踊る一遍上人       亀井 宏著   東洋経済新聞社刊   1997      (2003/7/26)

 一遍智眞という人は、鎌倉時代に生き、長い間学んだ浄土教の教理を捨て、ついにはいなかのおばさん の迷信の世界にかえっていった宗教家である。
 おなじ浄土教出身者で、やや先輩にあたる親鸞は、「天神地祇を崇めるな」といい、民間信仰 の対象である道端の地蔵や山の神、地主神などの古い神々を迷信だとして、ことごとく否定し去った。

 この本は特異な宗教家・一遍上人の生涯と、彼の心の奇跡を出来るだけ忠実に再現しようとしたものだ。

 一遍智眞は伊予(四国)の古代からの豪族・河野氏の血筋であった。13歳のとき父の意向で仏門に入り 13年間浄土教の学問を修するが、父の死で所領を受け継ぐために還俗し、妻を娶り娘をもった。
 当時の地侍は戦のない平穏なときは農業に従事していたが、智眞は農業の技をもたず、農業に精を出す ということが出来なかった。
 「学問は、ややもすると人間をダメにする」。
 「自分が何かエラくなったような錯覚に陥り、他人を理由もなく見下げるようになる」
というのである。
 「自分は釈尊にかえりたいのだ」とも智眞はいった。

 益躬が見抜いたとおり、出家の心をまだ完全に捨て切れないでいないのである。それが証拠に 、いまだに頭を丸めたままであり、毎日勤行を取り行っている。

 しかし、そのようなぬるま湯に浸ったような日常生活が仏教の修行なのか、という内心の叱咤の 声が、常に自分の耳朶を打つ。智眞は、そのような屈折した気持ちを抱いて日を送っていた。

 そもそも、釈尊(釈迦)が生きておられる時代には、煩悩から解き放たれて自在の境地にいたるという 形而上学(哲学)と、その解脱のための戒律と行の実施があるのみで、この地上に仏像などというものは 存在しなかった。

 浄土真宗の開祖とされる親鸞は、「臨終まつことなく、来迎たのむことなし」といい、従来の浄土教の売り物 であった臨終の際に阿弥陀仏が迎えに来るという来迎説をキッパリ否定した。
 仏にしろ極楽にしろ。外在するのではなく、それぞれ人間の心中にあるとした。心の中の問題であるが、 しかし、あくまで自力を排し、他力本願ー仏の意思にまかせるーでなければならないというところに、 彼の思想の難解さがあるように思われる。

 そうやって、死後の世界を否定する以上、親鸞の目は、どうしても現実の生を見据える以外にはない。
 仏教とは一口に言って、人生の応援歌のようなところがある。

 ある事件をきっかけに智眞は発心する。30歳を過ぎていたころだった。

 「この世にあるものは、海や山がそうであるように、善も悪もすべてあるがままに、正しいのだ。 理(学問)のほうがまちがっている。わしにもやっと、ちか頃になって、そのことが見えてきた」
 「畢竟、このわしは、この現実に生きていく資格を持たないのだ。わしは、再出家しようと思う」
 「なんと」「わぬし、逃げるのか」益躬は問い詰めた。
 「真実愛するものと決別して、未練を断たなければ、わしの志は成就せぬ」

 智眞は石鎚山の岩屋寺で厳しい修行を始める。
 〈よろず生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、仏ならずというふことなし〉 −−『一遍上人語録』

 修行を終わった智眞は
 「私の余生も後どれくらい残されているか、心許ないものがある。ここらで自分のことは捨て、今後は 衆生済度(民衆を救う)に心を砕きたいと思っている」
 家領を弟にゆだね、智眞は16年間におよぶ遊行・漂泊の旅に出る。彼は、
 【南無阿弥陀仏 決定往生六十万人】 と書いた札を「信・不信をえらばず、浄・不浄をえらばず」 くばること(賦算活動)を目的としていた。(実際に生涯にわたって何百万枚も配ったという)
 賦算の意味はーーホトケを、信じても信じなくても、衆生はすでに救われているーーという意味だ。

 智眞は【一遍】を名乗るようになる。
 「南無阿弥陀仏をいっぺん(一回)だけ唱えれば、仏に救われる」という意味だ。
 やがて多くの賛同者が現れ、「踊念仏という珍しい行為を行う男女僧の混成集団(時衆)」となり 全国を遊行し、多くの庶民の人気者となった。

 一遍はやがて病に倒れ、兵庫県で死ぬ。享年51歳。
 −私の死体は野に捨てよーが遺言であったという。

◆ どうやらーー他の動物とおなじように、人間にとって食うことが何より先決であり、宗教をはじめとする ほかの事柄は余分であるーーというのが、一遍がゆきついた究極の考え方であるらしい。
 宗教の教理や教学というものは、それがいかに精緻にできていようが、しょせんはつくりごとにすぎず、 人間にとって、それほど大したものではないのではないか。それを必要とする人間には貴重なもの かもしれないが、必要としない者にはがんらい何の価値もないものなのではないか。

 一遍が長く苦しい模索の果てにたどりついたのは、「地獄・極楽とは、あくまで自分の心の中の問題である」 という結論であった。
 (著者のあとがきより)

■ この時代(鎌倉期)は、ちょうど元寇が起きた時期で、奈良・平安時代とは違う民衆済度の宗教の勃興期。 親鸞や日蓮といった人たちの考え方が比較論として挙げられ、大変勉強になった。