風の市兵衛
辻堂 魁著 祥伝社文庫 2010 2010/07/06

柳原堤下で、武家の心中死体が発見された。
旗本にあるまじき不祥事に、遺された妻と幼い息子は窮地に陥る。
そこにさすらいの渡り用人唐木市兵衛が雇われた。算盤を片手に家財を調べる飄々とした武士に彼らは不審を抱くが、次第に魅了される。
やがて新たな借財が判明するや、市兵衛に不穏な影が迫る。心中に隠されていた奸計とは?
”風の剣”を揮う市兵衛に瞠目!
沈黙
御家人の内儀と侍か。侍が御家人の女房にちょっかいを出して、御家人の亭主に見つかり、二人揃って仕置きされたか?
いや、違うな。 それなら下手な心中なんぞに細工する必要はねえ。
姦夫姦婦を四つに畳んで切り刻むのは、亭主の勝手だ。
「つまり・・・・・」 渋井が呟いたので、伊佐治が振り向いた。
二人が仏になった事情を心中に見せかける必要があったってことか。
算盤侍
高松家は、半月前、公儀番方小十人衆の役目にあった主人・道久が相対死という武士にあるまじき不祥事を起こして落命し、お家改易、士籍剥奪の処分やむなしの窮地に立たされた。三河以来の旧家と聞いていた。
高松家が改易にならず、八歳になる倅・頼之の家督相続が許され、入間郡所沢村の知行地百石も安泰の沙汰がおりたのは、古い旗本の家名を惜しんだ若年寄の間で特別の計らいがあったからだと、同じ旗本の間で取り沙汰されてもいた。
「三河町において請け人宿を営みます宰領屋矢籐太どののご紹介により、おうかがいいたしました。唐木市兵衛と申します。お見知りおきをお願い致します」
「こちらは当家の奥さま、でござる」 大原が言った。
「安曇と申します」 「そしてこちらが、当家七代目主の頼之さまでござる」
雇われ用人となった市兵衛は、さっそく高松家の家計を調べ始め、寄合席旗本・石井家四千石の屋敷を訪れる。
「「唐木、おぬしにはわからんだろうが、高松道久は竹馬の友でな。童子のころから学問、剣術を競い合い、励ましおうた仲だ。道久はわずか百石の小身だったが、身分差などおれは全然気にしなかった」
酔生夢死
市兵衛は薬種問屋・柳屋稲左衛門を訪れる。
「高松さまとは石井さまのお屋敷でご挨拶をいたしたことがございましたので他人事とは思えませず、今でも信じられない気持でございます」
「ああ、津軽のことでございますか」 稲左衛門は膝を軽く打った。
「津軽?」 「はい。支那では阿片と申しておるケシという草から採取いたします痛み止めでございます。確かにあらゆる痛みをやわらげ、心持ちを鎮めて苦痛を忘れさせ、鬱屈を抱えて眠れぬ人が眠れるようになるなどの効果を生じる特効薬でございますね。以前中山さまがひどい頭痛に悩んでおられた折に、痛み止めに差し上げたことがございます。その薬のことを仰っておられるのでしょう」
柳屋はその薬を越後の海にやって来るロシア船から買い付けている。それを多町の店頭の長治が、末端の客の求めに応じて柳屋からもらい受け、さらに長治の子分や地廻りらが江戸中の遊里へ届け、目立たぬように売り捌くという、取引の道筋についてだった。
抜け荷、密貿易である。老中・松平伊豆守信明により、片岡信正とその配下が津軽の絡んだこの抜け荷の探索に当たる役目を仰せ付けられた。
「抜け荷は天下のご法度。しかしながら、隠密に始末をつけよ」 と老中は厳に命じた。
二つの国
いつの間にか、木戸の向こうの侍の数が増えていた。あの侍たちは、番所につめていたのだろう。六尺棒を持った木戸番が左右に走っていた。
影の真ん中に立った男が暗い静寂に、太いけれど冷静な語調を響かせた。
「公儀目付・片岡信正だ。江戸本石町薬種問屋・柳屋稲左衛門、並びに公儀旗本・石井彦十郎、両名にご用の詮議がある。神妙にいたせ」
稲左衛門は影を見て、いい声だと思った。こいつがおれを追っていた者らの頭目か。
やがてその影の両脇から、二人の男が速やかに前へ進み出た。
「柳屋稲左衛門、後ろにいるのは石井彦十郎、覚えているか。高松家用人・唐木市兵衛だ。おぬしらの所業の始末、義によって請け負った。いざ」
◆ 唐木市兵衛、武芸も一流、算盤にも達者である。驚いたことに、公儀目付・片岡信正の異母弟だが、家を出て京で修業し、
江戸に戻り渡り用人で暮らしている。
時代小説の設定として新鮮な切り口だ。