やぶからし
山本周五郎著 新潮文庫 2004(1982) 2007/08/10
生まれついての放蕩がやまずに勘当された、”やぶからし”と自嘲するような前夫のもとに、幸せな家庭や子供を
捨ててはしる女心のひだの裏表を抉った表題作。美しい妹の身勝手さに運命を変えられた姉が、ほんとうの幸福をさがし
求めるまでを抑制された筆でたどった『菊屋敷』。
この本には、◆ 入婿十万両 ◆ 抜打ち獅子兵衛 ◆ 蕗問答 ◆ 笠折り半九郎 ◆ 避けぬ三左 ◆ 孫七とずんど
◆ 鉢の木 ◆ 菊屋敷 ◆ 山だち問答 ◆ 「こいそ」と「竹四郎」 ◆ やまからし ◆ ばちあたり の十二編が収められている。
入婿十万両
初めて分かった十万両の出所ーーさすがに寒泉の眼識は高かった。浅二郎なればこそ家譜の中からこの記録を発見し、
生家に十万両呈出をうんと云わせる事ができたのである・・・・・
その頃ーー家に帰った浅二郎は、事の始終を手短かに源兵衛へ報告すると、容を改めて、
「これにてお召出しに与りましたお役目、どうやら無事に果たしましてござりますが、就いては舅上に改めてお願いがござります」
「よいとも、何なりと望め」 源兵衛はほくほくもので、「その方ほどの婿を持って家中への面目、わしに出来る事なれば
何でも協えてやるぞ」
「私を離別して頂きとう存じまする」
源兵衛は眼を剥いた。 「な、何じゃ、離別・・・・離別とは・・・・・」
「一度御当家の姓を汚しましたも、ただこのたびのお役を勤めるための方策、卑しい町人の分際にてお歴々の跡目に直るなど以ての外の事ーーそれは初めより
存念になき事でござりました」
「そ、そんな馬鹿な事があって堪まるか、それでは娘はどうなるのだ、娘は」
「お嬢さまは清浄無垢にござります」
「−−う・・・・む」 源兵衛はうなった。これほどの男を見る眼がなかったとは、何と云う愚かな娘であろう。
「ご承知くださいますか」
心を入れ換えた娘・不由の機転で、めでたしめでたしとなる・・・・・
避けぬ三左
国吉三左衛門常信、徳川家一方の旗がしら榊原式部大輔康政の家来で、「避けぬ三左」とも「天気の三左」とも呼ばれる名物男だった。
相貌からだつきこそ頑厳としているが、その眼の色が柔和であるように、性質はおっとりとして温和しく、
たちいふるまいもどちらかというと鈍重である。「避けぬ」というのはその重いところから来ているが、事実においても
証明する点が多かった。
彼は飛んで来る矢弾丸を避けない、道の上で人を避けない、雨も雪も避けない(というのは雨具を用いないことだ)、
酒も菓子も避けない、およそありとある場合に、こちらからそれを御免を蒙るというためしがないのだ。生得しぜんの気性が
そうなのである。
秀吉の小田原征討の先鋒となった徳川軍の中で、三左が一番槍を上げる話。
「こいそ」 と 「竹四郎」
「例えば、おまえが足軽組頭でいたとしたらどうだ、それでもおまえは、こいそを嫁に欲しいなどと云うことができると思うか」
「もちろんです」 竹四郎は肚が立ってきた、彼は昂然と云った。「組頭ではなく平の足軽でも、そして成る成らないはべつとして、
私はやはり嫁に戴こうと思うでしょうし、そのためにできるだけの努力は致しますよ」
「それが不可能な事だとは思わないか」
「私はまずやってみます」 竹四郎はずばずばと云った。「やってみもせずに可能も不可能もありあしません、まして男が
一生の妻を娶ろうというばあいなんですから、僅かな身分の違いくらいでなに指を銜えているものですか」
「ではやってみるがいい」 平左衛門の声は少しふるえた、「今日限り国老助筆の役は罷免する、事務の引継ぎが
済みしだい元の足軽組頭だ」
「貴女にも申し上げたいことがあります、私はこんど助筆を免ぜられ、元の役にかえることになりました」
こいそは彼を見あげた。
「そうなると機会がなくなると思いますから、不作法ですが今ここで申しあげます」 彼はこいその眼をとらえたまま云った、
「私の気持はもうおわかりの筈です、貴女のほかに一生の妻とたのむ人はありません、どうか私の望みをかなえて下さい、
もし貴女が外の縁組を御承知なすったとしても、そこへ輿入れをなさるまでは望みをすてずに待っています」
「その必要はございませんわ」 とこいそは云った、「よそからの縁談はもうお断りしました、わたくし貴方のお申出を
お受け致します」
「なにを云うか、なにをばかなことを」 平左衛門はわれ知らず叫んだ、しかし若い二人はもう耳にいれなかった、
「それは有難う」 竹四郎はこいそに向かって微笑した、「足軽組頭の妻でいいのですね」
「もしかして平の足軽でいらしっても」 こいそも微笑した、「貴方はやはりこいそを娶らずにはいないと仰しゃいましたわ」
やぶからし
「お床入りのことは」 と夫人はちょっと心配そうに云った、「わかっておいでですね」
わたしは、お床入り、という言葉さえ知らなかったが、知らないままで、「はい」と答えた。
そして、斉藤夫人が去ってから、まもなくはいって来たあの方は、燗徳利を三本と、肴の小皿をのせた盆を持っていて、
ふらふらしながら夜具の脇に坐った。
「寝ていていいよ」 とあの方はこちらを見ずに云った、「勇気をつけるためにもう少し飲むんだ、おれの生涯で
今夜ほど勇気の必要なときはないからな、うん」
わたくしは迷った。起きて給仕をしようか、寝たままでは失礼になりはしないか、あの方がそう仰しゃるのだから、このままでいいのだろうか。
「おれは生まれ変わるよ」 とあの方は独り言のように云った、「私の噂は聞いていただろう、嘘だとはいわない、
噂は誇張されるものだが、私はすなおに、自分が放蕩者だったことを承認する、一と言だけ云うが、私がなぜ放蕩者に
なったか、ということは誰も知らない、知ろうともしない、父も母も、それを察してくれようとはしなかった、ということだ、
誰が、誰がすき好んで、放蕩者になんぞなるものか」
「六つか七つぐらいのときだ」 あの方は続けていた、「庭で遊んでいると、当時いた源次というとしよりの下男が、
生垣のところに伸びている草を、鎌で掘っては抜き捨てている、なんだと訊くと、やぶからしという草だと云った、どうして抜くんだ、
どうしてって、これは悪い草で、伸びるとほかの木に絡まってその木を枯らしてしまう、竹薮さえ枯らしてしまうので、
いまのうちに抜いてしまうのだ、と源次が答えた、やぶからし・・・・・」 あの方はぐらっと頭を垂れた。
十二、三になって自分が、誰にも好かれず、親たちからは叱られてばかりいることに気づいたとき、ふと源次の言葉を
思い出して、自分はやぶからしのようなものかもしれない、と悲しく思った・・・・
◆ 著者の若い時の作品から、人気作家となってからの作品など、幅広い選択がされている。
最後の「ばちあたり」だけが時代劇ではないのが珍しい。