人間の絆 Of Human Bondage
2008/11/14
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W.Somerset Maughom 著 Pengin Books
中野 好夫訳 新潮文庫、世界文学全集37ーー1964(1960)
行方 昭夫訳 岩波文庫
サマセット・モーム(1874--1965) 『人間の絆』は、半自伝小説だと言われている。
イギリスを代表する国民的小説とも言われる大著である。
第一次大戦中の 1915年に発刊され、日本には戦後に紹介されてヒットしたようだ。
かなり急いで読んだので、つまみ食い的だが、読書メモとして、残す。
◆ 人生の絆、冒頭を少し読みました。
フィリップの父親の医師が敗血症で急逝、妊娠中だった母親は半年後に
赤ちゃんを死産し、その後亡くなってしまう。
9歳だったフィリップは孤児となり牧師の叔父夫婦に引き取られる。
彼は生まれつき足が悪かった。(びっこ)
新潮社版は旧い版で文字がとても小さく読み辛い(初版は昭和34年、平成11年62刷)。
図書館にあった3冊を借りたけど、本当は4巻目もあるらしい。
牧師のミスタ・ケアリは、英国国教会に属しているが、自分たちはカトリック(アングリカン)だと
考えていて、非国教会派を礼拝堂通いと敵視していた。
ローマから見ると、どちらもプロテスタントのはずなのに、その中で細かい
宗派の争い(信者の取り合い)をする・・・・そんなものでしょうか。
ミスタ・ケアリと聖歌隊長兼会計兼教区委員のジョザイア・グレイブズが
演説会の座長役をめぐって大喧嘩をし、グレイブズは職を投げ出すが、
実は二人とも困ってしまい、それぞれの妻のとりなしで和解をするという
話がありました。
フィリップは、キングズ・スクールへ入学する。
そこで彼は、蝦足だということで仲間の生徒からからかわれいじめられる。
運動などには参加できないため、孤独なひとりぼっちの生活を送る。
ある日聖書に
『もし汝ら信仰ありて疑わずば、ただにこの無花果の樹にありし如きことを、
為しうるのみならず、この山に「移りて海に入れ」と、いうことも、また成るべし。
かつ祈りの時、何にてもこれを信じて求めれば、ことごとくうべし』
という文言を見つけ、これは本当のことかとミスタ・ケアリに訊ね、本当だと
応えられる。
フィリップはその日から、「蝦足が治りますように」と熱心に神に祈り始める。
しかし、一向に兆しは現れず、それではまだ祈りが足りないかと、さらに
真剣に祈りを続けたが、結局足が治るという奇跡は来なかったので、
『してみると、信仰十分などという人は、結局誰一人いないんじゃないかしら』
彼は、苦しむことはもうやめた。
このスクールの卒業生で商人の息子だったトム・パーキンズが、新しい校長と
して赴任してくる。学校のスタッフたちは、まず彼が紳士ではないと考え、
いままでのしきたりを変えまいと抵抗するが、パーキンスはそんなことは
お構いなしに、どんどん校内に改革を進めていく。
今まではロンドンの学生との交流は、生徒の純な心の邪魔になると否定
されていたが、パーキンスの方針は、広い世界を知るためにどんどん交流
すべき、という具合だった。
p107
コールタールという綽名の教師・ターナー
葡萄酒と上等の食事が好きで、一度などはカフェ・ロワイヤールで、多分どうもよほど近しい関係と
思われる女と、一緒にいるところを見られたことがあり、以来、ずっと生徒たちは、彼が、特にある種の
放蕩ーーその具体的な詳細は、結局どこまでも人間の原罪悪を信ずるほかはない、ということになるのだが
ーーそれに溺れていると、決めていた。
p109
この頃になって、一つには校長の感化もあり、二つには、近頃ひどく彼を不安にした、新しい肉体的条件
(声変わり)もあって、ふたたび古い感情が蘇り、彼自身の堕落を、たえず猛烈に自責した。地獄の劫火が、
彼の想像の中で、おそろしく燃えさかった。
ほとんど異教徒と変わりないこの間に、もし万一死ぬとでも
すれば、地獄堕ちは間違いない。暗黙のうちに、彼は、永遠の劫苦を信じていた。永遠の幸福よりも、
はるかに強く信じていた。そして、今まで過ごしてきた危険を思うと、ゾッとして怖気をふるった。
p115
仲間の馬鹿さ加減に対しても、その軽蔑を隠すだけの腕は、とてもなかった。
思い上がりだと、みんなはいった。そういえば、彼のすぐれている点というのは、これはまた彼等が、
下らないと思っているような事柄ばかりなので、彼等はよく皮肉に、いったいお前に、なに思い上がるような
ものがあるのだ、などと訊いた。
ちょうどその頃、彼には、一種の諧謔心とでもいうものが、
出かかっており、いわば相手の急所を、ピシリとやっつける、辛辣な皮肉の才があることに、
気づいていた。
それが、どんなに他人を傷つけるかは、ほとんどわからないで、ただ自分で面白いものだから、
よくそれをやった。そのくせ、そのために、相手の犠牲者から嫌われると、彼もまた、ひどく腹を立てるのだ。
(フィリップはキングズ・スクールー牧師になるための幼予備校ーに入るが、自分は牧師にはなれないと退学する)
(計理士になろうと、ロンドンの計理事務所で修行するが、その才もないと知る)
p266
(ミス・ウィルキンソンーーかなり年上のフランス語家庭教師ーーとの初恋?)
ミス・ウィルキンソンの方では、いつでも傍にいなければ、それは冷淡だという。(中略)
ミス・ウィルキンソンは、フランス人が、女性に対して、ちょうど今の彼と同じような関係になった場合、
どんなに細やかで、やさしいか、あきず実例を話して聞かせるのだった。彼らの慇懃さ、彼らの強い
自己犠牲愛、さては間然するところない如才なさなどについて、言葉をきわめて誉めた。とにかく彼女の
要求は、よほど大きいらしかった。
いやしくも完全な恋人ばらば、必ず具備しなければばらなぬ条件として、彼女が長々と数え上げる性質を、
フィリップは黙って聴いていたが、それを思うと、彼女が、ベルリンにいてくれることを、ある程度
有難く思わないわけにはいかなかった。
ミス・ウィルキンソンは、とびらに背を向けて、化粧台のわきに立っていたが、とびらの開く音がすると、
クルリと、向き直った。
「ああ、あなただったのねえ。なんの用?」
スカートとブラウスはとってしまって、ペティコートい一枚だけで立っていた。短いペティコートだ。
深ぐつの上のところまでしかなかった。上半分は、なにか黒く光る生地で、赤いすそ飾りがついていた。
短そでの、白キャラコのカミソウルを着ていた。むしろグロテスクでさえあった。じっと見ているうちに、
フィリップの心は、がっかりした。
こんなにも興ざめた彼女を、見たことはなかった。
だが、それも、もうおそい。彼は、うしろ手にとびらをしめると、掛け金をおろした。
(フィリップの初めての性の経験)
(2巻)
p38
ミス・ブライス
彼女は、あわてて、彼の方を見ると、真っ赤になった。赤くなると、蒼ざめた彼女の皮膚が、まるで
悪くなったストローベリ・クリームのように、異様な斑ぶちに見えるのだった。
p72
昼食は、あまり成功ではなかった。フィリップは、神経質な性質で、ミス・ブライスの食べ方を見ていると、
彼の食欲はなくなってしまった。ガツガツ、ガサガサと、まるでちょっと動物園の野獣のような食べ方だった。
一皿食べ終わるごとに、肉汁一滴でも、無駄にするのは惜しいように、パンの片で、すっかり皿が白く、
光るようになるまで、拭ってとるのだ。カマンベール・チーズをもらっていたが、上皮はおろか、
出ただけ、一片残さず食べてしまうのは、全く興ざめだった。たとえよし餓死に瀕していたとしても、
まさかに、これ以上ガツガツはできなかろうと、思われるほどだった。
(ミス・ブライスも絵の才能がないと知り、自殺する)
p174
フィリップは、キリスト教の信仰を失った時、まるで彼の肩から大きな荷物が、取り除かれたような
気がした。人は、一つ一つの行為が、その不滅の霊魂の福祉に対して、無限の重要さを持っているという、
してみれば、人は一つ一つの行為に重大な責任を負わされているわけだ。その責任を、一挙にして、
かなぐり棄ててしまった時、彼は実に生々とした自由感を経験した。だが、今になって見ると、それは、
全くの錯覚だった。彼が、育てられて来た信仰を棄てた時、しかし彼は、その信仰の一部分である
道徳の方は、そのまま、まるで取っておいたのだった。
したがって、今度は、一切を、自分自身で考え抜いてみようと、決心した。
決して、決してもう、先入見によって、動かされることはすまい、とにかく自分自身で、行為の法則を
見出すのだ、そう思うと、彼は一切の美徳と悪徳、善悪に関する一切既成の法則を、破り棄ててしまった。
(画家になろうと決心し、叔父を説き伏せパリに画学生として遊学する。
しかし2年が経ち、立派な画家になる才能はないと知る。)
(医者になろうと思い、ロンドンで医学校に入る。)
p198
ミルドレッド(女給仕)
彼は女の顔を見た。そういえば、たしかに、横顔の美しい女だった。この種階級のイギリス娘に、よく
こうした、まるでハッと息を呑むような、完全な輪郭の女にぶつかるのは、実に不思議だった。
だが、それは、大理石のように冷たそうでもあった。そして、細やかな皮膚の、かすかな青味が、妙に
不健康そうな印象を与えていた、給仕女たちは、揃って無地の黒服に、白いエプロン、白い袖口(カフス)
をつけ、頭には、小さな帽子を被っていた。
p209
ふたたび彼女と相見るときまでの時間を、彼はどうして過ごしたらよいか、わからなかった。
うつらうつらと、彼は、あの弱々しい顔立ちをした痩けた顔と、青白い肌の色とを、思い浮かべていた。
ひどくわびしかった。彼女のそばに座り、あの顔を眺め入って、あの身体に触ってみたいような気がして
仕方なかった。そしてそれから・・・・・ふと、考えが湧いて、考え終わらないうちに、突然、彼の目は、
カラリと冴えてきた・・・・・あの薄い唇をした、蒼白い口許に、接吻してみたかった。
とうとう、真実が現れたのだ。俺は、あの女に恋をしている! とうてい信じられないことだった。
p211
かりにもミルドレッド・ロジャーズを恋するなんて、なんとしても本当とは思えない。
第一、なんという名前だ。
美しいとも思えなかった。それに痩せているのも、いやだった。今夜はじめて、イーヴニングの下から、
肋骨が、おそろしく飛び出しているのに、気がついたのだった。顔立ちを、一つ一つ、思い浮かべてみた。
口もいやだった。不健康そうな顔色も、なんとなく不快だった。とにかくひどく月並みな女だった。
味もなにもない、しかも乏しい言葉を、何度となく、たえずくりかえすのは、そのまま心の空っぽさを
証明しているといってもよい。音楽喜劇のクスグリのたびに、彼女の漏らした下品な笑い声。
そういえば、盃を口許へ持ってゆくときの、あのわざわざ小指を伸ばした格好も思い出した。
話し振りと同じく、彼女の挙動、動作もまた、妙に上品ぶっているのが、いかにもいやらしかった。
それからあの横柄な態度、彼は、幾度か、よっぽど横面を一つ、張り倒してやろうかとさえ思った
くらいだ。それともあるいは、あの小さな、美しい耳の形を思い出したためかもしれない。
彼は、急に激しい感情のあらしに襲われた。しきりに恋心が湧いた。あの痩せた、弱々しい身体を、
両腕に抱いて、あの血の気のない唇に、接吻がしたかった。ほのかに蒼味をおびたあの頬に、指先で
ソッと触れてみたかった。無性に恋しいのだ。
(そこでカフェの女給ミルドレッドと知り合い、恋?に落ちる。
しかし、ミルドレッドはフィリップが医学校を卒業して医者になっても、最初はたいした金を稼げないと
知り、ドイツ人のミラーの誘いに乗り結婚するといってパリへ去る。)
(3巻)
(ミルドレッドが去った後、フィリップはノラと知り合い、恋人の関係になる)
p18
ミセス・ネズビット(ノラ)は、齢は二十五くらい、非情に小柄な女で、顔は、明るいが、不美人だった。
利口そうな眼、高い頬骨、大きな口、なにしろ極端な意図の対照が、どこか近代フランス画家たちによる肖像画を、
思わせた。肌は真白で、頬は真赤、濃い眉毛は、これまた真黒なのだ。とにかく奇妙な、多少どころか
不自然な効果とさえいえるが、不愉快などころか、むしろなかなかよかった。
夫とは、別居中だとのことで、三文小説を書いては、自分と子供との暮らしを立てていた。
三万語の小説一編が、わずか十五ポンドだったが、彼女は満足していた。
p23
「ねえ、わたしは、教会だの、牧師だの、そんなものは、一切信じないわ。だけど、神様は信じるの、でも、
神様ってものはね、わたしたちが、ちゃんと義務を果たして、もしびっこの犬が、垣の階段で困っていれば、
できるなら、助けて跨がせてやる、それだけのことさえしていれば、あとは、わたしたちのすること、
そう一々見てるもんじゃないと思うの。それから、人間ってものは、だいたい、みんな親切で、いい人なのねえ。
そうでない人は、気の毒だと思うわ。」
「じゃ、来世については?」 とフィリップが訊いた。
「ああ、そんなこと、よくわからないわよ」 と笑いながら、「でも、まあ、せいぜい、いいことだと
思っとくわ。とにかく部屋代を払えだの、小説を書くなんてことは、ないでしょう?」
p25
馬鹿ではないから、彼は、自分の幸福は、よくわかった。彼女は、妻が与えてくれる、一切のものを
与えてくれて、しかも彼の自由は、奪われることがない。これまで彼がもった、最上の友人であり、
しかも男には決して見られない同情の持ち主だった。
性的関係は、二人の友情における、単に最も強いつながりというにすぎなかった。
友情に対して、いわば、最後の点睛ではあったが、決して本質的なものではない。
フィリップも、性欲が充たされたせいもあって、ずっと落ち着いた、人づきあいのいい人間になっていった。
(ミルドレッドがロンドンに帰ってきた。ミラーの子供を宿していた。
ミラーは妻子持ちで、ミルドレッドは情婦の立場、彼に騙されていたのだが、妊娠を知り彼に捨てられたのだった)
p62
「足が痺れちゃった」
「御免なさいね」彼女は叫んで、跳び下りた。「わたし、もっと痩せる必要があるわねね。男の人の膝に
乗るのが癖で、やめたくないと思えば」
かれはことさら地団太踏んでみたり、仰山な身振りをした。それから、もう二度と乗られないように、暖炉の
前に行って、立った。女がしゃべるのを聞きながら、彼は、考えてみれば、この女の方が、ミルドレッドよりも
十倍もいい女だと思った。彼を面白くさせてくれる点でも、また楽しい話し相手としても、はるかに上だった。
顔もいいし、人間にも、はるかにいいところがあった。
彼女は、気の好い、勇気のある、正直な女だった。そういえば、ミルドレッドという女は、こうした形容詞の
どの一つにも当たらない。もし彼にして、少しでも考えがあれば、当然ノラの方につくべきなのだ。おそらく彼は
、ミルドレッドとともにあるよりも、はるかに彼を幸福にしてくれる女に違いない。
要するに、彼女は、彼を愛しているのだが、ミルドレッドにいたっては、彼の援助を感謝している。ただ
それだけにすぎないのだ。だが、結局のところ、大事な点は、愛されるということよりは、愛することなのだ。
そして彼は、ほとんど心を傾けて、ミルドレッドを愛し求めているのだった。
ノラと一緒に、午後中過ごすよりは、むしろただ十分間でもいいから、ミルドレッドと一緒にいたいのであり、
ノラが与えてくれる一切のものよりも、ミルドレッドのあの冷たい唇の接吻一つが、はるかに嬉しいのだった。
(フィリップはミルドレッドが出産出来るよう、部屋を借りたり金銭の面倒を見る。
無事に出産すると、彼女は自分では育てず、里子に出すという。その費用もフィリップが負担する)
(親友のグリフィスーー彼は浮気者で、金も誠意も持たないヤツーーにミルドレッドを紹介すると、
二人は恋に落ち、フィリップはまたもや袖にされるが、フィリップは二人が旅行に出る費用まで出す)
p149
今となってみれば、どだいミルドレッドの愛を求めようというのが、いわば不可能事を企てていたのだ、
とわかった。
なにか男から女へ、女から男へと伝わって、どちらか一方を、他方の奴隷にするあるものが、
果たして何であるか、フィリップは知らなかった。便宜上、性本能と呼ぶのもいいだろう。
だが、もしそれだけのものだとすれば、それでは、なぜ特定の人間に対してだけ、あんなに激しい恋着を
起こさせるのか、それがわからなかった。一度起っては、もはや抵抗の術はない。精神も、これと闘う
ことはできず、友情も、感謝も、利害意識も、その前には、もはや無力だった。
ミルドレッドに対して、フィリップという男は、なんの性的魅力もなかった。だからこそ、彼がなにを
しても、それは一切、彼女に対しては無駄弾丸だったのだ。
そう考えると、彼は、たまらなく不愉快だった。人間というものは、まるで獣だ。そして、突然、彼は、
人の心の中には、一ぱい、暗い、わからない場所のあることを感じた。彼に対して、ミルドレッドが
冷淡だというので、彼は、勝手に、彼女を性感喪失者と決めていた。事実、あの貧血症的外貌や、薄い
唇や、細い腰、扁平な胸をした肉体、物憂げな動作などは、たしかに彼のこの仮定を裏書した。
ところが、その彼女が、突然、恋の奴隷になり、それが満足のためには、喜んで一切を犠牲にしてしまったのだ。
今まで彼には、彼女とエミール・ミラーとの情事というのが、よくわからなかった。いかにも彼女らしくない
上に、彼女自身でも、なんとも説明はできなかたt。ところが今や、グリフィスとの交渉を見てみると、
結局やはり同じことが起こったのだ、とわかった。いわばどうにもならない感情に、押し流されているのだった。
だが、それにしても、彼女の心を捉えたものは、おそらく彼等二人の男の最も顕著な特徴であった。ギラギラするような
性感だったに違いない。
(ミルドレッドは、再びフィリップの許から去る。彼女は娼婦にまで身を落としたようだ。)
◆(中野氏による解説より)
フィリップ(モーム)のたどり着いた人生哲学。
人生も無意味なれば、人間の生もまたむなしい営みにすぎぬ。生まれようと、生まれまいと、生きようと、
死のうと、それはなんのことでもない。生も無意味、死も無意味・・・・・あたかもじゅうたんの織匠が、
ただ彼の審美感の歓びを満足させるためだけに、あの模様意匠を織り出したように、人もまたそのように
人生を生きればよい。ひっきょう人生は、一つの模様意匠にすぎないと、そう考えてよいのだ。
特にあることをしなければならぬという意味もなければ、必要もない。ただすべては彼自身の喜びの
ためにすることなのだ・・・・・フィリップは幸福への願望を捨てることによって、彼の最後の迷妄を
振り落とした。
モーム自身の半生は、いわば情念という絆に縛られたどれい的人間の半生であり、そしてこの作品の
意図は、その奴隷的人間が、やがてその絆の桎梏を断ち切って、支配される人間から、支配する
自由な人間に発展する一つの精神史を描くことにあったと考えられる。
いっさいの無意味、そしてただ意匠的美しさだけを悟りえたときに、逆に彼ははじめて幸福感を
つかみえた。開放された、そして支配する自由な人間になっていたのだーーー
ーーーーーーーーーーーーー
◆ 医学校に通っていて、ミルドレッドに求婚するが振られ、彼女はミラーと
共にパリへ去る。失意のフィリップはミセス・ネズビットと親しくなる。
ノラとの関係を述べる次の文章の「点睛」という言葉が気になったので、
原文を調べてみた。
p25
馬鹿ではないから、彼は、自分の幸福は、よくわかった。彼女は、妻が与えてく
れる、一切のものを与えてくれて、しかも彼の自由は、奪われることがない。
これまで彼がもった、最上の友人であり、しかも男には決して見られない同情の
持ち主だった。
性的関係は、二人の友情における、単に最も強いつながりというにすぎなかった。
友情に対して、いわば、最後の点睛ではあったが、決して本質的なものではない。
フィリップも、性欲が充たされたせいもあって、ずっと落ち着いた、人づきあい
のいい人間になっていった。』
The sexual relationship was no more than strongest link in their friendship.
It completed it, but was not essential.
(中野好夫訳新潮文庫)性的関係は、二人の友情における、単に最も強いつなが
りというにすぎなかった。友情に対して、いわば、最後の点睛ではあったが、決
して本質的なものではない。
(行方昭夫訳岩波文庫)性的関係で友情が完璧なものとなるのであるが、だから
といって、絶対に不可欠というのではないのだ。
ーーーーーーーーーーーーー
◆ 「人間の絆」について、奈良教育大学英語教育講座の論文を見つけました。
ーー心理の追求のための物語ーーと副題にあります。
http://dspace.nara-edu.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10105/253/1/55-1-18_2006.pdf
(ミルドレッドとの関係について)
フィリップは自分から進んで恋愛に走ったというよりも、ちっとも楽しくない恋愛も
罠に捕えられたというべきだろう。これは恋愛という名前の、人生における
一つの拘束形態なのである。
興味深いのは、フィリップがミルドレッドとの関係を自分の少年時代における
体験と重ね合わせて捉えていることである。
彼女は一つのわなであり、かつ超えられるべき試練なのである。
このミルドレッドへの思いは、いつ知らず性欲へと変質してしまう。フィリップは
ミルドレッドを征服すれば、その性欲から開放されるだろうと考える。彼にとって
肝心なのは性という拘束状態からの脱却であることを見誤ってはならない。
教養小説としての「人間の絆」 真理追究のための物語 門田 守(奈良教育大学)
◆ この小説は、新潮社版(文庫、全集ともに)は、80章くらいまでが収録されているが、
岩波文庫版は、(上、中、下)巻に分けられ、下巻が81章以降に相当する。
Pengin社の原本は当然、124章まで収録されている。
フィリップがミルドレッドと別れた後で、アルセリー家と知り合い、サリーと言う女性と最後に結婚する。
この部分が81章以降になるのだが、新潮社版(全集)でどうして省かれたのかは分からない。
◆ 今日本屋で行方昭夫訳の人間の絆(下)を立ち読みしました。
(上、中は80章辺りまで。その後の部分が下巻です)
後書きの中で、訳者はこう書いていました。
・bondage は、「隷属」或いは「束縛」と訳するのが妥当だと思うが、
日本では「絆」という訳が定着しているので、あえて変えることはしなかった。
・この本がモームの半自叙伝だということで、多くの人が小説の中の人物と
実在した人物との対比を研究しているが、なぜかミルドレッドのモデルとなる
人物(女性)は見つかっていない。
この理由の一つは、モームが同性愛者であったことと関係があると思う。
彼はこのことをひた隠しにしていた。(当時の社会はそれを今のようには認めな
かった)
モームは後に結婚しているが、この結婚も世間を欺くためで、形式的なもの。
モームが愛で苦しんだ真の相手は、男性だったのではないか? というもの。
こういったことは、いくら読書百遍でも、分かりませんね。