鬼平犯科帳 二十一
池波正太郎著 文春文庫1994(9刷) 2007/09/23

池波正太郎さんの鬼平犯科帳シリーズの二十一。
この(二十一)には、
◆ 泣き男 ◆ 瓶割り小僧 ◆ 麻布一本松
◆ 討ち入り市兵衛 ◆ 春の淡雪 ◆ 男の隠れ家
の六編が収められている。
泣き男
その日。 火付盗賊改方の同心・細川峯太郎は非番であった。
〔二度ある事は〕の事件以来、細川同心は、ふたたび勘定方へもどされてしまい、溜部屋の奥の一間で、筆紙と
算盤を相手に、役宅から一歩も出ずに御役目をつとめている。
あの事件で、むしろ、細川は手柄を立てたわけだが、その端緒となったのは、彼がいまだに目黒・権之坂の茶店の
寡婦お長への未練を断ち切れず、おのれが受け持ちでなもない目黒へ、のこのこと出かけて行ったことによる。
いまの細川峯太郎は、同役の老同心・伊藤清兵衛の娘お幸を妻にめとっているというのに、
「まことにもって怪しからぬ。おのれのような未練がましい男に探索方はつとまらぬ」 と、長官の長谷川平蔵
に叱りつけられ、以前の勘定方へもどされてしまった。申すまでもなく、細川はおもしろくない。
同心宅へも出入りする按摩・辰の市の不審な行動を見た細川が、手柄を立て、探索方へ復帰する話。
麻布一本松
(おもしろくない。まったく、何も彼も、おもしろくない・・・・・)
胸にたまった不満が足の運びにも出て、火付盗賊改方の同心・木村忠吾は道端の小石を蹴った。
忠吾は、着ながしに大刀一つを落とし差しにした浪人姿の変装で吾妻下駄を履いている。笠はかぶっていなかった。
たとえば失敗を重ねて、平蔵に叱りつけられながらも、その失敗が原因となって盗賊どものうごきがつかめたりすることが多い
細川峯太郎が、うらやましかった。
さらに、四谷の組屋敷内の長屋へ帰れば、(明けても暮れても、同じ顔が待っている・・・・) のである。
同じ顔とは、妻の おたかのことだ。 忠吾と おたかの間には、まだ、子が生まれぬ。
ゆえに、おたかは一所懸命に忠吾へつくしているし、薄給の世帯のやりくりも上手だし、台所仕事も縫い物も、
他の女たちにくらべて遜色はない。
しかい、(いつまでたっても同じ顔、同じ躰だものなぁ・・・・)
討ち入り市兵衛
大盗・菱沼の市兵衛は、いまや、「伝説の人」に、なりつつある。
市兵衛は、いまは亡き篝火の喜之助と同様に、
「一滴の血も流すな、女を犯すな。無いところから盗むな」 この、本格の盗賊が一命をかけてまもりぬく三か条の掟を
忘れることなく、短くて三年、長くて六、七年の歳月をかけて大仕事をやってのける。
「この盗みは、おそらく菱沼の市兵衛にちがいない」 と、代々の盗賊改方が想定した大きな盗みが五件ほど記録されて残っている。
その中の一件は、長谷川平蔵は就任してからのものだった。
盗賊改方が捕らえた盗賊たちの中に、「あ・・・・あれは、たしかに、菱沼の市兵衛お頭のお盗めでござんす」
いいきる者がいても、市兵衛の顔を見たわけではない。
壁川の源内は、浪人あがりの盗賊で、血を見ることなど平気らしく、盗賊仲間でいう畜生ばたらきが多い。その源内が
上方から江戸へ下ってきて、「江戸で盗めをしたいから、ぜひ手引きをしてもらいたい」と市兵衛に連絡を取ってきた。
「源内のような畜生に、江戸を荒らされては、わしの名折れになる」 とばかり、市兵衛は手下を使って源内のうごきから
目をはなさなかった。
春の淡雪
全ての捕物が終わって三日目の昼前に、佐嶋忠介を居間へよび寄せた長谷川平蔵は、くつろいだ姿で脇息へよりかかり、
「いや、すっかり疲れてしまったわ。後はたのむ」
「このたびは、御苦労をおかけ申しました」
「いやなに、大島勇五郎のこおtがあったので、わしも気をつかいすぎた・・・・」 「ごもっともにて・・・・」
「内密じゃ。わかっていような?」 「はい」 「大島は、おのれが一人にて、盗賊どもの中へ入り込み、
いのちがけの探りをしていたことになっている」 「心得ておりまする」
「そうしておかぬと、この平蔵へ責任がおよぶゆえ、な」
この平蔵の言葉に、佐嶋与力は、ちょっと戸惑いをおぼえた。 (この御方のためならば・・・・)と、身命を賭して
いる佐嶋忠介にしてみれば、同心・大島勇五郎の罪跡を長官が闇から闇へほうむってしまおうとするのは、ひとえに
大島と、その遺族への哀れみの心があったからだと、おもっていた。
ところが、いま、長官は自分へ責任がおよぶことを、おそれているかのような言葉を洩らしたのである。
「大島の罪が公になれば、わしにも咎めがあろう。申すまでもなく、盗賊改方も免ぜられよう」 鬼の平蔵などと
盗賊度もが怖れ、世上の評判も高い現職を解任されることを、平蔵は危惧しているのであろうか・・・・
じっと身まもる佐嶋与力へ微笑を返し、平蔵は銀煙管へ煙草をつめながら、
「この御役目から解きはなしてくれたなら、どんなにか、のびやかな明け暮れになることか・・・・」 「・・・・」
「なれど・・・・」 いいさして、深いためいきを吐いた口へ銀煙管をもってゆきながら、
「なれど、凶悪なやつどもが蔓延する今の世に、この長谷川平蔵と、おぬしたちほどの盗賊改方が他に在ろうか。在るはずはない」
慢心ではない。 これは平蔵の自信であった。
「いまのわしは、若いころの罪ほろぼしをしているようなものじゃ」 つぶやくようにいった。
◆ 「本格の盗賊の三ヶ条の掟」というようなものが、実際にあったのかどうかは分からないが、博徒の任侠道などにも
似たような掟、或いは心意気があったのだろうと想像は出来る。
鬼平シリーズも終わりに近づき、単なる事件の羅列ではなく、同心たちの個人の話や平蔵自身の話が増えたようだ。