隠し剣孤影抄
藤沢周平著 文春文庫 2004(1983) 2006/11/15
秘剣、外に語らずーー剣客小説に新境地を開いた名品集”隠し剣”シリーズ八編。
凶々しいばかりに研ぎ澄まされた剣技を秘める主人公たちは、また人としての弱さももあわせ持つ。
剣鬼と化し破牢した夫のため捨身の行動に出る人妻、これに翻弄される男を描く「隠し剣 鬼の爪」など。
この本には、 ◆ 邪剣竜尾返し ◆ 臆病剣松風 ◆ 暗殺剣虎ノ眼 ◆ 必死剣鳥刺し ◆ 隠し剣鬼ノ爪
◆ 女人剣さざ波 ◆ 悲運剣芦刈り ◆ 宿命剣鬼走り の八の短編が収められている。
邪剣竜尾返し
ーー来る。
じわりと赤沢の五体に力がみなぎるのが見えた。赤沢の剣先が動いたとき、絃之助は刀を下段に引いた。背を向ける。だが、そのとき、
足は次の一撃のために構えられているのだ。赤沢が何か叫んだ。一挙動で、絃之助は振りむきざま、赤沢の肩を深ぶかと
斬っていた。
驚愕した表情のまま、赤沢は刀を振るった。その剣先は絃之助の左腕にとどいたが、同時に赤沢の身体は突き飛ばされた
ように、枯れ草の上に転んだ。
「見たぞ、竜尾返し・・・・・」 首をもたげた赤沢が呻くように言うのを、絃之助はまだ刀を構えたまま、無表情に
見おろしていた。
「卑怯な、騙し技に過ぎん。汚い・・・・」
人々が駆け寄ってくる。絃之助は赤沢に近づいて地面に膝をつくと、すばやくとどめを刺した。誰にも、赤沢の言葉を聞かれてはならなかった。
竜尾返しは、流儀の基本にそむく異端の剣だった。不意に背を向けることで一瞬相手の剣気を殺ぎ、その虚をとらえて、瞬転して
必殺の一撃を振りおろす。邪剣と言えた。
暗殺剣虎ノ眼
「あのお方のなされたこと、つまり上意討ちだという確かな証拠がある」
「・・・・・」 「お闇討ちということがあるのをしっておるかの」
「・・・・・」 達之助は首を振った。はじめて耳にした言葉だった。
「藩の秘事だ。知っておる者は幾人もおらん。お闇討ちは・・・」 「・・・・」
「先代さまのとき二度、先々代さまのときに一度あったと伝えられている。藩主に私の憤りがつのり、耐え兼ねたときに
遣うと申す。表には出せぬが上意討ちじゃな」 「・・・・・」
「裏のことゆえ、討手は必ず闇夜に放つ。闇から闇に葬るのが特徴じゃ。あの夜は、わしも牧どのと前後して城を下がった
からしっておられるが、提灯の明かりも呑まれそうな暗い夜だった。あの夜、お上がお闇討ちの刺客を放ったことは、
まず間違いない」 「・・・・・」
「お闇討ちの剣客は虎ノ眼という秘剣を遣うそうじゃ」 「虎ノ眼?」
「闇夜ニ剣ヲ振ルウコト白昼ノ如シ という秘伝だと、まだ子供の頃に父から聞いた。」
必死剣鳥刺し
「兼見は天心独名流と申す剣の達人だそうだの」
「いや、達人というのはいささか」
「鳥刺しという秘伝があるそうではないか。必勝の技だと聞いたぞ」
「鳥刺し・・・・・」 三左衛門は、口に運びかけた盃をおいた。津田を見返した細い眼に、わずかに光が加わったようだった。
「いかにもござります。ただし流儀の秘伝ではなく、それがしが工夫をし、かりにそう名づけた剣でござります」
「なるほど納得がいった。その剣を遣う者は兼見三左衛門ひとりで、しかも今日まで誰も見たことがない、といわれておると聞いたのは
そういうわけか」
「鳥刺しという技は、別の名を必死剣と呼ぶそうだが、これはどういう意味かの?」
「絶体絶命のときにのみ使いますので、そのように名づけてあります。もっとも、それがしも工夫いたしましたままで、
そういう剣でござりますゆえ、実地に遣ったことはござりません」
「ほほう」 「思うにその剣を遣う者は、つまりそれがしですが、剣を遣うときは半ば死んでおりましょう」
隠し剣鬼ノ爪
その年。帰国した藩主右京太夫が、暑中稽古の成果を見るという名目で、三ノ丸の励武館で家中の剣術試合を見た。
そういうことは数年に一度あるかなしのことなので、市中道場で日ごろ腕を磨いている連中が、二十数人も集まって技を競った。
だが勝ち抜いて最後の決勝戦に残ったのは無外流の小野道場で同門の、狭間と宗蔵の二人だったのだ。そしてその試合は
宗蔵が勝った。狭間は藩公の前で行われたその試合のあと、師の小野冶兵衛や宗蔵がとめるのを振り切って、ほかの道場に
移っている。そして翌年の春江戸詰めになり、江戸に着くとまもなく事件を起こしている。
ーー狭間は誤解している。
宗蔵は無外流の免許を受けたとき、それとはべつに道場主の小野冶兵衛からある秘剣を授けられている。鬼ノ爪と呼ぶその秘剣は、
一人相伝で、小野も彼の師から受け継いだ。その頃の小野道場では、狭間がぬきん出た剣士で師範代を勤めていた。
ただ免許をうけたころから宗蔵の剣技は急速に伸び、しばしば狭間を打ち込むようになった。狭間は宗蔵の著しい進境を、
小野に伝えられた秘剣鬼ノ爪のせいだと思うようになった。それは狭間の自尊心を深く傷つけたようだった。
だが、事実は狭間の想像とは違っていたのである。秘剣は無外流の本筋とはかかわりのない、屋内闘争のための短刀術だった。
江戸で小姓頭に斬りつけた狭間弥市郎は郷入り処分となり、城下南方のとちヶ沢と呼ばれる僻村の座敷牢に閉じ込められていたが、
牢を破り外に出て、討手に宗蔵を指名してきたと言う。
宗蔵は藩の命令でとちヶ沢に出かけ、狭間と対決し、狭間を破る。
宗蔵は狭間との対決に「鬼ノ爪」を遣ったのではない。だが、事件の終わった後に上役が狭間の妻女の操を懸けての願いを無視したこと
を知り、この上役を「鬼ノ爪」で刺殺する。
女人剣さざ波
俊之助は千鶴という女の妹というだけの理由で、畑中家の次女との縁談に乗り気になった。俊之助は会わなかったが、
母の満尾が会って、帰るといい娘だったと満足気に言った。それで縁談はきまったのである。
だが、祝言を前に、仲人の家に二人で茶を招ばれ、はじめて邦江を見たとき、俊之助は突然に自分が間違いを犯した
ことを悟ったのである。つつましいが、醜貌と呼んでいいほど、見栄えのしない顔を持つ女が眼の前に坐っていた。その眼が、
汚れを知らずに澄んでいることに、俊之助は僅かに救われた思いをした。
浅見俊之助は家老の筒井兵左衛門の依頼を受け、遊所に出入りし探索を行った。探索は成功し、家老筒井と対立する本堂派を粛清することに成功するが、
本堂派の剣士・遠山左門から決闘を申し込まれた。俊之助は剣の腕にはまったく自信がなかった。
夫から決闘の話を聞いた邦江は、密かに遠山を訪れた。
「遠山の家内でございます」 遠山はそっけない口調で言った。「それで?」
「明日の果し合い、浅見にかわって私がお相手申し上げとうございます。ただし時刻は明日の明け七つ半(午前五時)」
「それは、また」 と、遠山は言った。 「何かわけがござるかな」
「浅見は剣術はいたって不馴れな者でございます。果し合いは形だけ。あなたさまのなぶり殺しに合うだけでござりましょう」
「するとなにか」 遠山は無表情に言った。 「そなたの方が剣が出来ると申すつもりかの」
「はばかりながら」
「ことわる」 遠山はぴしゃりと言った。 「女子を相手に果し合いは出来ん。それに浅見に果し合いを申し込んだのは、
ほかに理由がある。代役はおことわりだ。浅見にそう伝えてもらおう。
「夫は、私がここに参ったことを存じません」 邦江はそう言い、一歩遠山に近づいた。
「遠山さまは、西野鉄心が編んだ さざ波の秘剣のことは、お耳にしておられますか」
「聞いておる。だが誰も見た者はない」
「私が、その秘剣を伝えられました」 遠山はなに? と言った。はじめて表情を動かしていた。
「ご新造の名は?」 「邦江。もとは畑中の家の者でございます」
「噂に聞いた西野道場の女剣士に会えて、光栄だ。よろしい、さざ波の秘剣を、とくと拝見させて頂こう」
◆ 冒頭に紹介している『隠し剣鬼ノ爪』は山田洋二監督で2004年に映画化され、僕も映画館でこの作品を見た。
映画は面白かったが、原作とは話の細部で随分と脚色されているのだと分かった。
これは同じような藤沢周平ー山田洋二コンビの第一作『たそがれ清兵衛』にも言える事だった。
『隠し剣鬼ノ爪』の最後に出てくる きえに対する求婚の台詞。
【原作】 「いろいろ考えたが、きえを嫁にもらうのが一番いいようだ」
「旦那さま」 うつむいていたきえが、急に顔をあげた。きえはいまにも泣き出しそうな顔をしていた。
「私には、親の決めた人がおります」 「なんと」 宗蔵は絶句してきえの顔を見た。慌しくあのことがあった夜のことを思い出していた。
「なぜ、あのときにそのことを言わんのだ。わしのことなどはねつければよかった」
「はい」 きえは膝に手を置いてうつむいたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。 「でも、旦那さまが好きでしたから」
【映画化作品】 片桐 「俺の嫁さこなって、一緒に蝦夷へいってくれなべか」
きえ 「旦那はん、それは命令ですか」
片桐 「うんだ」
きえ 「命令だば、仕方ありましねだ」 (と頬を染める)
原作には、蝦夷へ行く話しなどこれっぽっちも出てこないのだが・・・