密通
平岩弓枝著 角川文庫 1987 2006/4/27
平岩弓枝氏の短編集。
この本には、 ◆ 密通 ◆ おこう ◆ 居留地の女 ◆ 心中未遂
◆ 夕映え
◆ 江戸は夏 ◆ 露のなさけ ◆ 菊散る の八編(短編)が収められている。
密通
兄が国許を留守にした期間は一年近かった。その事の他に、綾足はそうした結果になる十日ばかり前の午後、
ちよという小間使に戯れている現場を嫂に見つかっていた。咄嗟に襖を閉め、廊下を遠ざかって行った嫂の、
せわしい息づかいを、その嫂と道ならぬ恋に落ちてからも綾足はよく思い出した。
(女などというものは野分の風のように頼りないものだ・・・・・)
不倫の事実が発覚して里方へ戻され、親類の者たちが寄ってたかって半ば強制的に自害させられた嫂に対しては
不思議なほど、痛みは覚えていなかった心が、妻を寝取られた兄を想う時、やり切れない気持ちになった。
津軽藩国家老という家柄を捨て、国許を出奔して以来、兄とは義絶同然行き来していない。
(嫂の体が俺をそそのかしたのだ。俺の罪ではない)
(嫂はおこうのような体つきの女だった)
それが綾足を絶えず落ち着かせなかった。男が惹かれる姿態なのである。体の表情が男を誘っている。
当人の意思とは別のものである。間違いを起こしやすい女の様に綾足には見える。
居留地の女
日本政府は、明治元年「鉄砲洲」に外人居留地を開くこととし、次いで東京市民に外人との交易をゆるした。
築地居留地は東京の中の異国情緒の町として、近代日本の未来への夢を育みながら、築地川と海のほとりに
ひっそりと繁盛した。
たてつけのよくない、江戸時代長屋そのままみたいな入り口の戸に、小さな貼り紙がしてあって、
「西洋せんたく、いたします」
細いきれいな女文字がそこだけ優雅に見える。その戸口から男の影が丸くなって、ためらいがちに入ってきた時、
丸山志津はなんとなく悪い予感がした。
「丸山志津さんはこちらだと聞いて来たのですが・・・・」
男は浦松幸吉といった。アメリカ船に乗りアメリカで仕事を覚えながら働き、八年ぶりに帰国し、結婚を約束していた
丸山志津を捜しているという。
「私、丸山志津です・・・・」 「違う。あんたじゃない」
本当の志津はイギリス人と結婚してイギリスへ渡ることになり、私は幸吉と結ばれる。
夕映え
婚礼まで、もう五日という頃になって、急に千佳はそわそわと落ち着かなくなった。
若い娘のように、嫁入りへの漠然とした不安とか恥ずかしさのせいではなく、なにか心のすみに大事なものを
忘れていて、それが想いだせないための苛立ちのようであった。
弟の甲太郎が中庭へ降りて、まっすぐ姉の居る廊下へ歩いてきた。
「今更になって、こんなことを言うのもなんだけれども・・・・姉さん、ひょっとして、嫁入りのこと、
気が進まないんじゃなかったのかい」
「気がすすまない・・・・」 鸚鵡かえしにきいて、千佳は弟を眺めた。
良心を失い、番頭を失って、ただ店のため、弟が一人前になるために、千佳の青春は燃焼されて行った。気丈で
しっかり者の姉ということで、沢田屋を支え、弟を支えているのが、千佳の生甲斐であった。
それを失ったとき、千佳の心の太陽は沈んだ。
清吉にめぐり合って、千佳は一度沈んだ太陽が必死になって残りの輝きを取り戻そうとするような、或る力を発見した。
「あの人の力になってみせる・・・・・あの人に、あたしが役に立つかも知れない・・・・」
菊散る
「濡れた髪の女でねえと、ふるい立たねえなんて、いけ好かねえ旦那だぜ」
客が帰って、おしんが身じまいを直していると、貞吉が舌打ちしながら二階へ上がってきた。
幸太の兄だから、女房のおしんにとっては義兄に当たるが、まじめ一方で酒も煙草も飲まない幸太が、
とにかく、十歳から大工の見習いとして堅気に働いているのに、貞吉のほうは三十近い年になっても、
なにをしているのか一向にわからない。
出来の悪い子ほど不憫がかかるというのか、母親のおくめも、どっちかというと、弟の幸太よりも、
貞吉の方が可愛くて、長男のいいなり次第で、全く逆らわない。
仮にも、次男の嫁のおしんを、貞吉が二階で客をとらせ、時には貞吉自身も、おしんを抱いているのを、
たしなめるどころか、むしろ、当たり前のような顔をしている。
「一度お前を抱いた男は、普通の女じゃ、物足りねぇっていってるぜ」
貞吉の言う意味がおしんにはわからなかった。自分の肉体の構造が、他の女とどう違うのか見当もつかない。ただ、男に
抱かれる数が増えて、おしんは自分の体が男を迎えることを決して嫌がらないのに気がついていた。
相手が幸太でなくても、一度抱かれてしまうと、体はどんな男にも燃えるだけ燃え悦べるだけ悦んでしまう。
その一瞬におしんを襲う恍惚は相手が誰であっても変わりはなかった。
■ 純愛とは違う男女の機微を女性の側から現わした読み応えのある短編集だ。