深尾くれない
宇江佐真理著 新潮文庫 2003 2007/4/17
鳥取藩士・深尾角馬は短躯ゆえの反骨心から剣の道に邁進してきた。いまでは藩の剣法指南役を勤め、
藩主の覚えもめでたき身。しかし姦通した新妻を、次いで後妻をも無残に切り捨てた角馬の狂気は周囲を脅かす。
やがて一人娘・ふきの不始末を知った時、果たして角馬の胸中に去来したものは・・・・・
紅牡丹を愛し、雖井蛙流を起こした剣客の凄絶な最期までを描き切った異色の長編時代小説。
星斬の章
■ 深尾角馬の父、河田理右衛門は備前国にいた頃から剣法をよくし、当時、山陽、山陰、九州一帯で盛んであった
丹石流のみならず、去水流、東軍流、ト伝流、神道流、新陰流、タイ捨流、岩流、戸田流と、様々な剣の流儀を学んだ。
理右衛門が生きた時代は戦国の気風が色濃く、家臣達は、いつ何どき戦に従軍するやも知れぬ緊張したものを抱えていた。
理右衛門が主として修行した丹石流は美濃の斉藤氏に属した武将、衣斐丹石が起こした介者剣法(甲冑をつけてする剣法)であった。
二尺ばかりの短刀を用いて、敵の脛を踏み折るほど激しく打ち込む剣法だった。
こういう父親に育てられた角馬が剣術の修行をするようになったのも自然のなりゆきであろうが、当時の理右衛門の
考え方は身体のさほど丈夫でない息子を鍛える意味が大いにあったと思われる。
角馬が元服を迎える頃は戦国の荒々しい気風もいつしか鳴りを鎮め、鎖国令が確立した日本は戦よりも飢饉に
あえぐ世の中になっていた。
父理右衛門の教えの許に一所懸命に剣術の修行をする角馬は藩主・大蔵殿の覚えもめでたかった。
角馬は理右衛門から家督を譲られるまで河田喜六という名であった。深尾角馬を名乗るようになったのは、恐らく
最初の妻を離縁してからのことだろう。しかし、深尾角馬という名にどのような曰くがあるのか、家臣の誰も知らなかった。それは
角馬自身の心の中にだけあったものかも知れない。
かのは角馬の後妻として迎えられた女だった。初婚のかのが角馬の許に嫁いだのは、かのの父、木村夫右衛門の
事情が大いに関係していた。
「かのの言う通り、わしは負けず嫌いな男よ。ただし、並みの負けず嫌いとは、ちいと違うぜよ」
「わしの号を知っとるか」 書物部屋には「井蛙」という額が飾られていた。
「井の中の蛙、大海を知らずという諺、かのも聞いたことがあるだろうが」
「はい。偉いお方の言葉ですなぁ」
「そうだ。大陸の荘子という文人の言葉よ。井戸の中の蛙は自分の周りしか知らん。簡単に言うたら世間知らず
ということだが」
「かの、男の子を産めよ」 「わしの跡継ぎじゃ。雖井蛙流を後世に伝えて貰うんだ」
「雖井蛙流?」 「そうじゃ。井の中の蛙といえども大海を知るべけんや、の雖よ。井蛙の上に雖の一字を置くが、
その一字は読まん。字面で解釈させるんだが」
■ 角馬は家の庭に牡丹を育てていた。
「わしの牡丹はそうそう枯れん。美しいだけじゃのうて、強い花に仕立てたつもりだ。まあ、仕立てる手間は
あれこれ要るがの。剣法の修行と同じだ。手を掛けるほどようなる」
「牡丹は旦那様が思いを寄せるお方の代わりじゃないかと考えておりましたけえ、剣法に通じるものとお聞きして、
初めて得心したような気ィがしますなあ」 かのがそう言うと、角馬は怪訝な眼を向けた。
「牡丹は、わしが思いを寄せるおなごの代わりだと?」
「ええ。花時の牡丹は、まるで美しいおなごが笑んだようではありませんか」
「いつか、お庭の前を通りかかった人が、これが噂の深尾紅じゃとおっしゃったのを聞いたことがあります。
旦那様、うちの牡丹は深尾紅と世間では呼ばれておるんですよ」
「そうか。わしの牡丹は深尾紅か。これは嬉しいなあ。そうじゃ、わしの牡丹はそんじょそこらの牡丹とは違うもんだし、
それはあながち、お世辞ではないだろう」 角馬は無邪気に相好を崩した。
■ 雖井蛙流平法
角馬は雖井蛙流平法を起こすにあたり、まず基本の組太刀五本を諸流から選んだ。これを「五乱太刀の分」という。
すなわち五乱太刀の分の「錫杖:は去水流の「流水の位」から取ったものであり、「稲妻」は東軍流の「微塵」から、「曲龍」は
神道流の「埋木」、「砧(キヌタ)」はト伝流の「一の太刀」、そして「高浪」は新陰流の「釣曲」から取り入れたものだった。
この中には皮肉なことに丹石流から取り入れた技はなかった。
その後に続く三曲太刀の分、小太刀十斬においても岩流の「女郎花」、柳生流の「水月の位」、戸田流の「鷲の切羽」、
新陰流の「一刀術」、念阿弥陀流の「北窓」、タイ捨流の「封手剣」、「香明剣」等が組み込まれていた。つまり
雖井蛙流を修めれば、剣法の技は事足りるという考え方であった。
雖井蛙流の組太刀の根本は「尺不足剣ならびに失刀五術」であるという。
尺不足剣とは一尺四寸より七寸五分に至る刀のことで、普通、刀とは二尺以上のものを指す。二尺以下は脇差となった。
雖井蛙流はこの脇差の長さの刀を主として遣い、また失刀とは無刀のことを言う。
■ 角馬が参勤交代で江戸に出た間に、かのは女児を産み、ふき と名づける。
剣法と牡丹に熱中し、自分を妻として遇しない角馬に不満を覚えたかのは、法印(修験者)となった幼なじみの瀬左衛門と
情を通じるようになる。
江戸から帰り、かのの不貞を知った角馬は、二人が会っている現場を押さえ、二人を斬り捨てる。
落露の章
■ 角馬が入門を許した弟子に最初にすることは血判誓詞を取ることと、切腹の作法の伝授であった。
死を見ること帰するが如き心こそ肝要、武とは戈を止めるという字を書く。剣はみだりに抜くべきものにあらずーー
角馬は新しい弟子達に剣法の精神を説いた。
角馬が熱心に切腹の作法を伝授する姿を見て、先生は遠い将来、ご自分が切腹するとでも思っておられるのだろうか、
と高弟の四方左衛門は不吉にも考えるのだった。
「本日、大蔵殿より在郷入りのお許しが適い、八東郡隼郡家に引き込むことと相なった」
「拙者は雖井蛙流平法のみならず、剣法そのものさえ捨てなければならない状況ゆえ、思い切って後の者にわが流儀を
託すことに致し、城下での暮らしもこれ切りと覚悟を決めた次第にござる。まことに残念無念のことであります」
八東郡隼郡家は角馬の知行地だった。知行というのも禄の一つである。一般の藩士は米で禄を貰っているが、
高級藩士は米の獲れる知行地を所有していて、角馬は馬廻の平士分であったが、父親の理右衛門の頃より鳥取藩の
剣法の発展に尽力してきたので、ある時から知行地を与えられていた。
■ 知行地での生活が始まった頃、ふきは二十歳になっていたが、適当な嫁入りの口はなかった。
村の祭りの日がきっかけで、ふきは村名主・清兵衛の次男・長右衛門と親しくなり、やがて父親の角馬も知る事となる。
「侍の娘を百姓の嫁にさせろとお前は言うんか」
「ふきの幸せを考えて、清兵衛に頭を下げろとお前は言うんか・・・・」
負けず嫌いの角馬が必死で頭を下げたのだが、清兵衛はその申し出を断った。
清兵衛は、あくまでも下手に出て話をしていたが、実は、この縁談は不承知であると、はっきりその顔に書いてあった。
暮らしが立ち行かずに在郷入りした貧乏侍の娘など、わが家の嫁に迎えることができん。しかも身持ちが堅い娘ならいざ知らず、
陽の目のある内から、男といちゃついてる娘など、先は知れたものだと。角馬には清兵衛の言外の言葉が聞こえていた。
ふきと長右衛門のことは、しばらく知らぬ振りをしておき、しかるべき機会に長右衛門を討ち捨てる。そう角馬は決心した。
角馬の知行地の百姓なれば、清兵衛の言によれば末の百姓なれば、娘との不義の理由で、慮外者として成敗するのだ。
それが、この一件で角馬が下した結論だった。
年貢の時期に、角馬は清兵衛、長右衛門などを討ち取る。
藩は事態を重く見て角馬に切腹を申し付けた。
◆ 角馬の前妻も同じように角馬の江戸出府中に下僕と通じ、角馬に斬り捨てられたという。
角馬には、妻を女として愛するということが出来ない性格的な欠陥があったのだろうか?