陋巷に在り (1)〜(9) 酒見 賢一著  新潮社

 書店でたまたま見つけて読み始めた本だが、とっても面白いので紹介する。
 「孔子」とその弟子「顔回」を中心とする物語である。但し、論語を主体とする堅苦しい、道徳的・教育的な 解説ではなく、艶めかしい美女、可憐な少女や怪しい妖術を使う怪人物の出てくる物語。

 孔子には、たくさんの優秀な弟子がいたが、その中でも孔子の思想を一番良く理解 したのが「顔回」であったらしい。但し彼は若くして夭折し孔子を悲しませた。

   『子曰、語之而不楕者、其囘也興』(先生は言われた「話をしてやって、それに怠らないのは、まあ回だね。」)
 『子謂顔淵曰、惜乎、吾見其進也、未見其止也』(先生が顔淵のことをこう言われた、「惜しいことだ。[、彼の死は]。 わたしは、彼が進むのは見たが、止まるのは見たことがない。」)(論語 岩波文庫)

 古代中国の都は一種の城郭都市の形で、都・町全体を城壁(土塀)で囲い、その中に宮殿、官僚・武人の住む場所、 商人や職人の住む場所、そして貧しい庶民の住む場所などと分かれていた。孔子のいた魯の都で、孔子自身は宮殿に 近い高級な場所にいたが、弟子「顔回」はどういうわけか庶民の住む陋巷(ろうこう)に住み、★孔子の居る塾★に通った

 本書は1。儒の巻 2。呪の巻 3。媚の巻 4。徒の巻 5。妨の巻 6。劇の巻 7。医の巻 8。冥の巻  9。眩の巻 とあり、さらに続きが現在も小説新潮に連載中という大長編物語である。

 「顔回」という弟子について次のような記述がある。

 顔回を前にすると、自分の考えや知識、何を学べばよいかなどを、うずうずと伝えたくなり、顔回が怠けていたり 間違っていたりすると、そんなことは滅多にないことながら、必要以上に叱りつけたくなる。しかも教え甲斐のあることには、顔回は それらを乾いた砂のように吸収して、独りで実践にまで漕ぎ着けてしまうのである。これほど教授する心を動かす男 も希であろう。

 さらに顔回は「一を聞いて以て十を知る」と言われた超能力じみた理解力を持っている。並の教師であれば、短期間 で顔回に教えることが無くなってしまい、顔回の学力に抜かれてしまうことになる。その点、孔子の教えは無尽蔵で あったと言えるであろう。孔子の教えることは知識だけでなく、百般に及び汲めども尽きぬものがある。顔回の 好学をもってしても、まだまだ孔子の大鉱脈は堀尽くすどころではなかった。

「仁」についての記述はこうだ。

 【仁】は(広辞苑によれば)「@孔子の教えを一貫している政治上、倫理上の思想。博愛をその内容とし、 一切の諸徳を統べる主徳。天道が発現して仁となり、これを実践すると、人事・万物すべて調和・発展 すると説く」となっている。また仁とは人間と人間との関係を中心にあるべき徳である。相手への配慮、 思いやる心、助け合う気持ち、信義を守る意志など対人関係の真心をあらわす。仁という用語は孔子と 共に発展してこのようになったと思われる。孔子の没後から右のような意義を持つ「仁」が用語的に 定着していった。

 しかし、孔子以前の仁の初義については諸説がある。その中にこういうものがある。 仁は巫(ふ)儒たちの取る態度を表す語だという。巫儒は神降ろしや仙ト(せんぼく)を行って、鬼や霊の言葉を述べる。 その際に周囲にいる者に対して迎合する意識は少しはあったろう。例えば、天意を占うそばに王がいたとする。 占いに出た事を直言すればいい。しかし、王に気に入られるよう、王の気分を害せぬよう、王の期待から離れた 事を述べてあまりに失望させないよう、述べる言葉が機嫌取りや媚びの為に少しばかり追従迎合性を帯びること もあったろう。そこでそういう他人の意を推し測り機嫌を取ることをさして「仁」とした。

その仁は相手への気配り心遣い、更に進んで愛にまで発展する可能性がある反面、単なる阿諛(あゆ)追従(ついしょう)に堕してゆく ものであった。また佞(ねい)は仁に女がついた形であり、男の不正直者が仁なら女の不正直者が佞であるとする 解き方もできる。佞は口先上手で不実な追従として今は使われている。仁もまたそのような意味ではなかったか というのである。

 孔子以降の仁はプラスイメージでしか使われない。しかし、孔子以前まではマイナスにも使われた可能性 もある。右の解釈をとれば、「仁人」は「佞者」と同じ意味となる。

孔子の政治に対する理想はこうだ。

 これまでもそうであった。孔子に迷いや弱気、惰気が起きようとすると、夢に周公旦が現れてそれらを一掃してくれた。 これで孔子は救われる。周公の夢像は深いところから来て孔子を照らす。
 (そうだ。思い患う必要はない。これはわたしに与えられた仕事なのだ)
 孔子は起き支度を始める。外はすっかり明るくなっており、秋野いい朝である。

 孔子は若年の頃よりしばしば周公の夢を見たという。それを孔子は隠さなかった。
 周公とは、いうまでもなく周建国の功臣にして、武王発の実弟である周公旦のことである。
 孔子にとり、周公旦は建国補佐の重要人物にとどまらない。周公旦は文明の創始者にして礼教の守護者、大成者 である。夏朝にも殷朝にも文明はあったということは知っているが、周公旦の創始した文明こそが本物の最高の文明、 斯文、なのである。(中略)
 周公旦はいつしか孔子の心の師として最大の人物と化している。孔子は周公の道をひろく行うことが、 春秋末期の現実社会の様々な問題を解決する最良の方法と確信していたふしがある。


人は歩き方にも器量が表れる。

 医睨
(ゲイ:正しくは鳥偏の字)の経験では、観相のレベルで視て、その持って生まれた器、器量がある程度まで 分かると思っている。
 (この男、この若さで万事疎漏のない歩き方をする。病むことなく、偏りなく、足は地を敬し、かえって地から 祝される。まずは立派なものだ。)
 もとより医睨は顔回が顔儒の中でも殊に秀でた者であり、尋常の者ではないことを知ってはいた。
 (ただし歩みの細いのが気にかかる。歩みに攻めが無さ過ぎる。陰歩というべきか)
とその欠けるところも見抜いた。

 体術呪術の修行研究を事とする方士、道士が平生貴ぶ歩き方は「虎の如く」である。虎行は堂々として遅疑逡巡 のない歩き方で、一歩一歩に力強さがある。学問にも武芸にも政治にも通じる歩法である。もう一つ貴ばれる歩き方に 「鶴の如く」というのがあるが、鶴行は達人、真人、仙人の歩行であり、生まれながらの仙骨無き者には不可能で ある歩法とされる。

 ーー続くーー