流星ワゴン
重松 清著 講談社文庫 2005 2009/09/08
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死んじゃってもいいかなあ、もう・・・・・。
38歳・秋。その夜、僕は、5年まえに交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。
そして・・・・・自分と同い歳の父親に出遭った。時空を越えてワゴンがめぐる、人生の岐路になった場所への旅。
やり直しは、叶えられるのかーーー?
「本の雑誌」年間ベストセラーに輝いた傑作。
間抜けで哀れな父親がいた。
五年前の話だ。新聞の社会面に小さな記事が載っていた。
見出しは〈初めての家族ドライブ暗転〉ーー信州の高原をドライブしていた三人家族のワゴン車が、スピードの出しすぎでカーブを
曲がりきれず、対向車線にはみ出してトラックと正面衝突した。母親は一命をとりとめたものの、父親と息子は即死。運転していた父親は
一週間前に免許を取ったばかりで、マイカーが納車された翌日の事故だったという。
事故に逢った一家の家族構成と年齢は、我が家とそっくり同じだ。
僕は三十三歳だった。妻の美代子も同い歳。一人息子の広樹は八歳、小学二年生。
我が家の黄金時代だったーーいまにして思う。僕自身の人生の、あの頃がピークだったのかも知れない、とも。
交通事故で亡くなった父親の名前は、橋本義明さんという。息子は、健太くん。
橋本さんも健太くんも、事故を起こした五年前と同じ年恰好で、僕の前に現れた。二人がいる世界では、時が流れない。
今夜、死んでしまいたい。
もしもあなたがそう思っているなら、あなたの住んでいる街の、最終電車が出たあとの駅前にたたずんでみるといい。暗がりのなかに、赤ワインのような色をした古い型のオデッセイが停まっているのを見つけたら、しばらく待っていて欲しい。
橋本さん親子があなたのことを気に入ればーーそれはどうやら健太くんに選択権があるようなのだが、車は静かに動き出して、貴方の前で停まるだろう。
僕がさまよいこんだ世界の「いま」、
広樹は小学六年生で、僕と美代子は三十七歳になった。
五年生の秋頃から「中学は私立に行きたい」と言い出した広樹は、塾の夏期講習に毎日通っている。成績もだいぶ伸びたし、目標を持ったせいか、公立の中学に進む同級生に比べると一足早くおとなびてきたように見える。
僕は、僕の暮らしの幸福を確かに感じていた。美代子は違ったのだろうか。
【橋本さんのワゴンが連れて行ってくれた、一年前の世界。仕事で外出中だった僕は、街のスクランブル交差点でふと妻の美代子の姿を見た。
美代子の後をつけると彼女はホテルの玄関を入っていった。僕は少しはなれた場所でホテルの玄関をじっと監視した。
ほどなく男、中年のサラリーマンが出てきた。人妻と不倫をするようなイメージとはほど遠かった。
女が出てきた。美代子の姿は、僕の目をすり抜けて、胸にじかに刺さった。】
【美代子が離婚を切り出したのは、今年の秋の初めだった。私立の受験に失敗し、公立中学に入った広樹が同級生のいじめに遭い、学校を
休みがちになったのと前後して、なんの前触れもなく、市役所から取ってきた離婚届を僕に見せたのだ。
「もう限界だから」と美代子は言った。「これ以上あなたといたら、頭がおかしくなっちゃって、自殺しちゃうかもしれない」と目に涙を
浮かべて、僕に訴えた。お願い、お願い、判子捺して、お願いします、と泣きながら頭を何度も下げた。】
【十月の半ばあたりから、美代子は夜に外出することが増えた。行き先を告げずに、きちんと化粧して、僕が会社から帰って来る前に家を出る。帰宅は深夜。電車の終わったあと、の夜もあった。十一月には、朝まで帰らない日も何日か。
最初は、広樹の暴力に耐えかねて逃げたのだと思った。やがて、不倫の可能性が浮かんだ。美代子を問い詰めた。答えはなかった。美代子はただ、「もういいでしょう? 離婚して、お願い、早く判子を捺して」と繰り返すだけだったのだ。】
逃げ出したい。助けてくれ、と叫びたい。
(ホテルからでる美代子を見た日の夜、帰宅した僕は広樹の寝たのを確かめ、美代子を抱いた。)
ナイトスタンドのオレンジ色の明りに、僕を裏切った女の裸体が浮かび上がる。僕は美代子の乳房を揉みしだく。堅くとがってきた乳房を
指でつまみ、撫でる。そのまま鷲?みにしてちぎり取ってやりたいのに、やわらかくうごめく僕の指は、ただ美代子を悦ばせるための道具にすぎない。
美代子は愛撫を受けながら、僕の性器をそと撫で包み込む。昼間のあの男と比べているのか。あの男の性器はどんな風に猛っていたのか。僕の愛撫はどうだ。あいつは僕よりもうまく美代子の体を扱っていたのだろうか。
美代子が吐息を漏らす。甘く饐えた腋の汗のにおいを、僕は嗅ぐ。助けてくれ、助けてくれ、と心の中で叫びながら、赤ん坊のように乳首を吸い、けだもののように美代子を四つん這いにさせる。
美代子が僕の性器を口に含む。僕は美代子の髪を指で梳く。美代子の脚を広げ、性器に顔を埋める。あの男を向かえ入れた性器を、
僕はいとおしさを込めて唇と舌で愛撫する。美代子はタオルケットの縁を口に入れて、声が外に漏れないようにする。
愛している、と僕は言う。わたしも、と美代子はタオルケットでふさがった口を動かす。
もうやめてくれ。
「最初と二度目とは、どうして違うんですか」
橋本さんは、「私にもよくわかりません」と答えた。「でも、いままmでドライブしたひとは、皆さん、そうでした」
「未来を変えることのできたひと、いたんですか?」 苦笑いでかわされた。「教えてください」
「次は、もっと自由に動けますよ」 「あと何回あるんですか」
「回数じゃありません。永田さんの後悔がすべて消えるまで、です」
「消えるわけないじゃないですか。結果が変わらないのに」
「じゃあ、その結果を素直に受け容れられるようになるまで」
「できませんよ。そんなの」
「さあ・・・・そうでしょうねえ・・・・・」 くそっ、と僕は足元の土を蹴った。
「おじさん、さっきの質問まだ終わってないんだけど・・・・」
「どうするの? サイテーの現実、やってみる気、ある?」
僕はジグソーパズルの余りのピースを拾い上げる。絵は完成していても、きっとこのピースを捨ててしまうわけにはいかないだろう。
「あるよ」 と僕は言った。
「サイテーの、サイアクの、もう、めちゃくちゃでどーしようもない現実でも?」
「ああ・・・・帰りたい」 小さなピースは胸の奥のどこかに、ぴたりとはまった。
健太くんはまた拍手をした。パチパチパチッと、三回。
「それを聞きたかった」 橋本さんはやっとチュウさんと僕を振り返った。「チュウさんのさっきの言葉もね」
「生かしてくれるんか、カズのことを」
「最初からさあ」 健太くんが笑う。「おじさん、死なないことになってたんだけどね」
我が家の現実は、そんなに変わってはいない。数日でひっくり返るほど甘くはないのが、現実なのだ。
僕たちは、ここから始めるしかない。
美代子は外出をしなくなった。広樹は夜十二時前には眠るようになり、美代子が料理を作り僕がコーヒーをいれる朝食を、
家族三人でとっている。僕の前ではやらないが、ときどき『黒ひげ危機一髪』で遊んでいるようだ。
◆ 自分の人生を振り返って見ても、いくつかの大きな岐路があったように思う。
その岐路での決断で、若しもこうしていれば、ああなっていれば、今どう変わったのだろうか? という思いは誰にでもある感情だろう。
重松氏の流星ワゴンは、そんな思いをフィクションに仕立てた小説だった。