股間若衆   男の裸は芸術か      木下直之著    新潮社  2012       2012/06/02

 日曜日の新聞の書評で見つけた本だが、題名の『股間若衆』と 副題の《男の裸は芸術か》に惹かれて読んでみた。
 本の構成は、第1章  股間若衆   (← 古今和歌集)
          第2章  新股間若衆   (← 新古今和歌集)
           第3章  股間漏洩集   (← 和漢朗詠集)
             付録  股間巡礼   となっている。

  第1章  股間若衆
 東京・赤羽駅前に立つふたりの青年は芸術作品である。(1993年第25回日展で内閣総理大臣賞を受賞)
 しかし改めて美術品のふたりに目を向けると、本当に全裸なのか、それともパンツだけは穿いているのか、はたまたパンツが身体と渾然一体と化してしまったのか判然としない。
 いかにもそれは「曖昧摸っ糊り」 としたままである。
 おそらく、これは長い歳月をかけて、日本の彫刻家が身につけた表現であり、智慧であった。美術品であることは、実は「錦の御旗」にならない。
 いくら美術品であることを主張したところで、いつ官憲の基準が変わるかわからないからだ。
 いやもっと恐ろしいのは、市民感情というやつである。「美しい」から「いやらしい」へ、いつ振り子が揺れるかわからない。

 著者は、明治九年に西欧から教師を招いて開校した工部美術学校、その後それを受け継いだ東京美術学校などで彫刻を学んだ学生、さらに西欧に留学し美術(絵画・彫刻)を学び帰国した数々の芸術家たちが情熱を持って制作した作品と、卑猥な表現を禁じる官憲との鬩ぎ合いを詳しく報告している。

 問題は「局部(陰部)の表現」で、どこまでが許されるのかと言う解釈である。
 この問題は西洋でも似たような流れがあり、キリスト教会が力を持つかの地では聖書に起源をもつ「イチジク(或いは銀杏)の葉っぱ」が局部を隠す、という手法が確立されていて、日本もそれを真似した時期がある。

 官憲の命で局部を切り落とす、手ぬぐいなどの布で覆い隠すなど、笑い話のような事例もあったようだ。

 明治の近代化の始まる直前、安政三年(1856)浅草奥山で始まった喜三郎の見世物で、寺社奉行によって裸体と思われる女の人形三体が撤去を命じられた一件があったそうだ。
 その人形を作った喜三郎に北海道開拓使顧問として明治政府に雇われたアメリカ人ケプロンが、明治八年任期を終え帰国する際に喜三郎に注文し持ち帰った「生人形(男)」がスミソニアン自然史博物館に保存され、平成16年熊本市現代美術館で里帰り展示された。
 喜三郎は注文を受け、あらん限りを尽くし、念には念を入れ日本の恥にならぬ作品を作り上げたという。(男根もリアル)。  

        

  第2章  新股間若衆
 男性ヌードの表現に、「写真」という手法が生まれ、芸術写真家がどのように取り組んできたかを報告している。
 さらに男性ヌードの彫刻が、あちらこちらの駅前に立っているのを見つけ、それらも報告している。

  第3章  股間漏洩集
 明治二十年代に入ると俄然裸体画が社会的な問題になったことは、ようやく裸体画が出回り始めたことと、それを監視す咎める法令が整備されたことの双方の反映であった。
 注意すべきは、論争はもっぱら女性裸体像を問題にしたこと。それら裸体像は印刷物であったことである。それはまた、出版に目を光らせればよいとする江戸時代以来の風俗統制の在り方を強く引きずっていた。
 しかし、印刷物ではない本物の裸体像にふれる機会が生まれたのもこの時期だった。
 それが美術展覧会である。志を同じくする美術家が集まり団体を結成、明治二十二年に明治美術会が、同二十九年には白馬会が誕生し、いずれも活動の中心に美術展を置いた。明治二十二年は、東京美術学校が授業を開始した年でもある。この学校に学んだ美術家たちが、その成果を世に示す場もまた美術展である。
 明治二十四年に明治美術会が開催した「裸体ノ絵画彫刻ハ本邦ノ風俗ニ害アリヤ否ヤ」という討論会は、切実な問題意識の根差していたのである。

 「道徳風俗が裸体画を排斥するのも裸体自体ではなく、露出された陰部にあるのだから、絵画が陰部の美を認めたのでない以上裸体画を恐れる必要はない」−−久米桂一郎(明治30年)
 以来、裸体画・裸体彫刻が美術展に出品されても、「陰部」を公衆に見せないことが始まったと指摘する。−−馬屋原成男。
 問題をこんなふうに身体の一部分に限定してしまえば(まさしく「陰部」という陰のある表現に象徴される)、それさえ隠せばよいことになる。それなら、面倒なことに巻き込まれる以前に、あらかじめ隠してしまえばよい。というわけで、腰巻きを巻いた絵画ではなく、腰巻きを巻いた女を描いた絵画が流行した。

 大正時代、朝倉文夫の《時の流れ》を写真掲載した「愛知新聞」が風俗壊乱として新聞紙法違反に問われたが、大審院判決は無罪とした。
 その根拠のひとつに、「人の注視を促すに足る可き何物の描出せられたるものなき」が挙げられている。馬屋原氏によれば、「ここで、芸術製品の陰部にあたる部分は何も隠す必要はないが、特殊感情を集中させるような技巧をこらしてはならないという鉄則を打ち立てたものということが出来よう」。
 今度は、裸体の一部分の「技巧」が問題視されたのである。いわば、どのように表現された局部であるかが問題になった。こうして、局部からそれを構成するディテールへと。
 官憲の目も、それに応じる関係者の目も、それを眺める鑑賞者の目もフォーカスをさらに絞り込むことになり、局部に覆いをすればよい、あるいは別室に移して一般の目から隠せばよいとする処置は一昔前のものとなった。
 「たとえ如何なる芸術品といへども局部に陰毛や陰裂を描いたものは、局部の一点に観る人の特別な好奇心を集中して淫汚な感覚をそそるから、総合的に見て、すべて、これを猥褻とすることになったのであって、この標準は今日迄一貫して維持されて変わらないのである」−−馬屋原成男 昭和27年。
 陰毛の有無が基準となれば、「俗人」代表警視庁の判断はいかにも楽である。こうして、ルーペを用いてそれがあるかないか見えるか見えないかという、不毛な、といいたくなるような闘いの火蓋が切られた。のちにあふれる戦後の写真雑誌の発禁へと、この問題は直結している。

 ◆ 男女を問わずヌードを絵画(写真)、彫刻などで表現すること、さらにはダンサーとなって自らの身体を使い動的に表現することは、美術・芸術である(ということになっている)。
 しかし人類のみは原始時代?から、局部(陰部)を人前には晒さないという習慣(文化?)を作り上げてきた。
 習慣を重んじるか、芸術としての精密・正確な表現を追求するか、という葛藤の結果が落ち着いた所が、「曖昧摸っ糊り」だった。
 淫烈・陰毛などの写真表現は今は非合法なポルノとしてアングラに潜んでいるが、100年後にはどうなっているのだろうか?

 4月に千鳥ヶ淵公園で花見をした時に見た、彫刻を思い出した。

             


■ ルネッサンス時代の西欧画 から   (大塚美術館

鳴門公園にある大塚美術館で「第九演奏会」があったので聴いてきた(6/04)。
美術館の自慢のシスティーナ・ホールが会場だ。
このホールは、ミケランジェロが壁・天井画(創世記、最後の審判)を描いた
バチカン宮殿内に建てられたシスティーナ礼拝堂をそっくり再現したものだ。

「全日本『第九を歌う会』連合会」の有志200名ほどによる第九の合唱を聴きながら、 天井画を眺めていて、色々なことに気づいた。

ミケランジェロはローマ教皇ユリウス2世よりシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられ、
1508年から1512年にかけて『創世記』をテーマにした作品を完成させている。
それから20数年経ち、教皇パウルス3世に祭壇画の制作を命じられ、
1535年から約5年の歳月をかけて1541年に『最後の審判』が完成した。
天井画と祭壇画の間には、ローマ略奪という大事件があり、
今日、美術史上でも盛期ルネサンスからマニエリスムの時代への転換期とされている。

天井部中央の旧約聖書『創世記』の9場面、天地創造、楽園追放、大洪水などが、祭壇から後陣にかけて配列される。

  

最後の審判』には400名以上の人物が描かれている。



中央では再臨したイエス・キリストが死者に裁きを下しており、
向かって左側には天国へと昇天していく人々が、右側には地獄へと堕ちていく人々が描写されている。
右下の水面に浮かんだ舟の上で、亡者に向かって櫂を振りかざしているのは冥府の渡し守カロンであり、
この舟に乗せられた死者は、アケローン川を渡って地獄の各階層へと振り分けられていくという。
ミケランジェロはこの地獄風景を描くのに、ダンテの『神曲』地獄篇のイメージを借りた。

群像に裸体が多く、儀典長からこの点を非難され、「着衣をさせよ」という勧告が出されたこともある。
ミケランジェロはこれを怨んで、地獄に自分の芸術を理解しなかった儀典長を配したというエピソードもある。
さらにこの件に対して儀典長がパウルス3世に抗議したところ、
「煉獄はともかく、地獄では私は何の権限も無い」と冗談交じりに受け流されたという。
また、キリストの右下には自身の生皮を持つバルトロマイが描かれているが、この生皮はミケランジェロの自画像とされる。

     

『最後の審判』などの壁画・天井画は、長年のススで汚れていたが、日本テレビの支援により1981年から1994年までに
修復作業が行われた。壁画・天井画は洗浄され製作当時の鮮やかな色彩が蘇った。
ミケランジェロの死後、裸体を隠すために幾つかの衣装が書き込まれていたが、これは一部を除いて元の姿に復元された。

洗浄で更に新たな発見があり、この儀典長の股間が蛇に食われている様子が明らかになり、
当時のミケランジェロがいかにかの儀典長を忌み嫌っていたかが伺える。


◆ 『股間若衆』の本を読んだ直後だったので、ミケランジェロの時代(16世紀)に裸体の局部(陰部)をどのように表現するのかに興味があった。
 Wikipediaの解説にもある通り、ミケランジョロ自身は何も隠さずに表現したかったのに、儀典長(官憲?)は「着衣をさせよ」と迫るせめぎ合いがあったようだ。

       

>ミケランジェロは、同時代の巨匠レオナルド・ダ・ビンチらと同様、正確な人体を描くために遺体の解剖を行い、
>医学や生物学の高度な知識を持っていたことはよく知られており、
と解説にあるが、この天井画に出て来る女性は、ふくよかな体付きとはとうてい思えず、
男のように筋肉質に描かれているのは何故だろう?

◆ 大塚美術館には、神話や聖書を題材にした裸婦像の絵がたくさんある。
それらが局部(淫裂や陰毛など)をどのように表現しているかを分類してみた。
まず、キリスト教会の指示に忠実に、イチジクの葉っぱ、或いは薄布、髪の毛、手で覆うやり方。

  

  

その後、モデルに自然に思える姿勢を取らせ、あえて局部に視線が行かない工夫をするようになったようだ。

女性の場合、男性のように「曖昧摸っ糊り」は無いから、その点では無理がない。

     

     

     



女性のヌードは美しく、若いうちは誰もが光り輝いている。
しかし、如何なる美女と言えどもいつか歳をとり、死に見舞われる運命だ。
その無常観?を表すような絵も多い。死の象徴である骸骨と並べる手法だ。

     

長い間、男性中心の思想を気築き上げたキリスト教には、エデンの園でアダムを唆し堕落させたエヴァとい見方がある。
見かけの美しさとは裏腹に、男を堕落させ、食い物にする悪者という女のイメージを表した絵があった。
彼女の下には、征服された男が死屍累々と積み上がっている。