容疑者Xの献身       東野圭吾著     文芸春秋社  2005       2010/02/09       トップへ

 運命の数式。 命がけの純愛が生んだ犯罪。
 これほど深い愛情に、これまで出会ったことがなかった。
 いやそもそも、この世に存在することさえ知らなかった。
 男がどこまで深く女を愛せるのか。 どれほど大きな犠牲を払えるのかーーー。

 2005年度ミステリーの金字塔。 三冠達成!!
 「週刊文春傑作ミステリーベストテン」 第一位。 「このミステリーがすごい」 第一位。「本格ミステリー・ベストテン」 第一位。  

  花岡靖子
 『べんてん亭』は靖子を入れて四人のスタッフで成り立っていた。料理を作るのは、経営者でもある米沢と、その妻の小代子だ。店での販売は殆ど靖子一人に任されていた。
 この仕事に就く前、靖子は錦糸町のクラブで働いていた。米沢はしばしば飲みにくる客の一人だった。その店の雇われママである小代子が彼の妻だった。「飲み屋のママから弁当屋の女房へ転身だってさ。人間、わかんねえもんだなあ」 そんな風に客たちは噂していた。開店から丸一年が経ったころ、手伝ってくれないか、という申し出を受け、クラブを止めた。
 美里は靖子の一人娘だ。父親はいない。今から五年前に離婚したのだ。昨年の春、美里が中学に上がるのを機に、今のアパートに引っ越した。六時に起きて、六時半には自転車に乗ってアパートを出て『べんてん亭』まで通っている。    

  富樫慎二
 富樫慎二と結婚したのは八年前のことだ。当時、靖子は赤坂でホステスをしていた。その店に通ってくる客の一人だった。
 外車のセールスをしている富樫は、羽振りがよかった。高価なものをプレゼントしてくれるし、高級レストランにも連れて行ってくれた。だから彼からプロポーズされた時には、まるで『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツになったような気がしたものだ。靖子は最初の結婚に失敗し、働きながら一人娘を育てるという生活に疲れていた。
 結婚当初は幸せだった。富樫の収入が安定していたから、靖子は水商売から足を洗うことが出来た。また彼は美里をかわいがってもくれた。
 しかし破綻は突然やってきた。富樫が会社をくびになったのだ。原因は、長年に亘る使い込みがばれたことだった。
 それ以来、富樫は人間が変わった。いや、本性を現したというべきかもしれない。働かず、一日中ごろごろしているか、ギャンブルにでかけるかだった。そのことで文句を言うと、暴力をふるうようになった。酒の量も増えた。
 靖子は富樫に離婚を申し出たが、彼はまるで聞く耳を持たなかった。悩んだ末に彼女は、客に紹介してもらった弁護士に相談した。その弁護士の働きかけで、富樫は渋々離婚届に判を押した。
 しかし問題はそれだけでは解決しなかった。離婚後も富樫はしばしば靖子たちの前に姿を見せた。復縁を検討してくれないかと言うのだ。土下座までする彼の姿を見ていると、芝居とわかりつつ、哀れに思えた。一度は夫婦になった仲だけに、どこかに情が残っていたのかもしれない。つい靖子は金を渡した。それが間違いだった。味をしめた富樫は、さらに頻繁にやってくるようになった。
 靖子は店を移り、住所も変えた。かわいそうだと思いながらも美里を転校させた。
 『べんてん亭』で働き始めて一年近くになる。もはやあの疫病神と関わり合うことはないと信じていた。

  不本意な殺人
 (富樫がアパートを見つけて突然にやってきた。)
 靖子は止めることも、声を出すこともできなかった。美里は富樫の後頭部を殴りつけていた。鈍い音がして、富樫はその場に倒れた。
 美里の手から何かが落ちた。銅製の花瓶だった。「美里、あんた・・・・・」 靖子は娘の顔を見つめた。
 美里は無表情だった。魂が抜けたように動かなくなっていた。だが次の瞬間、その目が大きく開かれた。靖子が振り向くと、富樫がふらつきながら立ち上がるところだった。顔をしかめながら後頭部を押さえている。
 「おまえら・・・・」 呻きながら憎悪の表情を剥き出しにした。左右によろめいた後、彼女の方に向かって大きく足を踏み出した。
 靖子は美里を守ろうと、富樫の前に立った。「やめてっ」
 「どけっ」 富樫は靖子の腕を掴むと、思いきり横に振った。靖子は壁まで飛ばされ、腰を激しく打った。「てめえ、ぶっ殺してやる」 富樫は獣の声を出した。殺される、と靖子は思った。このままだと本当に美里は殺されてしまう・・・・。
 靖子は自分の周りを見た。眼に入ったのはホーム炬燵のコードだった。彼女はそのコードを持って立ち上がって、美里を組み敷いている富樫の背後に回り、輪にしたコードをその首にかけると、思いっきり引っ張った。

 「どうしよう・・・・・」 靖子は呟きを漏らした。頭が空白のままだった。「殺しちゃった」
 「おかあさん・・・・」 その声に、靖子は娘に目を向けた。美里の頬は真っ白だった。目に涙の跡があった。

  石神
 ドアホンが鳴った。こんな時に誰だろう・・・・。続いてドアをノックする音が聞こえた。そして男の声。「花岡さん」
 「はあい」 平静を装った声を出した。必死の演技だった。「どなた?」
 「あ、隣の石神です」 それを聞き、靖子はどきりとした。先ほどから自分たちの立てている物音は、尋常なものではなかったはずだ。隣人が不審に思わないはずはなかった。
 ドアを開けると、石神の丸く大きな顔があった。かれは無表情だった。それが不気味に感じられた。

 「花岡さん」 石神が呼びかけてきた。「女性だけで死体を始末するのは無理ですよ」
 靖子は声を失った。なぜこの男は知っているのだ。聞こえたのだ、と彼女は思った。もうだめだ、と彼女は観念した。警察に自首するしかない。
 「自首するつもりですか」「私は花岡さんたちの力になれればと思って。自首するということならそれでいいと思うけど、もしそうでないなら、二人だけじゃ大変だろうと思ってね」
 「自首しないで済む方法って、ありますか」
 「事件が起きたことを隠すか、事件とお二人の繋がりを切ってしまうか、のどちらかですね。いずれにしても死体は始末しなければならない
 でもその前に、まず死体を移しましょう。この部屋は一刻も早く掃除をしたほうがいい。犯行の痕跡が山のように残っているでしょうから」 いい終わるや否や、石神は死体の上半身を起こし始めた。
 「えっ、でも、移すって、どこに?」  「私の部屋です」決まってるじゃないかという顔で答えると、石神は死体を肩に担ぎあげた。

 「花岡さん」 彼女の背中に石神は呼びかけた。「あなた方にはアリバイが必要です。それを考えていただきます」
 「アリバイ、ですか。でも、そんなのはありませんけど」
 「だから、これから作るんです」 石神は死体から脱がせたジャンパーを羽織った。「私を信用してください。私の論理的思考に任せてください」  

  草薙刑事
 現場は旧江戸川の堤防だった。近くに下水処理場が見える。川の向こうは千葉県だ。
 死体は堤防の脇に放置されていた。どこかの工事現場から持ってきたと思われる青いビニールシートがかけられていた。
 死体はむごたらしい状態で放置されていたらしい。まず全裸で、靴も靴下も脱がされていた。さらに顔が潰されていた。また、死体の手の指は焼かれ、指紋が完全に破壊されていたという。死体は男性だった。首には絞殺の痕が見てとれた。それ以外には外傷らしきものはないようである。
 「そばに自転車が落ちていたmmでうs。すでに江戸川署に運ばれましたが」
 「自転車? 誰かが捨てていた粗大ゴミだろ」  「でも、それにしては新しいんです。ただ、タイヤは両輪ともパンクさせられていました。意図的に釘かなにかで刺したように見えます」

 亀戸にあるレンタルルーム扇屋という宿から、一人の男性客がいなくなっていた。それが判明したのは三月十一日である。つまり死体が発見された日だ。チェックアウトタイムが過ぎていたので従業員が見に行ったところ、わずかな荷物が残っているだけで、客の姿はなかった。
 部屋から荷物や毛髪、指紋等が採取された。その毛髪は死体のものと完全に一致した。また、例の自転車から採取した指紋の一つが、部屋や荷物に残されていたものと同一と判断された。
 消えた客は宿蝶に、富樫慎二、と書いていた。住所は新宿区西新宿とあった。

 富樫は離婚後も別れた妻に執着していたらしい。妻には連れ子がいた。二人の転居先を調べるのは捜査陣にとって難しいことではなかった。まもなくその母娘、花岡靖子と美里の居場所は判明した。草薙ぎたちは靖子の元へ向かった。

 富樫と思われる死体の死亡推定時刻に対して、花岡親子は完璧なアリバイを持っていた・・・・・

  湯川 学
 石神にとって湯川は、大学に入って初めて出来た話し相手であり、実力を認められる人物だった。
 数学科と物理学科というふうに進路は別れたが、それはお互いにとって正解だったと石神は思っている。
 この世のすべてを理論によって構築したいという野望は二人に共通したものだったが、そのアプローチ方法は正反対だった。石神は数式というブロックを積み上げていくことでそれを成し遂げようとした。一方湯川は、まず観察することから始める。その上で謎を発見し、それを解明していくのだ。石神はシュミレーションが好きだったが、湯川は実験に意欲的だった。

 (湯川の石神のアパートの部屋を訪ねた)
 「それにしても驚いたな。湯川がくるなんて」 座りながら彼はいった。
 「知り合いからたまたま聞いて、懐かしくなったものだから」  「知り合い? そんな人間いたかな」
 「うん、それがまあ妙な話でね」 湯川はいいづらそうに鼻の横を掻いた。「警視庁の刑事がここに来ただろう。草薙という男だ」
 「あの刑事、同期なんだ」 湯川の口からでたのは、意外な言葉だった。
 「同期?」 「バドミントン部の、さ。ああ見えても我らと同じ帝都大の出身だ。社会学部だけどな」
 「あの男にとって帝都大理学部の卒業生は同期性でも何でもないんだよ。違う人種だと思っている」
 石神は頷いた。それはお互い様だと思った。

  PノットイコールNP問題
 「最後に石神と会った時、彼から数学の問題を出された。P ノットイコール NP問題というものだ。自分で考えて答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確かめるのとでは、どちらが簡単かーーー有名な難問だ」  草薙は顔をしかめた。
 「いいか。石神は一つの答えを君たちに提示した。それが今回の出頭であり、供述内容だ。どこから見ても正しいとしか思えない答えを、頭脳をフル回転して考案したんだ。それをそのままはいそうですかと受け入れることは、君たちの敗北を意味する。本来ならば、今度は君たちが、全力をあげて、彼の出した答えが正しいかどうかを確かめなければならない。君たちは挑まれているし、試されているんだ」
 「だからいろいろと裏づけを取っているじゃないか」
 「君たちのしていることは、彼の証明方法をなぞっているだけだ。君たちがすべきことは、ほかに答えがないかどうかを探ることなんだ。彼の提示した答え以外には考えられないーーそこまで証明して初めて、その答えが唯一の解答だと断言できる
 強い口調から、湯川の苛立ちを草薙は感じた。常に沈着冷静なこの物理学者が、そんな表情を見せることはめったにない。

 ◆ 推理小説では、「犯人探し」が一番面白い。作家は怪しい人物を登場させて騙そうとし、読み手は作家の騙しを切り捨てて真犯人を見つけようとする、この頭脳戦が醍醐味だ。
 但し、刑事コロンボのように、(視聴者には)最初から犯人や殺人の手口が見えていて、コロンボ刑事がどうやって犯人を追いつめて行くのかを楽しむ形式もある。

 このミステリーでは、冒頭で殺人事件が発生し、犯人も分かっている。ただ石神という人物が犯行を隠す工作をするので、草薙刑事がどうやって真相に辿り着くのかを読み進めるだけかと思ったが、意外にもとてつもないどんでん返しが用意されていた!
 二人の大学の同期生、数学の石神と物理の湯川。この二人の頭脳戦だった・・・・・