生物と無生物のあいだ   生命とは何か?     福岡伸一著     講談社現代新書    2007    2009/01/19       トップへ

 生きているとはどういうことかーーー謎を解くカギはジグソーパズルにある!?
 分子生物学がたどりついた地平を平易に明かし、目に映る景色をガラリと変える!


  プロローグ
 生命とは何か?  それは自己複製を行うシステムである。
 DNAの二重ラセンは、互いに他を写した対構造をしている。そして二重ラセンが解けるとちょうどポジとネガの関係となる。ポジを元に新しいネガが作られ、元のネガから新しいポジが作られると、そこには新しいDNA二重ラセンが誕生する。
 ポジあるいはネガとしてラセン状のフィルムに書き込まれている暗号、これがとりもなおさず遺伝子情報である。
 これが生命の”自己複製”システムであり、あらたな生命が誕生するとき、あるいは細胞が分裂するとき、情報が伝達される仕組みの根幹をなしている。

 そこで、私は遺伝子操作技術を駆使して、この部品の情報だけをDNAから切り取って、この部品が欠損したマウスを作った。ひとつの部品情報が叩き壊された(ノックアウト)マウスである。
 このマウスを育ててどのような変化が起こっているのかを調べれば、部品の役割が解明する。

 遺伝子ノックアウト技術によって、パーツを一種類、ピースをひとつ、完全に取り除いても、何らかの方法でその欠落が埋められ、バックアップが働き、全体が組みあがってみるとなんら機能不全がない。
 生命というあり方は、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。ここには何か別のダイナミズムが存在している。
 私たちがこの世界を見て、そこに生物と無生物とを識別できるのは、そのダイナミズムを感得しているからではないだろうか。では、その”動的なもの”とは一体なんだろうか。
 ユダヤ人科学者ドルフ・シェーンハイマーは、生命が「動的な平衡状態」にあることを最初に示した科学者だった。つまり私たち生命体の身体はプラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。

  第1章〜第7章
 ・ウイルスは自己複製能力を持つ。ウイルスが自己を複製する様相はまさしくエイリアンさながらである。ウイルスは単独では何も出来ない。ウイルスは細胞に寄生することによってのみ複製する。  ウイルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。
 ウイルスを生命とするか無生物とするかは長らく論争の的であった。いまだに決着していないといってよい。

 ・DNAは長い紐状の物質である。DNAの中に生命の設計図が書き込まれているとすれば、個々の真珠玉はアルファベット、紐は文字列にあたる。そこで真珠の種類を調べてみた。真珠はなんとたった4種類しか存在していなかったのである。AとCとGとTの四つのアルファベット

・動物、植物、微生物、どのような起源のDNAであっても、あるいはどのようなDNAの一部であっても、その構成を分析してみると、四つの文字のうち、AとT、CとGの含有量は等しい。

  第8章〜第11章
 ・生命現象は最終的にはことごとく物理学あるいは化学の言葉で説明できるーーシュレーディンガーの総括的な予言
 ・われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくならなければならないのか?
 ・無秩序な熱運動ーーブラウン運動。 そして熱拡散。
 ・物理法則は多数の原子の運動に関する統計学的な記述である。それは全体を平均したときにのみ得られる近似的なものにすぎない。そしてその法則の精度は、関係する原子の数が増せば増すほど増大する。
 ・生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生命はこんなに大きい」必要があるのだ。

 ・エントロピーとは乱雑さ(ランダムさ)を表す尺度である。すべての物理プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大方向へ動き、そこに達して終わる。これをエントロピー増大の法則と呼ぶ。
 ・生命は、「現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序ある現象を新たに生み出す能力を持っている」ということである。
 砂上の楼閣の比喩。
 波が寄せてはかえす接線ぎりぎりの位置に、砂で作られた、緻密な構造を持ち城がある。吹き付ける海風は、城の望楼の表面の乾いた砂を、薄く、しかし絶え間なく削り取っていく。そころが奇妙なことに、時間が経過しても城は姿を変えてはいない。(正確に言えば、姿を変えていないように見えるだけなのだ)
 この城の内部には、数日前、同じ城を形作っていた砂粒はたった一つとして留まっていないという事実。かつてそこに積まれていた砂粒はすべて波と風が奪い去って海と地に戻し、現在、この城を形作っている砂粒は新たにここに盛られたものである。つまり、ここにあるのは実体としての城ではなく、流れが作り出した「効果」としてそこにあるように見えているだけの動的な何かなのだ。

 ・生命とは要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果なのである

 ・肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支があわなくなる
 ・生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である
 ・秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。
 ・エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ

 ・生命とは動的平衡にある流れである。生命を構成するタンパク質は作られる際から壊される。それが生命がその秩序を維持する唯一の方法であった。しかし、なぜ生命は絶え間なく壊され続けながらも、もとの平衡を維持することができるのだろう。その答えはタンパク質の形が体現している相補性にある。
 ジグソーパズルのピースは次々と捨てられる。それはパズルのあらゆる場所で起こるけれど、それはパズル全体から見ればごく微細な一部に過ぎない。だから全体の絵柄が大きく変化することはない。

 ・相補性はしばしばこのようにきわめて微弱で、ランダムな熱運動との間に、危ういバランスを取っているに過ぎない。パスルのピースはぴったりとは合うものの、がっしりとは結合せず、かすかな口づけを繰り返す。相補性は「振動」しているのだ。この点がジグソーパズルの固定的なイメージとは異なる。

  第12章〜
 ・生命とは、テレビのような機械ではない。このたとえ自体があまりにも大きな錯誤なのだ。そして私たちが行った遺伝子ノックアウト操作とは、基盤から素子を引き抜くような何かではない。
 私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸に沿って流れる、後戻りの出来ないプロセスである。
 さまざまな分子、すなわち生命現象をつかさどるミクロなジグソーピースは、ある特定の場所に、特定のタイミングを見計らって作り出される。そこでは新たに作り出されたピースと、それまでに作り出されていたピースとの間に、形の相補性に基づいた相互作用が生まれる。その相互作用は常に融合と集散を繰り返しつつネットワークを広げ、動的な平衡状態を導き出す。一定の動的平衡状態が完成すると、そのこおtがシグナルとなって次の動的平衡状態へのステージが開始される。
 この途上の、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのピースが一種類、出現しなければどのような事態がおこるだろうか。動的な平衡状態は、その欠落をできるだけ埋めるようにその平衡点を移動し、調節を行おうとするだろう。その緩衝能が、動的平衡というシステムの本質だからである。平衡は、その要素に欠損があれば、それを閉じる方向に移動し、過剰があればそれを吸収する方向に移動する。

 ・生命現象にはあらかじめさまざまな重複と過剰が用意されている。類似の遺伝子が複数存在し、同じ生産物を得るために異なる反応系が存在する。
 ある遺伝子をノックアウトしたにもかかわらず、受精卵から始まって子マウスの出産にまでこぎつけるこおtができたということは、すなわち動的な平衡が、その途上で、ピースの欠落を補完しつつ、分化・発生プログラムをなんとか最後まで折りたたみえたということである。リアクションの帰結、つまりリアクショニズムとして新たな平衡が生み出されたということである。
 ・動的平衡がその影響を最小限にしようとするものの、どうしても修復しきれないときは何が起こるだろうか。
 発生プロセスは次のステージに進みことが出来ず、このプロセスはその時点で死を迎える。つまり分化を進めていた細胞塊は、マウスの形をとりつつある、とある段階で停止してしまう。動的平衡がその歩みを停止したところに、エントロピーの法則は容赦なく襲いかかる。細胞塊は自己融解を起こし、まもなく母胎に吸収されて終わりを迎えるだろう。

 ◆ 鴨長明の方丈記に言う。
 『ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ浮かびて、留まるところを知らず
 生命体の中では、タンパク質の分子、さらに微細な原子・分子のレベルで、絶えず交換が行われているという。個体は常にそこに存在するかに見えているが、原子・分子を見るとそのすべてが数ヶ月で入れ替わり、元あった原子・分子は体外に流れ出てしまうのだ。まさに鴨長明が喝破したかのごとくに。

 ブッダは、『色即是空、空即是色』を悟った。
 形のあるものは全て空である。その存在はたんに現象にすぎないのだ と見る。  だから、空とは決して存在の「 無 」を意味する言葉ではなく、  実体の無を意味すると同時に 現象の「 有 」を意味している言葉だとなる。
 では、実体がないのに どうして現象が生じるのか。  現象が相互に限定したり、依存したりすることによってである。  現象のこの相互依存は、縁起 と呼ばれる関係である。  縁起によって、現実世界がここに生じているというわけだ。  「色」、すなわち物質や肉体の本質は 空 である。  空であるものは、現象として 物質や肉体である。  それ以上の神秘的な意味はない。

 生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。 ブッダの言う『縁起』(関係性)は、すなわち『動的平衡状態』だと考えればいいのだろう。