表舞台?」 尚美は首を傾げた。「それはどういう意味ですか」
 「これは警視庁のほうから提案してきたことだが、早い話、捜査員を職場に潜入させたいそうだ」  「潜入・・・」
 「捜査員がホテルマンの恰好をして、正面玄関やフロントに立つってことだよ。時には客室に入ることもある」
 「一応お伺いしたいんですが」 彼女は片岡に視線を戻した。「潜入する捜査員に、ホテルで勤務した経験はあるんでしょうか」
 片岡は肩をすくめた。「あるわけないだろう。ずぶの素人だ」
 「君たちには、捜査員の教育、指導、さらには仕事の補助を行ってもらいたい。難しいとは思うが、よろしく頼む」

 尚美は、ちらりと彼を見た。三十代半ばぐらいで精悍な顔つきをしている。だが野蛮な印象は受けなかったので、ひとまず安心した。
 「そして最後にニッタ警部補ですが、あなたにはフロントオフィスを担当していただきます。彼女が、指導係の山岸君です。わからないことがあれば、なんでも彼女に訊いてください」
 よろしく。といって差し出した名刺には、新田浩介とあった。
 これから人にものを教えてもらうのに、よろしく、はないだろうと思いながら、尚美は名刺を受取り、作り笑いで見返した。
 「どうぞよろしくお願いします。新田さん」 わざとゆっくりした口調でいってみた。
 だが新田はそれを皮肉だとは全く気づいていないのか、横柄な表情で頷いている。馬鹿かこいつと思い、尚美は不安になった。  

  新田浩介(警部補、フロント)
 新田さん、と上から声がかけられた。見上げると、長身のベルボーイが下りてくる。よく見ると関根だった。
 関根はエスカレータを階段のように駆け下りてきた。
 「ふうん。それにしてもおまえ・・・・よく似合ってるな」 新田は笑みが漏れるのを堪えられなかった。
 「そうですか」 関根はなぜか嬉しそうな顔をした。「新田さんも、髪を切ってホテルマンらしくなったじゃないですか」
 「切れっていわれたんだよ、あの口うるさい女ホテルマンに」
 「山岸さんのことですか。ずいぶんと厳しく仕込まれているみたいですね」
 「顔合わせの後、最初になにをやらされたと思う? 立ち方と歩き方のレッスンだぜ。姿勢が悪いだの、軸がぶれてるだの、細かいことをうるさくいいやがる。それが済んだら、今度はお辞儀の仕方と話し方の矯正だ。幼稚園かここは。おまけに床屋に行ってこい、だ。自分を何様だと思ってやがる」 関根が口元を押さえたが、目は笑っていた。
 「山岸さんは、フロントクラークの中でも、かなり優秀な人だそうです。その分、新人の教育も厳しいって聞きました」
 「あれは独身だな。間違いない」 新田は断言した。「若作りしてるけど、たぶん三十路は過ぎてるだろう。男がいないもんだから、心にも顔つきにも潤いってもんがなくなってるんだ。あんな女と、これからずっと一緒にいなきゃいけないのかと思うと気が滅入る」 思わず声が大きくなった。
 「そうですか。美人とペアなんて羨ましいなと思ってたんですけど」

  ホテルマン(の心得)
 ・「お客様に逆らうな」「お客様がルールブックだ」「客がどんな無理難題をいっても我慢せよ」

 ・「当ホテルの備品の中には、ご自由にお持ち帰りくださって結構なものと、そうでないものがございます。時にはお間違えになられるお客様もいらっしゃいます。ご面倒とは思いますが、どうかご確認いただけないでしょうか」
 (備え付けのバスタオルなどを鞄に隠して持ち帰ろうとする客への対応。これを逆手に取り、バスタオルをベッドの下に隠しておき、鞄に入れて持ち帰ろうとしていると思わせ、鞄には何もないことを証明して、因縁をつけて慰謝料?を取る者もいる)

 ・《クレーマー》《部屋替え》 客が部屋に入って「タバコの匂いがする」「窓からの眺めが良くない」などとクレームを付けた場合、別の部屋を用意して提供する。時には、広い(高い)部屋へのグレードアップも行われる。

 ・《デポジット》 一流のホテルでは、チェックインする時に、デポジット(保証金?)を要求される。現金(一万円ほど?)でもクレジットカードでもよい。クレジットカードの場合だと名前が分かってしまう。偽名で泊まる客は現金で払う場合が多い。

 ・お客様の部屋番号は、何があってもほかの人に教えてはなりません。(客のプライバシーを守る)

 ・《スキッパー》 偽名で投宿し、翌朝チェックアウトをせずに、こっそりと逃げ出す。無銭宿泊者。

  片桐瑶子
 「お客様、何をなさるんですかっ」
 だが片桐瑶子は無言でのしかかってきた。尚美はうつ伏せにされ、さらに両腕を後ろにまわされた。抵抗しようとしたが無駄さった。すごい力だ。
 悲鳴を上げる余裕もなかった。あっという間に何かで両手首を繋がれた。金属の感触があった。
 「何ですか、これはっ。やめてくださいっ。離してっ」
 ぐいと後ろ髪を引っ張られた。一瞬、声が出せなくなった。うつ伏せのまま、無理矢理顔を上げさせられた状態だ。片桐瑶子が覗き込んできた。
 「うるさいね。絞め殺されたくなかったら、騒ぐんじゃないよ」 深い井戸の底から聞こえるような不気味な声で彼女はいった。同じ声のはずなのに、先程までの柔らかさは消失している。
 尚美は相手の顔を見て、はっとした。これまであまりじろじろ見ることはなかったが、近くで凝視するとはっきりわかった。
 この人は老婦人なんかじゃない。もっとずっと若い。そしてーーずっと以前に、どこかで会ったことがある。  

 ◆ 正体の分からない第四の殺人者が、ホテルでの犯行を示唆している。犯行日がいつか、目標がが宿泊客なのか、訪問者なのか、或いはホテル従業員なのかも分からない。
 警視庁の潜入捜査が始まり、初めは反発しあうクラーク・尚美と警部補・新田だったが、多様な宿泊客との接触をする内にお互いのプロ意識と状況を判断する力を認め合い、客の安全と犯人推理のために協力を始めるところが微笑ましい。
 意外な犯人と犯行の動機、というのはミステリーの常道だ。
 ホテルが宿泊客にサービスするための考え方と応対のテクニックがいろいろと書かれていて、参考になった。