炎鬼の剣  高柳又四郎伝      峰隆一郎著     祥伝社文庫    2000(1994)       2008/04/24

  幕末剣豪の中で異彩を放つ高柳又四郎。実戦剣法を目指していた彼は、剣と剣を叩き合わせることなく、立合いは 常に”音無し”であった。唯一、又四郎の剣尖に音を発し得たのが千葉周作だったという。
 文政七年(1824)、十七歳の又四郎は剣士を一刀のもとに斬り伏せ、江戸を出奔した。それがはからずも、 まだ見ぬ母を訪ねる旅であり、人斬り修行の旅となった・・・・・。

  果たし合い
 高柳又四郎は、この年(文政七年1824)十七歳になっていた。身長五尺七寸、痩せた体つきで、色白の唇の薄い 男であった。少年というより、若者というべきだろう。四歳のころより剣術を始め、このときすでにかなりの 域に達していたものと思われる。
 高柳家は、戸田流高柳派を称し、高柳道場の看板を掲げていた。戸田流は富田五郎右衛門勢源を流祖とする 小太刀の流派である。伊東一刀斎や、宮本武蔵に敗れた佐々木小次郎も、戸田流の流れの中にある剣客たちである。
 高柳左京亮は、飛騨郡代をやったことがある人だが、このごろは竹刀を持って道場にでることもない。いまは 長男欽一郎が六十人の門弟に稽古をつけていた。四男又四郎は、正妻の子ではなかった。左京亮が飛騨郡代のとき、 郷士の妹に手をつけて生ませた子である。又四郎は三歳のとき、飛騨から江戸高柳家に引き取られた。つまり 妾腹の子であった。そのため、高柳家では孤立していた。

 ゆくゆくは嫁にしようと思っていた御家人の娘・喜久が商家相模屋に嫁入りすると聞き、花嫁行列に斬りこみ、 喜久に駆け落ちを迫ったが断られる。
 喜久の家の意を受けた与田新八郎から果し合いを申し込まれ、幕府小目付の立合いの下でで決闘し、与田を倒し、 江戸を離れた。

  討っ手
 文政八年、又四郎は、信州松本の神道無念流の野中道場に食客として足を止めていた。道場主は野中新五郎という。新五郎 は四十四歳、いまは一子定二郎が門弟に稽古をつけていた。門弟には戸田家の藩士、あるいはその子弟が多い。
 ある日、町で無頼の浪人を三人斬ったことが藩の家老の耳に入り、仕官を求められるが断った。
 代わりに藩の剣術指南役との立合いを求められ応ずるが、適当にあしらうことをしなかったため、恨みを買い、 指南役を斬り、またその後追っ手を斬って信州を逃れた。

  道場破り
 文政十年、又四郎は武者修行の旅を続け、尾張・宮宿にいた。そこで、奇妙な浪人・五郎左と知り合う。
 五郎左も剣の腕は確かなようで、二人で道場破りをして小遣いを稼ごうと誘う。
 法神流道場に他流試合を申し込み、道場主を負かし、十両を手にするが、負けたことを恨んだ道場主とその 雇い浪人と斬り合いとなり、五郎左は命を失う。

  音無しの稽古
 文政十二年、又四郎は江戸に戻ってきて、中西道場に席を置いた。(二十二歳)
 又四郎の稽古は、竹刀の音をたてずに、相手の面、小手、胴を打つ。門弟には、又四郎の動きがわからない。 打ったつもりの竹刀は空を打ち、自分はどこかを打たれている。もちろん正確に打つから、打たれるほうは痛くもない。
 「打つことばかりを考えず、打たれることをも考えよ」 と教える。
 打つことばかりを思っていると、猛然と打ちかかるだけである。剣術の技は力だけではない。打たれることを 考えると、余裕が出て来る。打たれても怪我するわけではない。そのため防具をつけているのだ。真剣の斬り合いとは 違うのだ。違うのだとわかっていて稽古をする。
 その稽古のやり方をする門弟が多くなった。目で竹刀を追わなくても竹刀の動きは見えてくる。相手の動きが 見えてくれば、自然に打ち込めることになる。腕はぐんと上がることになる。

 又四郎は道場にやって来た千葉周作と立ち合う。腕は互角で引き分けだった。ただ、この試合で又四郎の竹刀が音をたてた。 音をたてさせたのは千葉周作ただ一人だった。

 ◆ 高柳又四郎は実在の剣士だったようだ。江戸から京都へ行き、その後消息を絶ったという。