大名討ち 無言殺剣
鈴木英治著 中公文庫 2005 2008/01/31
譜代大名・土井家の城下、古河の町に現れた謎の浪人。剣の腕は無類だが、一言も口をきくことがない。
その男のもとに、恐るべき殺しの依頼がもたらされる。
殺しの標的は、古河藩と境界を接する関宿・久世家の当主。 老中の座をめぐって土井家と争う大名だった。
書下ろしシリーズ第一弾。
御前試合(第1章)
横山の木刀は笹田の膝を強烈に打った。 枝が折れるような鈍い音。左足一本でかろうじて笹田は立っている。顔は
苦悶に満ちていた。容赦することなく横山は袈裟に木刀を落としていった。
笹田はまったく動こうとしない。なんとか木刀で受け止めようとしたが、その前にびしっ、という音があたりに
響き渡っていた。横山がすっと元の位置に戻る。すでに木刀を正眼に構えている。
「勝負あり」 審判役」をつとめていた老旗本が手をあげる。あまりのすさまじさに、誰もが呆然として声が出ない。
老中の小笠原家の上屋敷に将軍を迎えて、土井家剣術指南役の笹田八之丞と久世家指南役の横山佐十郎との御前試合が
行われ、横山が勝ちをおさめた。
土井大炊頭利直と久世大和守豊広はともに譜代大名で次の老中職を争うライバルだったが、笹田を倒された利直は
豊広にたいして深い恨みを持った。
謎の浪人(第1章)
賭場の客たちは、財布や巾着を次々に差し出してゆく。
賊の一人が先ほどの浪人のもおtにも行った。浪人はまだ丸腰だ。
「金を出しな」 賊が刀を胸に突きつける。
つと浪人の腕が動いた。刀を横に払うようにすると、拳が賊の懐に突っこまれた。 伊之助に見えたのはそこまでで、次の瞬間、
賊は床に叩きつけられていた。
「きさまっ」 二人の賊が刀を振りかざして突進する。袈裟に振りおろされた刀をかわすや、浪人は一人の賊の腹に
拳を突き入れた。 うぐっ、という声を残し、賊が床に両膝をつく。
もう一人が刀を横に振り抜いた。斬られる、と伊之助は目を閉じかけたが、浪人は足さばきだけで避け、賊の横に出た。
浪人の姿を見失った賊が顔を向けようとしたのを見計らうようにして、首筋に手刀を浴びせた。
変な形で首を揺らした賊が、床にうつぶせに倒れこむ。手が床を叩いた弾みで刀が離れ、音を立てて床を転がった。
浪人は形ばかりに裾を払い、ふっと息を吐いた。三人の賊は床の上で身動き一つしない。
あまりの強さに、伊之助は息のとまる思いだった。こんなに強い人がこの世にいるなど、信じられなかった。
暗殺依頼(第1章)
「足を運んでいただいたのは、依頼したき旨があるゆえでござる」 「その依頼と申すのはーー」 そこからはほとんど前置きなしにかたった。
伊之助は驚愕を禁じ得なかった。黙兵衛は眉一つ動かさなかった。
「井上さま、本気でおっしゃっているんですかい」 郡兵衛がゆっくりとした口調で確認する。
「むろん」 収二郎は深々と首をうなずかせた。 「久世家の剣術指南役の横山佐十郎を討ち果たしていただきたい。さらに、久世豊広公を
亡き者にしていただきたい」 それだけではなく、久世豊広の首を首桶に入れ、持ち帰ってほしい、と続けた。
「どうして音無どのを選んだか。−−このお人なら、見事やり遂げてもらえる気がしたのだ。例の賭場を襲った三人を、
たった一人で取り押さえるなど・・・」 「それだけの手錬は、残念ながら我が家中に一人としておらぬ」
決行(第4章)
黙兵衛と伊之助は隣藩関宿の豊広公と横山の動静を探り始めるが、久世藩の側でも黙兵衛たちの企みを察し警戒を
強めていった。
関宿の城は堅固で、城中に忍び込んで討つことはとても出来そうになかった。だが、豊広公は城外の別邸に妾を置き、
度々そこを訪れることや、舟遊びが好きなことなどが襲撃のチャンスをうかがわせた。
剣術指南役の横山は、常に豊広公の身辺を守っていたが、先手を打って黙兵衛たちの塒を襲う計画を立てた。
計画を察知した黙兵衛は、その夜豊広公の首を取るべく舟遊び中の豊広公を襲い首尾を達し、何故かすぐに引き上げず舟上に残った。
計画の裏をかかれたと気づいた横山は急いで引き返し舟に辿り着いたが、すでに豊広公の首を取られた後だった。
狭い船上で黙兵衛と横山の死闘がくり広げられ、黙兵衛に斬られた横山は水中に投げ出された。命は助かるまい・・・・
黙兵衛は江戸へ向かい、伊之助も着いて行くことになった。
◆ この作者の「無言殺剣」(4) 野盗薙ぎ は先日読んだ。このシリーズ第1作で、一言も喋らないため、伊之助が「音無黙兵衛」という
仮名をつけたこと、比類の剣の達人であることなどが分かったが、彼の前身や浪人した理由などは謎のままだ。
伊之助との二人旅を続けるようだが、第2作ではもう少し事情が語られるのだろうか?
それにしても、御前試合で負けた遺恨で相手の大名の首を打たせるなどは、あまり納得できる話ではない。