嘘をもうひとつだけ       東野圭吾著     講談社文庫  2003       2009/09/16       トップへ

 バレエ団の事務員が自宅マンションのバルコニーから転落、死亡した。事件は自殺で処理の方向に向かっている。
 だが、同じマンションに住む元プリマ・バレリーナのもとに一人の刑事がやってきた。
 彼女には殺人動機はなく、疑わしい点はなにもないはずだ。ところが・・・・・。
 人間の悲哀を描く新しい形のミステリー。  

  嘘をもうひとつだけ
 「それで御質問というのは?」
 「失礼。お忙しいんでしたね」 男は上着のポケットに手を入れ、何かを探る格好をした。
 男は加賀といった。練馬警察署の刑事だった。数日前に起きた、ある事件の捜査をしていた。美代子が加賀と顔を合わせるのは、今日で四度目だった。
 加賀は手帳を出してきた。
 「まず、あの夜の行動についてもう一度確認しておきたいのですが」
 美代子はうんざりした顔を隠さず、首をゆっくりと振った。 「また? しつこいのね」
 「まあ、そうおっしゃらず」 加賀は爽やかとでも形容できそうな顔で笑った。  

  冷たい灼熱
 「何か問題が?」 と洋次のほうから尋ねてみた。
 「いや、特に問題ということでもないのですが」 刑事はまたしても眉間に皺を寄せ、狭い部屋の中を見回し、次に窓のあるほうを一瞥し、最後に洋次の顔を見た。
 「暗くなったのかなと思いましてね。この部屋にはエアコンもないし、窓も閉まっていたようです。今日のような日の昼間だと、ここは かなり暑くなったと思うのですが。蒸し風呂みたいに」
 「ああ、そういうことですか」 洋次は大きく頷いた。「もちろんそうです。だからここで寝かせる時には寝室のエアコンをつけます。 ドアを全部開け放てば、ここにも涼しい風が入ってくるんです。狭い家ですからね。冷えすぎないし、直接風が当たらないし、子供を寝かせるにはちょうどいいんです」
 「でも、奥さんは一階におられたわけだし、一階で寝かせた方が目が届いていいと思うのですが」
 「すぐに二階に上がるつもりをしていたんじゃないでしょうか」

  第二の希望
 「死体を発見した時の状況を、できるだけ詳しく話してください」 加賀はいった。
 「あの、どこから話せばいいか・・・・」
 「どこからでも結構です。思い出したところから自由に話してください」
 真智子は頷き、まず深呼吸をひとつした。
 「仕事から帰ってきて、玄関の鍵をあけようとしたら、すでにあいていたんです。それで娘がもう帰っているのかなと思って中に入ってみたら、部屋があんなふうで・・・・」
 「あんなふう、とは?」
 「だから・・・・荒らされてた、ということです。あんなふうに散らかっていることなんて、ふつうありませんから」
 「なるほど。それで?」  「変だと思って、奥の部屋に行きました」
 「奥には和室と洋室がありますね。先に入ったのはどちらですか」
 「和室です。そうしたら・・・・」  「男性の死体が倒れていた?」  「ええ」 真智子は顎を引いた。

  狂った計算
 失礼します、といって男は中に入ってきた。さらに名刺を出してきた。練馬警察署の刑事で、加賀恭一郎という名前だということを、奈央子はそれによって知った。
 部屋にまで上げていいものかどうか彼女が思案していると、加賀は立ったままスーツの内ポケットから写真を一枚取り出してきた。
 「この男性を御存じですね」
 奈央子は唾を飲み込んでから手を伸ばし、写真を受け取った。どういう写真であっても動揺を見せてはいけないと自分に言いきかせた。
 その写真に写っているのは、彼女が予期した人物だった。作業服姿で、どこかのモデルハウスと思われる住宅の前で笑っている。その屈託のない笑顔が奈央子の胸を刺した。
 「中瀬さんです」 と彼女はいった。「知り合いというか・・・・この家を担当した建築士の方です。新日ハウスの・・・・」

  友の助言
 東名高速道路で側壁に激突する事故を起こしたのは一週間前のことだった。たまたま後続車がなく、二次被害を誘発しなかったのは幸運といってよかった。足、腰、胸、肩などを合わせて十数箇所骨折したが、後続車がいたら、それだけでは済まなかったかもしれない。リハビリさえすれば、いずれ元のように動けると、医師から太鼓判を押されてもいる。
 「この機会に少し休んだらどうだ。馬車馬みたいに走り続けてる人間に、真の成功者はいないというぜ」
 「どいつもこいつも同じことをいうんだな」 萩原は苦笑を見せた。「まあしかし、それも一理あるのかもしれない。今度の事故でそういう気になった。体力には自信があるつもりだったんだが、やっぱり歳かな。居眠り運転をしてしまうとは、全く情けない」
 「それで・・・・」 加賀は椅子に座り直した。「あの日の話というのは何だったんだ」
 「ああ」 萩原は一旦口を閉じ、少し考えてからいった。「いや、もういいんだ。大したことじゃない」
 「本当に、どうってことのない話だったんだ。おまえに聞かせても仕方のないことだ。わざわざ呼び出して悪かった」
 「そのどうってことのない話をするために、無理して高速をぶっ飛ばしてたのか。眠いのも我慢して」

 ◆ 東野圭吾は、今人気の作家だが、まだ作品を読んだ事がなかった。警察物、推理物が得意な作家のようだ。
 いきなり大作に取り組んで、期待はずれでがっかりするのも嫌だと思い、短編集を選んでみた。
 この本に出て来る話は、表面上はどうということのない事件に、疑いを持った刑事・加賀が、犯人と見なした人物に事情を聞きながら、 犯人が隠した事実を引き出し、事件を解決するというストーリーになっている。  犯人の動機と、殺人のカラクリを暴くという趣向だ。
 次は大作を読んでみよう。