用心棒日月抄 @
藤沢周平著 新潮社 2002(1976〜1978小説新潮連載) 2006/8/25
北国の小藩に勤める家禄百石の下士・青江又八郎は、宿直で城中にいて、偶然にある密談を聞いた。
筆頭家老の大富が侍医村島宗順に、藩主壱岐守に用いているある種の毒の使用を増やすよう命じていた。
翌日、又八郎は婚約者由亀の父親でもある徒目付けの平沼喜佐衛門を訪ね、昨夜聞いた藩主毒殺の陰謀を打ち明けたが、
それでは大目付に言ってひそかに調べてみると約束した平沼が、帰り際に背後からいきなり又八郎に斬りかかり、反射的に、又八郎は
平沼を斬ってしまった。
又八郎はやむなく、ただちに出奔し江戸に来た。藩から大富の指示で刺客が来ることを覚悟していたし、由亀が父の敵討ちに
出てくることも考えられた。
−−だが、あのひとが来るまでは・・・ 死ぬわけにはいかん、と又八郎は思った。
江戸の長屋に住み込んだ又八郎は、糊口を凌ぐために口入れ屋の相模屋を訪れる・・・・
犬を飼う女
吉増が斡旋した先は、さる町人の妾宅で、仕事はそこで飼っている犬の用心棒である。いずれにしろ、ぱっとした
仕事とはいえない。だが、ぜいたくは言えないし、手頃な仕事の口などというものが、そうざらにあるわけではないとわかる。
一介の浪人にとって、見過ぎの途は意外と厳しいようだった。
雪駄問屋田倉屋のお妾おとよは二十ほどの目立つ女で、飼い犬のまるを盗もうとしたり、殺そうとしたりする者がいるという。
おとよの幼馴染の新吉(まるの元の飼い主)が一人前の矢師となり、おとよと所帯を持ちたいと近づいていたのだった。
・この頃、浅野内匠頭長矩が吉良上野介に殿中で斬りつけるという事件が起き、世間の評判となった。
娘が消えた
清水屋の娘おようが左内町の師匠に三味線と端唄を習いに通っているが、誰かしらに二、三度後をつけられたと
いうので、用心のために送り迎えをして欲しいというのが今度の仕事だった。娘は近々、高家吉良さまの屋敷に
方向に上がることになっているという。
又八郎が相模屋で知り合った用心棒浪人・細谷源三郎は、吉良家の隣にある蜂須賀家が浅野家の浪人の騒擾にそなえて、
屋敷の見回りを厳重にする仕事が見つかった喜んでいた。
ある日、稽古からの帰り道で又八郎は何者かが二人を窺っている気配を感じた。
だが、その直後に突然襲い掛かってきた者がいた。国元からの
刺客だった。かろうじて相手を倒したが、おようの姿が消えていた。
三味線の師匠からおようには喜八という恋人が居ると聞き出し、喜八の家を探るとそこに縛られた二人と盗賊がいた。
盗賊たちは寺の境内で逢引をしていた二人に、秘密の話を聞かれたと思い二人を殺そうとしていたのだった。
又八郎は危ういところで、盗賊たちを倒し二人を救出する。
夜鷹斬り
俗に柳原と呼ぶ神田川の川岸で、又八郎は、不意に呼ばれた。 −−ははあ、これが夜鷹と申す女か。
「遊んでやりたいが、生憎金の持ち合わせがない。勘弁してもらおう」
「待ってくだしあ、旦那」 女はすばやく又八郎にすり寄ってくると、腕にすがって囁いた。
「助けてくださいな。変な奴に追われているんです」
ひょんなことから又八郎は夜鷹のおさきの用心棒を引き受ける羽目になった。おさきは又八郎と同じ長屋に住んでいた。
おさきが夜中に又八郎の家に忍んできた。
「どういうつもりかの」
「前金を払おうと思ってきたの。夜のご飯だけじゃ申しわけないもの」
「志はうれしいが、その斟酌はいらなかったぞ。わしはそれほど欲張っておらん」
「旦那に、はじめて会ったときから、岡惚れしてたんです」 「それとも、夜鷹なんて抱くのはいやですか」
「・・・・」 「汚くないんです。あれから湯屋に行ってきましたから」
又八郎はおさきを抱き寄せた。可憐なことを言うものだ、と心をゆさぶられていた。おさきが強くしがみついてきた。
数日後、おさきを迎えに行く又八郎は、飲み屋で細谷に引き止められて予定よりも遅くなってしまったが、
おさきは何者かに斬られて死んでいた。
用心棒としての仕事が出来なかったと後悔した又八郎は、おさきの仲間の夜鷹たちに聞いて回り、たまたまおさきが
侍たちが話す「大石が・・」という言葉を聞いたと知る。 「大石」とは何者だ・・・
細谷が雇われているところは、吉良の勢力のようだったが、細谷はこのことが分かると、かつての国の者が浅野家に
拾われ、浪人していることを知っているので、彼らとは戦いたくないと思い始めていた。
おさきが立ち聞いた話の相手は細谷の雇われ浪人の一人と分かり、又八郎はその鳴海という男と戦い、倒す。
代稽古
又八郎は本所にある町道場で代稽古をつける仕事についた。やってみると道場の代稽古は、思ったとおり面白かった。
道場に通って来るのは、半分は町人で、あとは御家人の子弟とか、勤番の国侍だった。
道場主の長江は又八郎に代稽古を任せて、あまり道場に顔を見せることはなかったが、夜になると町人や武士、浪人などが
奥の部屋に集まることが多く、頼母子講の者だと長江は説明した。
(この道場は浅野家浪人の集合場所の一つだった)
道場を窺う不明の男が居た。 端唄の師匠だというおりんという女が道場の様子を聞きだそうと又八郎に近づいてきた。
密偵の男は、ある夕刻に、道場に来る講の男数人に暗殺された。
ある日、道場を閉める時刻に老武士が訪れ、他流試合を申し込んだ。一旦は断るが、立ち会うことにしたが、
この老武士は竹刀ではなく木刀での試合を望んだ。 国元からの討手だった。
吉良邸の前日
仕事を探して細谷と一緒に歩いていた時、頭巾姿の武士が突然襲いかかって来た。どうにか相手を倒して、頭巾を
剥いで見ると、国元で物頭を勤める曾部だった。物頭の曾部が、平藩士にすぎない又八郎を討ち果たしに来るというのは
異常だ。 −−国元に異変が起きている。 と、思い胸騒ぎがした。
相模屋の紹介で用心棒に入った所は吉良の屋敷だった。浅野の討ち入りに備えてのことだった。
長屋に住まわされ、飯はたっぷり喰わせたし、酒も三合までなら小者に頼めば買って来てくれる。
しかし、又八郎も細谷も内心では浅野の浪人たちと斬り結ぶのは気が進まなかった。
師走十二日の昼頃、元の同僚・土屋清之進が突然吉良屋敷に又八郎を訪れてきて、
一通の封書を手渡した。
裏を見ると、そこに由亀の署名があった。どういう事情か知らぬが、わが祖母と一緒に暮らしているが、二人とも
何者かに命を狙われている、と書かれていた。
手紙を届けるだけではなく、又八郎に帰国せよとの間宮中老の言葉を伝え、
「明後日、十四日の晩に、浅野浪人がここを襲う」「青江、すぐにもこの屋敷を出た方がいい」と告げた。
最後の用心棒
又八郎は国を目指していた。痩身の陰気な顔をした浪人者が、自分の後をつけてくるのに気づいていた。大富丹後派の
者が又八郎の旅立ちを知って、国元に入る前に屠るべき最後の刺客を放ってきたと見るべきだった。
又八郎の眼は、前を行く女のうしろ姿を見ていた。二十すぎの、身体つきにまだ若さを残す女だった。そして武家の
女だった。一瞥しただけだが、ややきつい顔だちながら美貌だったのが記憶に残った。
又八郎はその女が不意に道ばたにうずくまるのを見た。女は杖を投げ出し、地面に膝をつくと、胸を抱くようにして前にしゃがんだ。
「いかがなされたな、お女中」 又八郎は女の肩に手をのばしてそう言ったが、次の瞬間、はっとしたようにその手を
ひっこめた。だが、女の身体が、くるりと反転して伸び、斜め下から又八郎を襲った動きの方がはやかった。又八郎は
手首を浅く斬られた。
襲ってくるのは短剣だったが、その短剣に、軽視できないわざが秘められているのを又八郎は感じた。
−−この女も刺客か。
−−斬るしかない。 又八郎は腹を決めた。強敵だった。斬りに行くしかふせぐ手段のない相手だった。女は左腕を
額の前にあげ、短剣を右腰にひきつけている。又八郎の殺気を読み、斬らせて斬る意思を示したのである。
又八郎は踏み込んで斬りおろした。又八郎の切先を見事にはねあげて、女はそのまま又八郎の手もとに飛びこんできた。又八郎は
すり抜けざまに剣をふるった。肉を斬ったにぶい手ごたえがあった。女は斬られた左腕を押さえて、大きく後ろに跳んだ。
だが跳んだ勢いをのせて、そこで一回転するように転んだ。女は起き上がらなかった。
用心深く近づいた又八郎は、女の短剣が、深ぶかと腿のつけ根に突き刺さっているのを見た。「待て、手当てしてやる」
そう言ったとき、又八郎は背後から殺到する剣気を感じて、振りむきざま剣をふるった。
又八郎は刀を構えたまま、ゆっくりと膝を起こして立ち上がった。前に踏み出そうとした又八郎の動きを、男は手で止めるような
しぐさをした。
「まあ、待て」 「青江又八郎という男が、どれほど遣うか、試してみただけだ。いま斬り合うつもりはない」
おとこはにやりと笑って、大富静馬と名乗り、背を向けて去っていった。
又八郎は女の手当てをし、近くの百姓家に医者代を添えて預けた。女は佐知という名前を告げただけで何もしゃべらなかった。
家に帰り着いた又八郎は、さっそく間宮中老を訪れ、自分の聞いた陰謀を話した。
侍医の村島が捕らえられて白状し、家老の大富は罪を追及され、又八郎たちに上意討ちで殺され、一件は落着した。
馬廻り役の旧禄に復帰した又八郎は、自宅に戻り由亀の部屋をたずねた。
「武家の掟というものがある。このままなしくずしに、そなたと夫婦になるということは許されまい」
「家にもどれとおっしゃいますか」 由亀の美しく寝化粧をほどこした顔が、青ざめている。 「でも、もう帰る家はありませぬ。
ばばさまに呼ばれたとき、捨てて参りました」
「父は、息を引きとる間ぎわに、あなた様を頼れと申したのです」
「わるかった。ゆるせ」 又八郎は静かに由亀の身体を横たえ、顔をあげて行灯の灯を吹き消した。
◆ 家老の陰謀を立ち聞きし、許婚の父親を斬ってしまった青江又八郎が江戸に出奔し、国元からの討手を気にかけながら
糊口を凌ぐために用心棒稼業を始める。
世では浅野内匠頭の刃傷に端を発し、浅野浪士による吉良家への復讐が密かに企てられ、幕府内にも浅野、吉良のそれぞれに
味方しようとする動きが水面下で行われている。
国元の藩では当主が病死し、跡継ぎを巡って、家老派と中老派との勢力争いが又八郎の身辺にも及んでくる。
息もつかせぬ話の展開に、一気に読み進めさせる藤沢氏の筆力はたいしたものだ。忠臣蔵の逸話を裏から眺めながら鏤めるという
創り方も成功しているだろう。
無事帰藩を果たし、由亀とも結ばれた又八郎だったが、国への帰り道に出会った大富静馬なる怪しい剣士、
短剣をふるって襲ってきた謎の美女。佐知などが、次なる展開を予想させる終幕だった。
たまたま図書館でこの本を見つけ、シリーズを B→A→C→@ の順で読んだのだが、それほど違和感はなく読み終わることが出来た。
藤沢氏のほかの本をどんどん読んで行こうと改めて思っている。