弓削道鏡(上)
黒岩重吾著 文芸春秋社 1992

弓削道鏡といえば奈良時代、称徳天皇(女帝、孝謙天皇の重祚)に取り入りその愛人となり、
ついには自らが天皇になろうとした怪僧であり、巨根の持ち主でもあったという俗説が有名だ。
(ロシアの怪僧ラスプーチンと似ている?)。江戸時代の川柳に、
道鏡は座ると膝が三つ出来
道鏡に根まで入れろと詔(みことのり)
道鏡に崩御崩御と称徳言い などが謳われている。
『逆説の日本史』(井沢元彦著)によれば、この俗説はとんでもない間違いだという。本当はどうなんだろう?
という気持ちで、黒岩重吾氏のこの本を読むことにした。
弓削道鏡は生駒山の南、弓削郷の村長の長男として生まれた。弓削氏は物部氏の傍流であり、
物部氏が蘇我氏との戦いに敗れて以来、日の当たらぬ生活を余儀なくされていた。
道鏡は氏寺の岡寺の円源法師から学問を学んでいたが、彼から
「おぬしには常人にない相がある。その相は瑞光を放っておる。天の光がおぬしの顔に
あるのじゃ、法師になれ。必ず誰もが得なかったような位を掴むであろう。」と言われる。
道鏡は義淵僧正の弟子となり、さらに良弁和尚、さらに唐より戻った玄ム和尚の弟子となり修行を続ける。
天平九〜十年、奈良の都に疫病(天然痘)が猛威を振るい、藤原不比等の子の四兄弟も次々と病に倒れるという
事態になった。この頃道鏡は街に出て病の庶民を法力で癒すことに全力をあげた。
玄ム僧正とともに吉備真備の家に招かれた道鏡は、そこで偶然、安倍皇太子(後の孝謙女帝)と会い
その類まれな美しさに魅せられる。道鏡の眼が眩んだのは皇太子が纏っている衣ではなく、
黒眼が異様に大きい色白の顔だった。肌が内側から光っているように艶やかで頬が豊かである。
当時の流行で眉の左右両端を太くしているが高い鼻に良く似合っていた。
ある時、玄ム僧正はこう言った。
「道鏡法師も修行ばかりしておらず、時には女人と媾合う必要もある。媾合は固くなり過ぎている
精神をほぐす、これだけは覚えておけ、女人と媾合ったからといって念力が落ちるようでは、
まだまだ修行が足りぬぞ、それに媾合って、それに溺れるようなら修行する資格はない、
媾合も修行の一つだ、無理な修行から最高の力を出すことは出来ぬ、有にして無、無にして有、
これが無為自然じゃ」
天平勝宝元年(749年)、聖武天皇は阿倍皇太子に天皇位を譲り、阿倍皇太子は孝謙天皇となった。
(孝謙天皇32歳、道鏡39歳の時であった)
天平勝宝四年、奈良大仏の開眼会が盛大に行われ、道鏡も末席に連なった。
天平宝字四年(760年)、道鏡は良弁大僧都の推薦で看病禅師として内道場に入った。
これは天皇(やその周りの女官)の病を法力で治す役目である。このとき道鏡50歳であった。