赤い指
東野圭吾著 講談社文庫 2009 2010/03/06
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少女の遺体が住宅街で発見された。捜査線上に浮かんだ平凡な家庭。
一体どんな悪夢が彼らを狂わせたのか。
「この家には、隠されている真実がある。それはこの家の中で、彼ら自身の手によって明かされなければならない」。
刑事・加賀恭一郎の謎めいた言葉の意味は?
家族のあり方を問う直木賞受賞後第一作。
悲劇
金曜日の夕刻、会議用の資料の作成を終えパソコンを終了させようとしていた前原昭夫の携帯が鳴りだした。
なんだろう、こんな時間にーー。「もしもし」 「ああ。あなた」 妻の八重子の声がした。
「どうした」 「それが、あも、ちょっといろいろあって、早く帰ってきてほしいんだけど」
妻の声には余裕がなかった。早口になっているのは、うろたえた時の特徴だ。
昭夫が八重子と結婚したのは、今から十八年ほど前だ。三年後に子供が生まれた。男の子だった。直己というのは八重子が考えた名前だ。直己が生まれてから、前原家の生活は微妙に変化し始めた。八重子は子育てを中心に物事を考えるようになった。
七年ほど過ぎたある日、実家の父章一郎が脳梗塞で倒れ、回復はしたものの老人性痴呆症になった。
三年前、章一郎が死に、前原一家は昭夫の実家に移った。しかし八重子と母・政恵の折り合いが悪く新たな苦悩が始まった。
「何があったんだ」 だが八重子はすぐには答えず、ため息を一つついた。
「どうしたんだ」 「庭を・・・・庭を見て」 「庭?」 庭は形だけのものだった。二坪ちょっとで芝生を敷いてある。
ブロック塀の手前に黒いビニール袋が見える。「なんだ、あの袋は?」
ビニール袋の下に、小学生の女の子の死体があった。「警察には?」 「知らせるわけないでしょ」 反抗的ともいえる目で見返してきた。
「だけど、死んでるんだろ」 「直己は?」 「部屋にいるわ」 「呼んでこい」 「それが、出てこないのよ」
目の前が絶望的に暗くなった。少女の死体と息子は、やはり無関係ではないのだ。
「俺は未成年なんだからな。未成年のやったことは親に責任があるんだからな。俺は知らねえからな」
隠匿
「あれを」 「どこかに捨ててきて。あたしも手伝うから」 お願いします、と最後に頭を下げた。
昭夫は大きく息を吐き出した。「おまえ、それ、本気でいってるのか」
昭夫は呻いた。呻き声の後に、「無茶だよ、それは」と続けた。
無茶だーー昭夫は口の中で繰り返した。だがそう呟きながら、彼女のこの提案をじつは自分も持っていたことを自覚していた。そのことはずっと頭の隅にこびりついていたが、敢えて目をそらし、考えまいとしてきたのだ。考え始めれば、たやすくその誘惑に負けてしまいそうで怖かった。
そんなことはできるわけがない、うまくいくはずがない、かえって自分たちを追い込むだけだー理性的な反論が頭の中を駆け巡っていた。
午前一時を過ぎた頃、昭夫は少女の死体を家にあった段ボール箱に入れて、自転車の荷台に乗せ近くの銀杏公園に運んだ。
公園の公衆便所の中に死体を置き、段ボール箱は持ち帰った。
捜査
翌日の午前十時を少し過ぎた頃だった。前原家の玄関のチャイムが鳴らされた。
「何かあったんですか」 昭夫は訊いた。事件のことは知らないふうを装ったほうがいいと判断した。
「銀杏公園を御存知ですか」 加賀は訊いた。「知ってますけど」
「じつは、あそこで今朝、女の子の遺体が見つかりましてね」 へえ、と昭夫は発した。無表情なんおが自分でも分かった。
「そういえば、朝からパトカーのサイレンが聞こえてましたね」
捜査本部は練馬警察署に置かれた。犯人の遺留品と断定できそうなものは見つかっていない。ただ、鑑識課から興味深い報告があった。遺体の衣類にはわずかながら芝が付着していたよいうのだ。種類は高麗芝で、生育状態はあまりよくなく、手入れもされていない。芝の他にシロツメクサの葉も見つかっている。
さらに鑑識から興味深い報告があった。春日井優菜の靴下からも、わずかながら同種の芝が検出されたのだ。遺体として発見された時、彼女は運動靴を履いていた。殺されてから、どこかの芝生の上に放り出された、と考えるのが最も自然だった。
予行演習
「今度の計画をうまくいかせるためには、俺たち全員が完璧に嘘をつきとおさないといけないんだ。少しでも辻褄の合わないことがあれば、警察は徹底的にそこをついてくるぞ。だから予行演習をしておきたい」
「予行演習?」 「警察は直己からも話を聞こうとするだろう。その時に話がしどろもどろになったり、矛盾が出てきたりしたらまずい。しっかりと打ち合わせておかなきゃ、尋問は乗り切れない。だから俺が事情聴取の予行演習をしてやるといってるんだ」
「あなたのいってることはわかるけど、今は無理じゃないかしら。もう少し後にしたほうがいいと思うんだけど」
「無理って何だ。どういうことだ」
「女の子を死なせたっていうショックで、ずっと落ち込んでいるのよ。計画のことは話したけど、とても刑事の前で演技なんてできないと思うの。ねえ、あの子はここにはいなかったってことにできない?」 「いあんかった?」
「だから事件が起きた時、あの子は家にいなかったことにするの。そうすれば刑事だって、あの子から話を聞こうとはしないでしょ」
「刑事と話したくないって、あいつがいったからだろ。そうだろ」
八重子は唇を舐め、俯いた。「無理ないわよ。あの子はまだ中学生なんだから。刑事のことは怖いと思っているし。あの子にそんなことは無理だと思わない?」 昭夫は頭を振った。
彼女のいっていることはわかる。堪え性がなく、気紛れでわがままな直己では、執拗に質問を繰り返すに違いない刑事の相手は無理なように思えた。面倒になり、途中で白状してしまいそうな気がした。しかし、そもそも誰が悪いのか。誰のせいでこんな苦労をしなければならなくなったのか。こんな事態になった今でも、直己がすべてを両親に押しつけて逃げようとしていることが、昭夫には情けなかった。
替え玉?
「前原さん」 加賀が静かに呼びかけた。「それで本当にいいんですね」 不意をつかれたように前原の身体がぴくりと動いた。
「どういう意味ですか」 「単なる確認です。おかあさんには自分の行動を説明する能力がない。だから代わりにあなた方がそれをおやりになった。その結果、おかあさんは殺人犯となるわけです。それでいいのですね、と確かめているんです」
「いいのかと訊かれても、だってそれは」 前原はしどろもどろになった。「仕方がないじゃないですか。隠したかったけれど、隠しきれなかったわけですし」
「今、どういうお気持ちですか」 加賀は前原の正面に座りなおした。
「そりゃあ、やるせないですよ。これまで築き上げてきたものを全部失うのかと思うと」
「おかあさんに対してはどうですか」
「母に対して・・・・ですか。どうなのかな」 「あんなふうになってからは、あまり親という感じはしなくなっていたんです。向こうも私のことがよくわからないみたいだし。親子といっても、結局こういうものなのかなあなんて思ったりします」
「聞くところによると、おとうさんも認知症だったとか」 「そうです」
もはや限界だった。昭夫の目から涙が溢れ出した。心の防波堤は壊れていた。
「すみません。どうも・・・・申し訳ございません」 彼は畳に頭をこすりつけた。「嘘なんです。母がやったというのは作り話です。母は犯人なんかじゃありません」
◆ 甘やかされて育ち、ゲームにばかり夢中の中学生の息子が、性の衝動に駆られて少女を殺してしまった。
息子に甘い妻は、警察に知らせず、事件を揉み消そう昭夫に頼む。家に目を付けられたと知った昭夫夫婦は、息子ではなく認知症の母親の犯行に見せかけようとするが・・・・
認知症だと思われていた母親は、昭夫の家族との生活に絶望し、認知症を装っていたのだ。
加賀刑事と従兄弟の松宮との複雑な関係が伏線として語られる。東野圭吾らしい構成だ。
最初に事件の記述があるので、犯人探しではなく、刑事コロンボのような展開だ。
話のテーマ、構成と合わせてあまり好きではない本だった。