辻斬り
「剣客商売 ニ」 池波正太郎著 新潮文庫 H 14 2005/9/11

鬼熊酒場
その日。 秋山小兵衛は、妙なものを見た。
妙なものは、人間であった。 老爺は、本所・横網町にある居酒屋「鬼熊」の亭主で、名を熊五郎という。
年のころは、 「あのあやじ。わしより四つか五つは上だろうよ」 小兵衛は、そう見ていた。
繁盛はしないが、さりとて客足は絶えずに、もう十年余も店をやって来られたのは、
「酒がよくて、勘定が安くて。食うものがうまい」からだそうである。
客に愛想ひとついうでなし、気に入らぬ客なら一目見て、
「お前にのませるものは、水のひとしずくもねえよ」 と、熊五郎は剣突をくわせてしまう。
辻斬り
「父上。あれから、どうなりましたか?」 めずらしく大治郎が、興味津々といいった顔つきで、「どこの誰なのです?}
「さ、それがさ。おどろくではないか。幕府のお目付衆で千五百石の直参・永井十太夫の屋敷であったよ」
「では、永井家の・・・」 「あるじらしい」
「まさか・・・・?」 「永井十太夫は直心影の剣術が自慢で、六尺あまりの大男だそうな」
「すると・・・やはり、辻斬り・・・・」 「うむ。新たに手に入れた刀の、ためし斬りにでたのだろうよ」
「大身旗本ともあろう身が、辻斬り・・・」 「いまの世に、な」
老 虎
「無眼流、森川平九郎」 と森川が先ず名乗りをあげたのへ、うなずき返した相手が、割れ鐘のごとく怒鳴った。
「四天流、山本孫介!!」 名乗りなどというものではない。すでに真剣で切り合っているときの気合声であった。
(あ、・・・・こ、これが・・・・源太郎の父親か・・・・)
森川は脳天を、なにか見えざるものになぐりつけられたような気がした。
したが、名乗った以上は立ちあがらねばならぬ。 ふらりと立った森川の眼の中へ、らんらんと光る孫介老人の双眸が矢のように
飛び込んできた。
勝負は、一瞬の間に決した。
悪い虫
「ぜんぶで五両あります」 双六が、そういった。 いかにも、おもいきわめた体に見えた。
「これは、何だね?」
「こ、これだけしか、おれの持ち金はねえのです。この金で、おれに剣術を教えて
下せえ。おれの腕を強くして下せえ。たのンます、たのンます」
「「剣術の修行というものは、なまなかのものではないよ。十年かかっても・・・・さて、どうか、というところだ」
「じ、じゅ、十年・・・・」 さよう」
「と、とんでもねえ。じじょ、冗談ではねえ」 「なぜだね」
「十年なんて、そんな・・・おれは毎日、朝から晩まで、はたらきづめにはたらいて、やっとおふくろと二人、食っているんです」
「何の商売だね?」 「辻売りの鰻屋です」
辻売りの鰻屋というのは、道端へ畳二畳ほどの木の縁台を出し、その上で鰻を焼いて売る。
三冬の乳房
江戸城・山下御門前に店舗を張る小間物問屋「山崎屋卯兵衛」の寮は、三冬が住む和泉屋の寮と道をへだてて向かい合っている。
三冬が寮へ帰る途中、正体不明の三人の男に連れ去られようとしていた山崎屋の娘・お雪を助け出した。
「ああ、もう、あたくし・・・」 こらえかね、たまりかねたように、お雪が突然、三冬のひざの上へ突っ伏してしまった。
三冬は、自分を男と信じてうたがわず、ひたむきな恋情を燃やしはじめてきているお雪に、
当惑しているところであったが、
「さ、手を・・・」 微笑しつつ、お雪の手をとって、わがふところへみちびいた。
二十一歳になった佐々木三冬の、かたく張って、こんもりとふくらんだ乳房にふれたときの、お雪の驚愕は
どのようなものであったろうか・・・・。
妖怪・小雨坊
先ず、はじめに、その男を見たのは おはるであった。
おはるは青ざめて小兵衛にすがりつき、身ぶるいしながら、「先生。あ、ありゃあ、人じゃあない。化けものですよう」 と告げた。
『画図・百鬼夜行』、出版元は元飯田町中坂の遠州屋弥七。絵師は鳥山石燕である。
内容は、表題が示すがごとく、世に知られたさまざまな妖怪変化を絵にしたもので、天狗・河童・狸の類から、
「皿かぞえ」とか「天逆毎」とか「白粉婆」などという、めずらしい化けものまで出ている。
その『画図・百鬼夜行』の中に、「小雨坊」という妖怪の絵があった。 姿は僧形なのだが、顔はまさに化けものであって、
「小雨坊は、雨そぼふる夜、大みね、かつらぎの山中に徘徊して斎料を乞うとなん」 と書いてある。
「あの、小雨坊の絵にそっくり・・・」 だと、おはるはその男の容貌を小兵衛につたえた。
不二楼・蘭の間
如月の昼下がり、秋山小兵衛は離れ屋を出て、ぶらぶらと廊下をたどるうちに「蘭の間」という奥座敷の前へ出た。
この座敷は、井村某という絵師が蘭を襖に描いたことから名がつけられたのだそうである。
そして、この蘭の間は、かつて、不二楼の座敷女中・おもとが料理人の長次とあいびきをしていて、
客の悪だくみを盗み聞いた座敷である。 小兵衛はふらりと蘭の間に入り、襖の絵をながめた。
「それがさ、千両は間違いない。あたしは、そうにらんでいるけれど・・・」
女のふくみ声をうけた男が、 「ふうむ・・・」 唸ってから、しばらく沈黙があって、「そんな爺いなら、わけもねえ
ことだが・・・」
◆ 池波正太郎さんのこの小説には、食べ物の話がたくさん出てくる。
・酒のあとは「鴨飯」である。これは、おはるが得意な料理で、鴨の肉を卸し、脂皮を煎じ、その湯で飯を炊き、
鴨肉はこそげて叩き、酒と醤油で味をつけ、これを熱い飯にかけ、きざんだ芹をふりかけて出す。
・とどけてくれた蛤を豆腐や葱といっしょに今戸焼きの小鍋で煮ながら、小兵衛に食べさせようと、おはるは思った。
「ついでに、蛤飯を食べたい」 小兵衛がそういうので、おはるが仕度にかかった。
これは蛤を仕立てた汁で飯をたきあげ、引き上げておいた蛤を剥き身にして飯にまぜ入れ、食べる時はもみ海苔
をふりかける。これも小兵衛の大好物だ。
剣客商売を読み進めば、いっぱしの食通になりそうだ。レシピを参考に自分でも作ってみようと思う。