幻奇行 (中村春吉秘境探検記)  横田順弥著    徳間書店1990   2003/5/5

 この本は明治時代を舞台としたSF小説である。
 面白いのは主人公の【中村春吉】が実在の人物であること。
 明治(末期)の時代ということを考えると、中村春吉の実際の行動もまるでSF的であるが、 著者の横田さんは中村春吉の事跡を調べた上で、あえてSF小説として空想上の探検記を書かれたようだ。 中村春吉はこんな探検もしたかったのではないか、という想いだろうか。

 この本には、4つの短編が収められている。
 ◆ 聖樹怪   ◆ 奇窟魔   ◆ 流砂鬼   ◆ 麗悲妖

 中村春吉のことを書いたホームページを見つけたので、ここから現実の中村春吉を紹介しよう。

【 独学で武芸を習得】
   中村春吉は明治5(1872)年に豊町の御手洗(みたらい)に生まれた。
 父親が西南戦争の際に西郷隆盛(さいごうたかもり)側について敗れたため、学校にも行けず、 少年時代から各地を転々とし、独学で各種武芸を習得したという。
 当時から放浪癖があったようで、 わずか12歳で朝鮮半島への無銭旅行を試み「死ね目に遭った事もある」と本人は語っている。

   春吉はその後も何回か海外渡航を試み明治26(1893)年から数年間はハワイに移住。
帰国後は各地を渡り歩き、通訳や翻訳の仕事をしていたというが、突然自転車で世界一周無銭旅行をすることを思い立つ。

【自転車で世界を無銭旅行】
   旅行の目的は海外貿易振興に向けての視察だというが、世界を何でも見てやろう という好奇心からだというのが本当のところだろう。ただ歩くのだけでは面白くないので、 自転車を使うことにした。
 明治34(1901)年に出発し、中国、東南アジア、インド、中近東、ヨーロッパ、アメリカ を一年半で巡るが、その旅たるや小説顔負けの奇談・冒険談の連続である。

 狼(おおかみ)の大群に襲われるが高野豆腐の油で作った手製火炎弾で難を逃れたり、 抵抗するハイエナの口を糸で縫いつけたり、黒豹(くろひょう)と素手で戦ったり、トルコで スパイと間違えられ死刑にされそうになったりと、「バンカラ」ここに極まれりの大活躍ぶり。

   SFの元祖とされる押川春浪(おしかわしゅんろう)がその冒険話を『中村春吉世界無銭旅行』 という本にまとめ、「春吉は日本のドンキホーテ」として一躍人気者となった。
 彼はバンカラなだけでなくかなりの趣味人で八雲琴を弾き語り、ビリヤードもなかなかの 腕前だったという。
   無銭旅行のヒーローとして一時はスターとなった春吉だが、後半生は一転して霊能力者 として活躍した。心臓マッサージ「霊動法」の普及に努め、野口英世(のぐちひでよ)の前でも 実験を行い高い評価を得ている。
 日清・日露戦争から第2次世界大戦に至る、激動の時代を生きた人間ならではの振幅の 大きな人生だったといえるだろう。

● 参考資料=横田順彌(よこたじゅんや)『明治バンカラ快人伝』(光風社)/横田順彌『明治不可思議堂』(筑摩書房)



   中村春吉は「五賃将軍」とも呼ばれた。
 五賃とは汽車賃、船賃、宿賃、家賃、地賃(地代) のことで、春吉はこれなしで海外旅行をやり遂げたのだ。
 写真は明治38(1905)年頃に金鉱探しのため韓国を旅行した時のもの。


 ◆ 小説の文中に、娼婦のことを「醜業婦」と表現してある。明治の感覚はこの字のようだったのか?