戦国名刀伝          東郷 隆著   文春文庫 2003            2007/01/13

 無類の刀好きだった秀吉は膨大な量の名刀を収集していたが、中に「にっかり」という不思議な名と由来をもつ 一腰があったーーー。古来、名刀は武器としてのみならず邪を祓い、身を守護すると信じられた。ゆえに、武将たちは 己の拝刀に強いこだわりを抱いた。知将、猛将と謳われた武人たちと名刀との不思議な縁を描く傑作短編集。

 この本には、・にっかり  ・すえひろがり  ・竹俣(たけのまた)  ・かたくり  ・このてがしわ
   ・伊達脛中(だてはばき)  ・石州大太刀  ・まつがおか
    の八腰の名刀伝が集められている。

  にっかり
 豊臣秀吉は武人としての誇りを持ち、在世の間その権勢を利用して、天下の名刀と呼ばれるもの十のうち八九までを 己が手中にしていた。
 秀吉没して後の慶長五年(1600)刀鑑定本阿弥家は、大阪城中の刀箱を調べて「名物」と呼ばれる刀の大箱七つ、百数十腰 まで確認したという。本阿弥三郎の名で内々、徳川家に提出された文書によると、
 ・骨喰  ・一期一振  ・こじり通  ・登り竜  ・義元左文字  ・にっかり青江
など不思議な名が並んでいる。

 「にっかり」と名づけられた刀は、鎌倉時代に青江貞次が鍛えた刀と言われ、
 「一説には、豊家、夜中大阪城内において刀の手入れの間、刃先が淡々と輝いて、にっかり と笑ったがため 恐れて手放したと申す」

  すえひろがり
 ♪わしとお前は奈良刀、 切っても切れぬ仲かいな♪
 と人は謡った。奈良刀は昔から鈍刀の代名詞である。辞書にも、『室町時代以来、奈良付近で大量に造られた粗悪な刀。 後に鈍刀にいう。奈良物』(広辞苑) と出ている。
 戦場では刀は手荒い扱いを受ける。水平に構えて肉を貫き、骨を割り、あげくは人が身にまとった鉄板に叩きつける。 とても斬るという行為ではなかった。
 江戸時代、越後高田松平家(一説には榊原家)では、『合戦において、刀は折れぬことこそ良けれ』、斬れ味は二の次である。 要は実用の道具ということなのだろう。
 「末備前」は室町の中期から末期にかけて、今の岡山県長船町周辺で鍛えられた刀を指す。これも奈良物と同じく 数打ちの大量生産であった。室町の後期、世が戦国と呼ばれるようになると、粗製刀の量産が開始され、備前長船即ち名刀という 観念もどこかに消し飛んでしまったようである。

 長船右京亮作の刀に「すえひろがり」という名前を付ける話。

  かたくり
 秀吉が越前を攻めたときの話。 春先の野に咲く花の名前を訊ねると直江山城守が
 「それは かたくり にござる」 当地では根を粉に挽いて水に晒し、食用にいたします、と答えた。
 「ほほう、これが堅香子(かたくり)か」 秀吉は、傍らの石田三成にも花を渡した。三成これを見て首をひねった。
 「万葉の古歌に花をうたったものは数多かれど、かたくりを織り込むもの僅かに一首。 大伴従三位(家持)が・・・」
 「越中守に任ぜられし頃に作りたる歌にござる」 山城守がすかさず言葉を引き取って、
 「『もののふの八十少女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花』」 と吟謡した。

  このてがしわ
 細川幽斎は足利将軍拝領の長刀を4寸ほど短くし磨き直させ、この刀に
 「兵部大輔藤孝磨上之異名号児手柏 天正二年三月十三日」 と刻ませた。
 「こういう歌がある」 幽斎は目を閉じて、歌を詠んだ。
   奈良山の 児手柏の 両面に
   かにもかくにも 侫人の友
 「児手柏は、常の柏と違う。餅を包む大きな葉にはあらず。幼き児の手に似た小さな葉である」

 ◆ 平安時代に武士が生まれ、同時に日本刀が生まれた。以来、刀鍛冶の系譜が生じ次々と名刀が作られてきた。
 名刀は伝説を生み、大切にされて来たが、今は散逸し、名刀であることも忘れ去られようとしているのは残念なことだ。