北夷の海
乾 浩著 新人物往来社 2002年

幕末に樺太を探検した間宮林蔵の物語。
文化5年(1808)4月、間宮林蔵は上役の松田伝十郎と共に樺太の探検に出かけようとしていた。
宗谷岬、柵内の浜であった。
「・・・松田様。樺太とはどんな所でしょうね。血が騒ぎますな・・・」
「うむ・・・樺太は、貴殿や拙者がいた択捉よりも、もっと難しい所かも知れぬな。赤蝦夷(ロシア人)や山丹人(黒龍江
下流域住民)どもの乱暴狼藉が頻繁に起こっているからな」
「はい。心得ております。しかし、丸腰での検分とは、少々、心もとのうございます」
「しかたあるまい。松前奉行 河尻肥後守様、村垣淡路守様のご命令なのだから・・・」
文化3年以来、ロシア艦船が北域に出没し、樺太や択捉島の漁場や会所を襲ったり、利尻島、礼文島に停泊していた
官船や北前舟を砲撃し焼き払う事件が起こっていた。鎖国政策をとる幕府に対して、ロシアは武力で威嚇することによって
通商を求めたが、幕閣の要人たちは、先例を変えず、水、薪、食料など与えて穏便に立ち去ってもらう融和策をとった。
樺太南部には蝦夷アイヌが住んでいるが、北部にはオロッコ人やギリアーク人が住み、その地は東鞭旦の一部と考えられ、
樺太が大陸から繋がる半島か、独立した島なのかは誰も知らなかった。また、北部樺太がどの国の支配にあるのか、
ロシア艦船がいったいどこからやって来るのかも分かっていなかった。
間宮林蔵たちの探検の目的の第1は「樺太が島であるかどうか」を見極めることであった。
探検隊はアイヌの平底船ポロチップに乗り、苦心の末ラッカ岬という黒龍江が対岸に見える場所まで行き着き、
樺太が大陸とは地続きではない事を確認して第1回の探検を終える。
しかし、樺太の北端を回り東海岸までを確認できなかった事が心残りとなった間宮林蔵は、翌年もう一度探検する事を
願い出て、許可を得て再出発する。彼はノテトの酋長コウニと仲良くなり、彼らが清国に朝貢している事を知る。
さらにコウニが入貢するのに同行し、大陸のデレンという町まで出かけ、そこで清国の役人と会った。帰りの旅も
苦難の連続であったが、無事北海道へ帰り着き間宮林蔵の業績は歴史に残る事となった。
間宮林蔵は百姓の子供だったが、真面目な性格を見込まれ、武家の養子となるが、身分の低い武士には
出世の望みもないため、それに飽き足らず蝦夷地での勤務を希望した。
彼は日本中を測地した伊能忠敬の手伝いをしたことがあり、測地法や測地器具を会得しており、
磁石や測地具を譲り受けていた。いわば、当時の最先端技術者だった。
面白い記述がある。彼が世話になったノテトでは当時「女尊男卑」だったらしい。男は女性の下に位置し
働く。女は犬の世話と身を飾るだけが仕事だったという。