神隠し
藤沢周平著 青樹社 1982 2006/9/20
この本には、 ◆ 拐かし ◆ 昔の仲間 ◆ 疫病神 ◆ 告白 ◆ 三年目
◆ 鬼
◆ 桃の木の下で ◆ 小鶴 ◆ 夜の雷雨 ◆ 神隠し の十一の短編が収められている。
拐かし
「持ってきたか」 と男は言った。髭の剃りあとが青あおとして苦み走った男ぶりである。
拐かしをするような人間にはみえない。身体つきもがっしりした長身で、職人にしたら一人前以上の働きはありそうに見える。
だがこの男が娘のお高を拐かし、辰平から小金を捲きあげている。怠け者の無頼漢なのだ。名前は又次郎という。
「娘を傷ものにしたり、乱暴をすれば、私にも覚悟があります」
「おいおい。こわいことは言いっこなしだ」 又次郎は白い歯をみせて笑った。
「そんな心配はいらねえって言ったろ。俺は助平でも、乱暴者でもねえ。そういうやり方は俺の好みじゃねえのよ。虫ずが走る」
「ただし後をツケタリ、岡っ引に届けでたりしたら、殺す。こいつは前に言ったとおりだ」
「いや、今度はしくじった。とっつぁんは金がねえしよ。ちびりちびり頂いたところで、娘の食い扶持をひいたら、残るところ
なんざ、ありゃしねえ。早いとこ、連れて帰ってくんな」
意外な結末、拐かされたお高はけろりとしていた・・・・
告白
「お若、だいじょうぶかしらね」 お茶をすする手をふと止めて、おたみが善右衛門を見た。
「なんだね? だいじょうぶかとは」
「だって、何も知らないねんえでしょ?」
そう言って、おたみは少し顔を赤らめてうつむいた。お床入りということを思い出した顔つきだった。
なんだそんなことか、と善右衛門は言い、少しからかう口調になった。
「お前だって、来たときは何も知らなかったじゃないか」
ーーなに、心配することはないさ。 おたみだってそんなもんだった、と善右衛門は思った。
おたみは初夜の床で泣き出し、なんと言っても身体をひらかずに、花婿である善右衛門を途方にくれさせたのである。
鬼
サチは不器量である。並外れて不器量だといってよい。子供のときから、仲間に鬼っ子とはやされて泣いた。
髪はちぢれた赤毛で、鼻だけはちんまりとかわいいが、唇はそり返ったように大きい。円い眼をし、眉毛が黒々と
太く眼にかぶさっている。この円い眼に太い眉が迫っているあたりが、鬼を連想させるのである。
川で洗い物をしていたサチは、流れて来た川舟の中に、傷を負った若い武士を見つけた。
かなり体が弱っているようだった。武士に手を貸し、体をささえながら、サチはふと、傷ついた大きくておとなしい
動物を庇護しているよなな気がした。サチは両親にも内緒で武士をかくまうことにした。
「おら、みっともねえ顔ばしてるし」
「なに、そんなことはない。ぽちゃぽちゃして、かわいいむすめだ」 新三郎は励ますように言い、乳房を吸った。
サチの体を無数の火花が走り、その衝撃のためにサチはのけぞった。衝撃の中で、サチは幻のように、男に抱かれた、桃色の
肌をした女鬼を見た。
小鶴
神名吉左衛門の家の夫婦喧嘩は、かいわいの名物だった。
かいわいだけでなく、そのことは城中にも聞こえて、吉左衛門は上司の組頭兵頭弥兵衛に、数度したたかに
叱責されている。むろん武士の体面にもとるというわけである。
「恐れいりましてござる」 吉左衛門は神妙に詫びるが、組頭の叱責の効果はたかだか数日ぐらいしかもたず、またぞろ神名家
からは激烈な喧嘩の声が外まで洩れ、道行く人が立ちどまって聞き惚れているという始末だった。
ある日、吉左衛門は仕事で川を見回っていて、川を覗き込んでいた訳がありそうな若い娘を家に連れ帰る。
美しい娘は自分の名前(小鶴)だけを告げたがその他の事は忘れてしまったと言う。
吉左衛門夫婦には子供がなく、養子のなりてもなく困っていたのだが、美しい娘がいるとの話が広まるに連れて、
自薦他薦の養子・婿候補が現れることになった・・・・
神隠し
「親分、弥十です」 岸に蹲って、弥十は暗い舟に呼びかけた。舟の中に明かりがともり、しばらくして、
茣蓙が持ち上がって巳の助が顔を出した。
「どうした?」 「人が一人消えましてね」 「誰だい?」
「伊沢屋のおかみだそうで。もう二日も家に戻っていないようです」
巳の助が茣蓙を揚げ直したので、舟の中のなまめいた色と、女の白い足が見えた。
伊沢屋新兵衛の女房お品は後添えである。十六のときから深川の梅本で女中をしていたのを新兵衛が見初めて後妻にいれた。
三日たって、お品がひょっこりと家に帰って来た。何も覚えていなく、神隠しにでもあった様子だった。
お品は眼のあたりが少しくぼんだようにみえる。どこか淋しげな顔だちの底の方に女の色気のようなものが、
いきいきと動いている感じがした。血色もわるくない。
◆ 藤沢周平氏の作品の中でもかなり初期に属する作品集のようだ。
「三年目」という話は、本で6ページ(原稿用紙で15枚)という短い話だ。しかし、藤沢氏は後書きで、
「短いから書くのに楽かというと、そういうことはなく、むしろ逆かも知れない」と書いている。
小説、あるいは芸術といったものは、そういうものなのだろう。