愛には少し足りない
唯川 恵著 集英社文庫 2007 2010/02/17
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結婚をして家庭をもち、夫のために食事を作る、そんな平凡な生き方が、自分の求める幸せの形だと早映は思っていた。
恋人・卓之の叔母の結婚パーティで、麻紗子と再会するまでは・・・・・
麻紗子の奔放で自由な生き方に、反感を覚えながらも、自分の中に同じ欲望があることに気づく早映。
彼の叔母・優子、優子の夫・・・・・。それぞれが幸せを求めて、模索していく様を描く長編恋愛小説。
幸福のかたち
芝木卓之から結婚を申し込まれた時、早映は心からホッとした。
卓之は早映の同僚で三十三歳。髪を無造作に分け、黒の細いフレームの眼鏡をかけた彼は、特にハンサムというわけでも話し上手というわけでもなかったが、穏やかな雰囲気を備えていて、早映を安らいだ気持ちにさせてくれる。
現在、卓之は東京郊外の鷺沼という街に両親と住んでいる。結婚すれば会社が借り上げたマンションに住むことができる。超一流というわけではないが、安定した会社だ。人柄的にも条件として申し分なかった。
卓之とは三ケ月前、会社が主催する懇親パーティで知り合った。
自立も、やりがいのある仕事も、自分には似合わない。それを信じた時もあったけれど、それらは最終的に自分をみたしてくれなかった。私は所詮、平凡な女なのだ。仕事に生きるとか、自立して生きるなど向いていない女なのだ。
そうして、卓之と出会い、三ケ月後には結婚を申し込まれた。
この急な展開に、自分でも驚くばかりだったが、望んでいたものが目の前に差し出された嬉しさの方が大きかった。早映自身が、卓之を好もしく思っている。それで十分ではないか。迷うことなどどこにあるだろう。
(卓之の叔母・優子の結婚パーティで、偶然にも昔アパートの隣室にいた堤麻紗子に出会った。)
「その指輪だけど、とても素敵ね。何という石? ルビー?」
「ああ、これね」 麻紗子は顔の高さまで手を上げ、ダウンライトにかざした。
「アレキサンドライトよ」 「赤が鮮やかできれい」 「夜はね。でも昼間は色が変わるの」
「変わるって?」 「太陽の光の下では、この赤とは似ても似つかない深い緑色になるの。まるで二重人格の指輪みたいと思わない?」
「もしかしたら、将来、この指輪はあなたのものになるかもしれないわ。この指輪は代々本当に欲しがっている女性の手元に渡されてゆく運命なんだって」
卓之のセックスはとても丁寧だ。キスや愛撫にも彼の性格が感じられる。卓之は決して自分勝手を押しつけることはなく、律儀さはベッドの中でも変わらない。だから早映は安心して身を委ねていればいい。
今まで、幾人かの男と恋をし、セックスもした。かつての恋人たちと比較する趣味はないが、三十一歳にもなれば、欲望のままではなく、こういった安定感の上に成り立つセックスがいちばん落ち着けるように思う。結婚したいと思う女が、結婚したいと思う男と出会い、お互いを気に入り、結婚を前提にしてセックスをする。もしかしたら、それが本当の意味での恋愛というものではないかと思えてくる。
卓之の指が早映の身体の奥深くへ伸びる。早映は卓之の髪の中に指を滑り込ます。そして頭の中からセックス以外の何もかも放り出そうとする。やがて卓之が姿勢を変える。膝が広げられ、ふたりの身体がその一点で繋ぎ合う。卓之の動きが速くなる。早映は声を上げる。そしてのぼりつめる自分を待つ。
「うーん、満足」 卓之が、照れ臭さを茶化して言った。「私も」
けれど正直なところ、身体はまだ中途半端に漂っていた。自分はまだ到達していない。焦れったい思いが、行き場のないままくすぶっている。物足りなさと、落胆がないまぜになって早映を戸惑わせている。
「こんなことぐらい・・・・」 と思う。そう、こんなことぐらい何だというのだ。たとえ卓之とのセックスで、あの一瞬を迎えることができないとしても、この安定した心地よさとは比べものにならないではないか。
だいたい、この世にどれだけの女性が恋人や夫とのセックスに満足しているだろう。サービスか快感か、自分でもわからなくなっている女性は山ほどいるはずだ。それを不満と思ってしまえばそれまでだが、そのサービスさえもひとつの愛の形と考えることもできるはずだ。
赤い棘ー麻紗子
早映は麻紗子(ダンサー)に誘われて六本木のポアゾンというバーで会い、友達のひとりケインを紹介された)。
「今夜、駄目かな」 ケインが言った。「それ、どういう意味? もしかして、ベッドに誘ってるの?」
「もちろんさ、それ以外の意味に聞こえた?」
「信じられない、私たち、ほんの三時間ほど前に会ったばかりなのよ」
「僕にとっては十分な時間だよ。話して気が合った。楽しかった。僕は君とセックスがしたいと思った。これは誘う理由にならない?」
「行きずりに、一晩だけ楽しんでしまおうってこと?」
「その言い方、ちょっと引っ掛かるな。行きずりってどういうことだろう。君とはこれからもこの店で顔を合わすかもしれない。その時はまた一緒に楽しく飲みたいし、話もしたい。今日のようにね。だから行きずりというのとは意味が全然違うよ」
ふっと思った。「あなた、もしかして麻紗子とも?」 ケインは悪びれることなく頷いた。
「ああ、もちろんあるよ。何度かセックスした。そいて今も友達だ。これからだってずっと友達でいられるだろう。二人の気分が一致すれば、また一緒にベッドに入ることもある」
「わからないな、僕たちのしていることはそんなにいけないことかな。僕たちはもう大人なんだ。恋とは別に、セックスに上手に付き合っていく方法を知っているだけだよ。自由に楽しんで、その上ルールをわきまえている。関係を無理強いしたり、間にお金が絡むこともない。何よりもずっと友達でいる」
ケインの言葉はとてもわかりやすかったが、納得はできなかった。
「わからないのは私の方よ。麻紗子こそ、愛してもないのによくそんなことができるわね。あなたの神経を疑うわ」
「愛? やだ、私は今セックスの話をしているのよ、どうしてそこに愛が出てくるの」
心底驚いて、早映は麻紗子に顔を向けた。
「あなたにとって、それはまったく別のものなの?」 逆の意味で、麻紗子もまた心底驚いたような目を向けた。
「当たり前じゃない。気持ちのいいことは誰でも好きでしょう。稽古に疲れた時、私はマッサージをしてもらうわ。汗をかいたらシャワーを浴びるわ。だって気持ちがいいから。セックスはそれと同じでしょう。どんな違いがあるっていうの?」
「だから、愛でしょう」 「早映の少女趣味には驚くばかりだわ」 麻紗子が冷やかな笑い声を上げた。
「私は愛を知っているわ。愛する時はいつも命をすり減らすほど愛するわ。そのことでは誰にも負けない自信がある。でも、それとセックスとをつなげないだけよ。本当に愛していたら、たとえその人とはセックスしなくても私は十分満足できるわ。一緒にいるだけですべてがみたされるもの。でも身体の欲望を満たすのは愛とは違う。それはセックスそのものよ。あなかが好いたり眠くなるのが、恋人とは関係ないところにあるのと同じよ」
「それと、言っておくけど、私は誰とでもセックスするわけじゃない。私が気に入った男とだけよ」
「セックスって誰のためにするものなの? 自分のためでしょう。私は一度だって、遊ばれてるなんて思ったことないわ。だって自分が気持ちよくなりたいからしてるんだもの」
「病気はもちろん怖いわよ。でも本当に怖いのは病気じゃない。病気に対して無知ってことよ。私はセックスの相手はたくさんいるけど、無知な男はひとりもいないわ」
「私は想像以上にセックスしたがっている人間っていると思うわ。ただ、それを口に出せないだけ。どうしてかしら、セックスしたいってことは下品でも何でもないのに。むしろ、したいのを無理にごまかして、そんなことは考えてませんって聖人面を装ってる方がよほど下品なのに」
夜の匂い
(麻紗子が死んだ。雨の日に歩道橋の階段から足を滑らせた事故だった)
(お悔やみの気持ちで行ったバー・ポアゾンで、麻紗子の形見にとあの赤いアレキサンドライトの指輪を渡された)
「この指輪をはめたら、自分が自分でなくなりそうな気がするの。私は麻紗子のことを軽蔑しようとした。けれど彼女が言ったとおり、そうすることで自分をごまかそうとしてたんだと思う。本当は羨んでた。悔しいけれど、そのことを認めるわ。私も麻紗子のような生き方がしてみたいと思ってた。でも、所詮そんな生き方、私にできるはずがないもの」
「別に、麻紗子ちゃんの生き方を真似ることなんかないさ。彼女は彼女だし、君は君だ」「君は、君にふさわしい、君に似合いの生き方がある」
「時々、頭の中で想像することがあるの。もう一人の自分ってものを。私とは正反対の生き方をしてるの。ただの夢物語よ。それだけ。そんな風に生きられるわけがないもの」 そして思った。何てつまらないのだろう。
「難しく考えることはないんだよ。単純なことさ。君はただ自由にすればいいんだよ。思うがままに振る舞えばいいんだよ。少なくとも、この店ではそうすればいい。さっき、君は怖いと言ったね。違うよ、怖いことなんか何もない。その指輪は鍵だ、君の心を開こうとしているだけだ。開けて、自分が何を望んでいるのか向き合ってみればいいんだよ」
「私の望んでいるもの?」 「指輪はいつでもはずせるよ。君は誰にもその選択を強要されることはない。君が誰にも強要できないのと同じさ。どうして自由に生きることに、そんなに罪を感じる必要があるんだい?」
「それは、きっと私が臆病だから」 「そうかもしれない。自由に生きるというのは、ある意味でとても勇気のいることなんだからね」
(早映は指輪をはめてポアゾンへ行くようになった。ケインと再会しホテルへ行った)
ベッドに運ばれて、早映はすでに溢れる自分を知った。そしてこの時、このセックスは誰のためでもなく、自分のためであることを改めて知った。早映がこのベッドにいる理由の中に愛も約束も何もない。ただ自分がそうしたいからそうしている。そのシンプルさが早映を開放する。
(さまざまな男たちとの出会いがそこにあった。約束ごとが一切介入されないままに、身体の隅まで知り合った相手というのは、それもまた確かに友情の一種ではないかと思うようになっていた)
光と影
結婚式は来月に迫っていた。
夥しい光の中で過ごしたいくつもの夜を、早映は心の奥に自らの手で渦めた。
卓之に対する罪悪感は正直言って、ない。悔いもない。ポアゾンで過ごした時間は、隠されていた自分を知るために必要だったのだと思える。
(卓之の叔母・優子が妊娠した。だが、夫の銀行員橋本はゲイだった。子供の父親は卓之)
(優子は卓之の父の後妻の連れ子だった。戸籍上結婚は出来ないが、血は繋がっていなかった。優子は卓之との結婚は諦めたが、子供を生み、橋本の子として育てることを決心していたーー橋本も承知していた)
早映は今、優子を憎んでいる。けれども、どこかで完全に否定はできないのだった。そうまでして愛する男の子供を産みたい、家族を守りたいと必死になる優子の生き方は、もしかしたら、女という生きものすべてが本能として持っているものではないかと思えた。
人はいつも、知らない自分と出会ってゆく。その驚きは、時には失望となって自分に復讐する。それでも人はいつも出会いたいと望んでいる。知らない私を待っている。
いつかまた、あの指輪をはめる時が来るのだろうか。私の中に存在した私が、また息を吹き返すことがーー。
もし、そんな私がいても、私は拒否しない。私が私を選ぶことは、いつも自由なのだから。
私は結婚する。卓之の妻になる。このウェディングドレスで、神の前で誓いをたてる。
けれど、妻という人間になるのではない。妻である私という存在がひとつ増えるだけだ。
◆ 平凡な生き方が自分に似合っていると思っていた早映が、自由奔放に生きる麻紗子に出会い、アレキサンドライトの指輪を引き継ぐ。
昼と夜とで全く違う色に見える宝石。魔法の指輪?で早映の中の違う自分が目覚めていく。
人は誰でも、自分の中に何人もの自分を抱え、また人には言えないドクロ、秘め事を抱えて生きていくのだろうか。