美丘        石田衣良著   角川文庫    2009    2009/5/09       トップへ

  美丘、きみは流れ星のように自分を削り輝き続けた・・・・
 平凡な大学生活を送っていた太一の前に突然現れた問題児。大学の準ミスとつきあっていた太一は、強烈な個性と奔放な行動力をもつ美丘に急速に惹かれていく。
 だが障害を乗り越え結ばれたとき、太一は衝撃の事実を告げられる。彼女は治療法も特効薬もない病に冒されていたのだ。
 魂を燃やし尽くす気高い恋人たちを描いた涙のラブ・ストーリー。

  プロローグ
 美しい丘と書いてミオカ。  それがきみの名前だった。
 きみはそれなりに美しかったけれど、実際にはすごい美人というわけではなかった。特別に目を引くほどかわいくもなかった。なによりも性格に問題があったのだ。美しい丘というより、嵐の丘という感じだった。
 覚えているかな。ぼくは一年間とすこし、きみをじっと見ていた。最初はめずらしい動物でも見るように、なかばからは世界でただひとりの女性として、最後の三ヶ月はきみをきみらしくしていたものが、ゆっくりと壊れていくのを目撃し続けたのだ。きみのことを思い出すたびに、ぼくは今でも泣いたり笑ったり、欲情したりを繰り返している。

 ぼくにだって、今はわかる。きみはなにをしているときでも、必死で自分自身でいようとしただけなのだ。きみは真実をしっていた。命は火のついた導火線で、ためらっている余裕など本来誰にもないはずなのだ。
 ミオカ、ぼくの髪は今でもきみにいわれたように真っ赤のままだ。左胸、心臓のうえには紺色の機械彫りで、おおきく M の頭文字をいれてある。ぼくの初めてのタトゥだ。そのしたには、きみの生まれた年と死んだ年も刻んである。
 わかるかな、ぼくの胸がきみの墓なのだ。この心臓が打ち続ける限り、きみはぼくの胸で眠るといい。ぼくは世界を旅して、きみにたくさんの景色を見せてあげよう。おいしいものをたくさんたべて、きみにその味をわけてあげよう。おしゃれだってうんとして、毎年新しいモードをきみに見せてあげよう。今はできないけれど、いつか恋をしたら、男の胸の痛みとときめきをおしえてあげよう。
 ミオカ、これからはすべてをぼくたちふたりでするのだ。ぼくよりずっと濃厚だったはずのきみの人生まで生きるのは、ちょっとむずかしいかもしれない。けれど、ぼくはどこまでも生きる。最後の心臓のひと打ちがとまるまで、力を尽くして生きる。
 それがきみといっしょにすごした十三ヶ月の結論だ。

  初めての出会い
 「やめろ、自殺なんかするな」
 洋次と邦彦とぼく、大学から浮いた三人は、ビーチフラッグスの決勝戦のように背中に枯れ芝をつけたまま猛然とフェンスめがけてダッシュした。彼女はなにごともなかったように、するすると高さ二メートルはある転落防止用のフェンスをのぼっていく。
 バスケットシューズの片足をかけて、白いフェンスのてっぺんから、不思議そうにぼくたちを振り返った。薄茶色の猫の目のような明るい瞳。ミルクを煮詰めたような白い頬には、そばかすがすこし、鼻は生意気そうにとがって、すこしうえをむいている。その顔はすこしもきれいなんかじゃなかったけれど、見た瞬間に切なさを相手に伝える力があった。ぼくはその目にむかって叫んだ。
 「やめろ、こんなところで死ぬなんて、迷惑だ」

 「わたし、峰岸美丘、文学部二年。あなたは」
 ぼくは二十二階の端で立ちあがった。フェンスがないと空に吸いこまれそうだが、なんとか足を踏ん張って耐える。
 「橋本太一、経済学部二年。自殺なんかするつもりは、ないんだよね」
 きみはあっさりうなずいた。一段高いステップのうえからなので、ぼくは自然に見あげる形になる。
 きみは両手を広げる。サンドベージュのライダースジャケットの袖が、雲をつかむように開いた。
 「だって、どうせならもっと空の近くに寄りたいじゃない。フェンスで守られたところより、もっときれいな空が見える場所がある。そう思ったら、じっとしていられなくて。もともとわたし、高いところ好きだから」  

  麻理
 「ひとりでいるとナンパされるんじゃない」
 麻理はぼくの顔を見ると、さっと表情を変えて笑顔になった。それはお湯のなかにインクを垂らしたような変化だ。無表情で透明だった顔が一瞬で変わる。きみには悪いが、麻理は美人だったから、それはなかなかの見ものだった。
 「さっきから三人きたかな。よかった、太一くんが一番にきてくれて」
 お嬢さまはそういって、ぼくに光沢のある黒い紙袋をさしだした。予想外のことで、あせってきいてしまう。
 「それ、なに。今回はプレゼント交換はないよね」  恥ずかしそうに麻理はいう。
 「そうだけど、たまたま太一くんに似あいそうなのがあったから、バーゲンで半額だったから、いいかなと思って」
 手を指しだしたまま、麻理はぼくを見つめていた。真剣で切ない目だった。男だって目は同じなのに、なぜか女の子のまつげはこんなに長いんだろう。ぼくはぼんやりそんなことを考え、軽い紙袋を受けとった。
 「ありがとう。じゃあ、いつかお返しに麻理に似あうもの探すよ」
 彼女はあわてて首を振る。 「いいの、いいの。これはわたしが勝手に買っただけだから」

 「これ、マフラーのお礼。なかなかいいのが見つからなくて、すごく探しちゃった」
 麻理の表情の変化はスローモーションだった。目がおおきく見開かれ、頬がバラ色に染まる。胸のまえで手をあわせ、まあと丸く唇を開けていう。なんだか映画でも観ているみたいだった。
 「ありがとう。開けてもいいかしら」  うなずいた。昨日まではあんなに面倒だったのに、あげるときにはプレゼントもいいものだとぼくは思い直していた。リボンを取ってシールをはがした。ふたを開けると、銀のドラゴンがまかすかにななめになっていた。
 「素敵」  ミルクホールのざわめきが遠くなっていく。麻理はネックレスを首にとめた。うわ目づかいで、ぼくを見る。麻理は美人だから、そのネックレスは悪くなかった。けれど、ぼくはどこか違和感をもったのだ。ぎこちなく笑って、麻理にいう。
 「似あうよ。麻理なら、なにをつけても似あうけど」  ぼくは麻理と笑って話しながら、必死になっていた。銀のドラゴンは彼女にはフィットしていなかった。確かにとてもきれいな人だから、アクセサリーとしては悪くない。でも、前日にきみが首にさげたときのような勢いがない。きみがしたときは、竜がうねって空にむかい飛び立ちそうだった。麻理の首にさがった銀のドラゴンはただの鋳物で、きみのときにはちいさいけれど火を吐く生きものだった。

 「やったな。うちのグループで初のカップルができたよ。太一は本ばかり読んでて、奥手だと思ってたのにな。決めるときは決めるな、こいつ」   邦彦の手がぼくの髪をくしゃくしゃに乱す。ぼくはぼんやりと考えていた。
 始まりは単純な気持ちだった。春だし、そろそろ恋でもしようかな。どうやら好意をもってくれる美人も近くにいる。冷静に考えて、そう悪い相手でもなさそうだ。ぼくは決定的に間違っていた。そんなふうに頭で考えて、誰かを好きになるこtなどできるはずがなかったのだ。
 恋に計算はいらない。ぼくたちの心は、決して頭のいうことなどきかない。恋をしたり、人を好きになるのは、心の奥深く、自分でも見ることの理解することもできない場所で起こるひそかな変化だ。
 このあと、二ヶ月かけて、ぼくはきみより遥かに美人とつきあいながら、心をきみのほうにゆっくりとかたむけていくことになる。

  裏切りの夜
 また空を見た。星を散らした空は、さっきよりずっと黒く深いようだ。ぼくは自分でも思ってもみないことをいった。
 「麻理とは別れようと思ってる」
 「どうしたの、急に」  ぼくはきみの顔を見た。なにかにとまどい、それでも同時になにかに気づいている顔だ。
 「美丘、きみのことが好きになった。なんとか、麻理とうまくやろうとしたけど、もう無理なんだ。さっき彼女とキスをして、はっきりわかった」
 きみは目をそらして、夜の湖を見た。
 「キスしなきゃ、自分が好きな女の子もわからないんだ。太一くんて、変わってるね。自分がどんなふうに思われてるか、鈍すぎてぜんぜん気づかない」
 きみの目が妖しく光っていた。唇は麻理よりずっと厚く、ワインの酔いのせいか毒々しいほど赤い。にっと挑戦的に笑って、きみはいった。
 「キスすれば、ほんとうに好きかどうか、わかるんでしょ。なら、しようよ。わたしのキスを試してみてよ」
 ぼくはきみの言葉が終わらないうちに、きみのちいさな身体を抱いていた。唇にふれる唇はとてもやわらかい。、麻理のときとは違って、すぐに舌を絡めるオープンマウスの激しいキスになった。胸が苦しくてたまらなかった。きみの舌も小魚のようにぼくの口のなかで動いている。しびれたように長々とキスをして、ぼくたちは息も荒く、おたがいから離れた。
 「どうしたらいいんだ」  ぼくの声は夜の湖に沈んでいくようだった。きみは唇をかんでいう。
 「どうしようもないよ。こうなったら、いくところまでいくしかないもん。ねえ、太一くん。そのまえにもう一度キスしよう」
 ぼくときみは身体をぶつけるようにまた抱きあった。裏切りの夜はまだ始まったばかりだ。

  告白
 「緊張してるの。美丘はこういうの慣れてると思った」
 きみは一瞬厳しい顔をして、タオルを巻いたままベッドにダイブした。ぼくに全体重をかけてくる。息ができなくなった。シーツ越しに、ぼくの肩にパンチをいれた。
 「慣れてるわけないじゃん。そりゃ、わたしだってヴァージンじゃないけど、最初にする人とは緊張するし、初めてのときといっしょで、ドキドキだよ。太一くんは、鈍感だな」
 「ごめん」  「いいよ。キスしてくれたら、許す」 バスタオルをほどきながら、きみはリスのようにブランケットのしたにすべりこんできた。ぼくが最初に全身で感じたのは、きみの身体から放たれる熱だった。夏の日ざしや太陽をそのまま抱き締めているようだった。

 ぼくたちの初めての体験は、ひどく遠慮がちなものだった。きみはぼくの胸に頭をのせて、暗い天井を見あげていた。
 「ありがとうね、太一くん」  突然、きみは女の子のようなことをいう。ぼくは驚いてしまった。
 「どうしたの。美丘らしくないよ」
 「だって、うれしくて、どうしてもお礼をいいたかったんだ。もう二度と、太一くんはわたしとしてくれないかもしれないから」
 意味がまるでわからなかった。ぼくたちはまだたった一度しか抱きあっていない。きみは後頭部の髪をゆっくりとかきあげた。そこには古い傷跡が、細く白い道のように残っている。
 「ちょっと指を貸して。わたしの髪のなかに道があるでしょう」
 「この話をするのは、ほんとうに好きになった人だけ。太一くんで、ふたり目になるわ。わたしが交通事故にあったのは、幼稚園の年長さんのときだった。もう記憶はぜんぜん残っていないんだ。頭を強く打ったらしくて、手術をして長いあいだ入院することになった。事故のときの衝撃とか、手術の痛みとか、そんなのはまったく覚えていない。ただね、好きじゃなかった幼稚園を、たくさん休めてうれしいな。子ども心にそう思った記憶だけある」
 「わたしの頭の骨は、陥没して割れてしまった。脳と頭蓋骨のあいだには硬膜という硬い膜があって、その部分も裂けてしまった。その頃硬膜をつなぐには、手術で人の硬膜を移植するしかなかったんだ」
 「幼稚園児のわたしが移植されたのは、ドイツから輸入された乾燥硬膜だった。ライオデュラ。それで病気が移ったかもしれない。わたしより先に手術した人は四人。そのうち三人が死んで、残るひとりはこの春発症した」
 「クロイツフェルト=ヤコブ病。治療の方法はない。十年も二十年も潜伏して、いつ発症するかもわからない。それで、一度発症したら、三ヶ月ぐらいで脳がスポンジみたいに空っぽになって死んでしまう」
 涙もでなかった。この愛らしい頭のなかに、恐ろしい病原体がうごめいているかもしれないのだ。ぼくは必死になって、きみの頭を胸に抱いた。きみは明るい声を張る。
 「でも、安心してね、太一くん。わたしは感染していないかもしれないし、この病気、セックスでは移らないから」

  約束
 (越後湯沢郊外のロックフェスチバルのときだった。)
 「太一くん、わたしの証人になってね。わたしが生きていたことを証言するの。峰岸美丘はここに生きていた。太一くんを愛していた」
 ぼくは踊りをとめて、きみにうなずいた。夜をはがすように、朝日が空の半分を白く染めていく。音楽も山も緑も美しかった。そのなかで一番きれいだったのは、もちろんきみだ。
 「わたしの命の火が燃え尽きる最期のときまで、太一くんはカメラマンになるんだよ」
 きみはぼくの頬に手をあててぼくの目にキスをした。
 「大好きなこの目にわたしの命を妬きつけてね。絶対に消えないように心に刻んでね。わたしが、生きていたんだって、それでなにもかも受け入れられるくらい、深く愛してやさしかったんだって」
 きみはTシャツを汗で身体に丸く張りつけて、泣き笑いの顔になった。
 「それともうひとつの約束をしてほしい。いつか、わたしがわたしでなくなったら、太一くんのこの手で」 きみはぼくの右手をとり、自分の左胸にあてた。
 「この手で終わりにしてほしい。自分が生まれるときも選べないんだから、死ぬときだけ好きに選ぶなんて生意気だっていう人もいる。でも、わたしは自分が自分でなくなったのに、ただ身体だけで生きてるのは絶対に嫌。だから、この手で終わりにしてほしい」
 きみは真剣にぼくを見あげた。ぼくは返事ができなかった。大好きなこの身体を終わりにする。ぼくが美丘の命の火を吹き消す。頭のなかで黒い思いが無数に湧きあがってくる。それは犯罪になるのではないだろうか。
 「わたしは病気なんかじゃなく、大好きな人に殺されるほうがずっといいよ。わたしは自分が生きてきたように死にたい。それは贅沢な願いなのかな」   きみはぼくの胸に額を押しあて、もう隠すことなく泣いていた。
 「わかった。ぼくはきみが生きていたことの証人になる。いつか最期のときがきたら、この火を消してあげる。美丘、ぼくもきみといっしょに生きられて、ほんとうによかった」
 ぼくたちは朝の光と音楽のビートに打たれて、抱きあったまま立ち尽くした。
 あのときの約束を、ぼくは後悔したことはない。誰かを愛することは、その人の命に責任をとることだ。今のぼくにはそれがわかっている。それを教えてくれたのは、あの夜明けの汗くさいきみだった。

 ◆ 不治の病を抱えて、短い命を精一杯生き続けた美丘。
 都心の大学に通う学生たちの風景やファッションなどが、いかにも石田氏らしい文章で綴られている。
 こういう深い恋愛をしてしまい残された太一が、どういう人生を歩んでいくのか、興味がある。