役小角   第2部 【神の王国】   黒須紀一郎著    作品社2002   2004/2/02

   春めいてきたとはいえ、那ノ大津かわ渡ってくる風は厳しい。突堤に立っている中大兄(後の天智天皇) の視界から、百済へ向かう大船団が消え去ろうとしていた。
 2万7千の将兵を乗せた倭国の軍船は、唐と新羅に攻められている百済を救うための出陣だった。 661年7月、斉明天皇が崩御されたが中大兄は大王位を継がず、直接百済救済軍の指揮を取っていた。 663年8月、白村江の海戦で倭・百済の連合軍は唐・新羅軍に退廃し、百済は滅亡した。倭国も何万とも しれぬ戦死者を出し大敗した。

   大王位を継いで天智天皇となった中大兄のもとへ、半島から百済人が続々と亡命しやってきた。 天皇は彼らを優遇し、住む土地を与えたり、政府高官の地位を与えた。「日本書紀」によれば、 法務・文部・防衛・厚生・天文など国家の重要な部署に専門家として配置された。
 中大兄ら時の王族・貴族・高官たちと亡命百済人はどんな言葉で話を通じていたのであろうか。 著者は「百済語」だったと想像している、これは一般庶民の倭語とは異なる言語である。
 さらに戦勝国・唐の劉徳高、郭務宗という二人の将軍と衛兵部隊がやって来て、軍事顧問のような 役割を演じることになる。新羅が倭に侵略するのを防ぐためであった。

   弟王子(大海人皇子・後の天武天皇)は、中大兄皇子の異母弟と言われているが何か大きな 秘密があり日本書紀などの記述を鵜呑みには出来ないようだ。年齢も中大兄よりも上だという ふしもある。彼は天智天皇のもとで太子となるが、政権の中枢からは離れた場所で様子をうかがって いた。
 弟王子は密かに新羅と気脈を通じ、天智天皇の百済よりの政権を覆そうとしていた。
 小角は賀茂の民や山の民を指導しながら、弟王子とも連絡を取り大きな戦の準備を進めた。

 天智十年、病床の天皇が「私の病は重いので後事をお前に任せたい」といったのに対して、 大海人皇子は「どうか大業は大后にお授け下さい。そして大友皇子に諸政を行わせてください。 私は天皇のために出家して仏道修行をしたいと思います」と王位を固辞し、吉野に篭った。  これを聞いたある人は「虎に翼をつけて放つようなものだ」といったという。
 この後天智天皇は崩御し、弘文天皇(大友皇子)が即位した。

   672年(天武元年)、壬申の乱が起こる。大海人皇子軍と弘文天皇軍との戦いである。裏には 天智以来の百済勢力と大海人皇子に味方する新羅勢力があった。大海人皇子は三重、東海さらに 西の方は吉備(岡山)を押さえ、圧倒的な強さで弘文天皇を追い詰め自縊させた。
 大海人皇子に協力した小角たちは自分たちの祖先神を復活させることが出来、隷属の身から 解き放たれた。小角の夢見た民人救済、神の王国が実現したのだ
 686年天武天皇は病で亡くなった。一月後、大津皇子が謀反の罪で捕らえられ死罪となる。
  ◆ 家にあれば けに盛る飯を 草枕 旅にしあれば しいの葉に盛る
 皇位は天武の后・鵜野が継ぎ持統天皇となる。ここから藤原不比等が活躍を始め、親新羅戦略を 変更し唐へ接近を始める。小角は罪を問われ伊豆に遠流となる。
 役小角の没年は大宝元年(801年)とされている。68歳であった。

   ■ この第2部では、大和朝廷と朝鮮半島、さらに唐の情勢が詳しく語られる。
記紀によれば、天智天皇・中大兄と天武天皇・大海人皇子とは異母兄弟ということになっているが、 壬申の乱による政権交代は単なる兄弟げんかの枠をはるかに超えたものである。
 物語の主人公が役小角であるから、ここでは天武天皇よりの記述、中大兄は悪者?的な表現が多い。 天武・持統から始まる王朝は奈良時代の中心であり、万葉集にも多くの秀歌を残しているが、 光仁・桓武天皇から始まる平安時代へ移るまでの8代の天皇は、皇室に伝わる歴代天皇名から 外されているという信じられないような説もある。
 時代背景、半島の情勢分析に多くのページが費やされた結果、役小角の活躍の度合いが 薄くなって少し期待を裏切られたという読後感だった。