李陵・ 山月記      中島 敦著   新潮文庫


 中島敦は、幼時よりの漢学の教養と広範な読書から得た独自な近代的憂愁を加味して、知識人の宿命、 孤独を唱えた作家で、34歳で没した。
 彼の不幸な作家生活は太平洋戦争のさなかに重なり、疑惑と恐怖に陥った自我は、古伝説や歴史に人間関係 の諸相を物語化しつつ、異常な緊張感をもって芸術の高貴性を現出させた。  (裏表紙解説より)

 この本には4つの物語(短編)が収録されている。

  山月記
   中国・唐の玄宗皇帝の時代の詩人、李徴の話。若くして試験を通り役人となるが、自信家で賤吏に 甘んずるを潔しとせず、官を退き故郷に戻り、人と交わりを絶ち、ひたすら詩作に耽った。
   数年の後、貧窮に堪えず再び地方官吏の職を奉ずる。1年の後、公用で旅にでた際、ある夜半、急に 顔色を変えて寝床から起き上がると、何か訳の分からぬことを叫びつつそのまま下に飛び下りて、闇の中へ 駆け出した。彼は二度と戻ってこなかった。

   翌年、観察御史のエンサン(李徴の古くからの友人)がこの地に泊まり翌朝出立しようとすると、駅吏が 「これから先の道に人食い虎が出る故、旅人は白昼でないと通れない。今はまだ朝早いから,いま少し待たれたが宜しいでしょう」という。 しかし、供廻りも多勢だからと駅吏の言葉を斥けて出発したところ、残月の光の中、果たして1匹の猛虎が躍りでた。
   虎はあわやエンサンに躍りかかると見えたが、忽ち身を翻して元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」 と繰り返し呟くのが聞こえた。

  名人伝
   趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第1の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と他の頼むべき人物を物色する に、当今弓矢をとっては、名手・飛衛に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。 紀昌ははるばる飛衛をたずねてその門に入った。

   飛衛は新人の門人に奇妙な修行を命じた。
    1)先ず、瞬きせざることを学べ
       紀昌は2年修行し、不意に火の粉が目に飛び入ろうとも、決して目をパチつかせなくなった。
    2)次に、視ることを学べ。小を視ること大の如く、微を見ること著の如くなるようにと。
       3年の修行の後、虱が馬のように見えるようになった。
   紀昌がこれを報告すると、「でかしたぞ」と褒め、直ちに射術の奥義秘伝を授け始め、紀昌の腕はみるみる上達した。

   この後、更に上達を目指す紀昌は甘縄老師という名人をたずねる。探し当てた甘縄師は紀昌の腕前を見て
   「一通り出来るようじゃな、だが、それは所詮射之射というもの。好漢未だ不射之射を知らぬと見える」と。

  弟子
   孔子の弟子、仲由 字は子路の物語。

   子路と孔子の初対面。
     「汝、何をか好む?」と孔子が聞く。
     「我、長剣を好む」と青年(子路)は昂然として言い放つ。
   再び孔子が聞く。
     「学は則ち如何?」
     「学、あに、益あらんや」 子路は勢い込んで怒鳴るように答える。 (中略)

   子路は反論する。「南山の竹はためずして自ら直く、斬ってこれを用うれば犀角の厚きをも通すと聞いている。して見れば、 天性優れたる者にとって、何の学ぶ必要があろうか?」と。
   孔子はあわてずこう返す。
    「汝のいう南山の竹に矢の羽をつけ、鏃(やじり)を付けてこれを磨いたならば、ただに犀角を通すのみではあるまいに」と。

   子路は頭をたれて「謹んで教えを受けん」と降参した。

  李陵
   漢の武帝の頃の武人・李陵の話。
   李陵は帝の命令で北伐(匈奴を成敗する戦)に出るが、多勢に無勢のため戦に破れ匈奴に捕らえられてしまう。匈奴の王は 李陵の武人としての器量を見、殺すのは惜しいと考え、自分の部下になれと迫る。

   李陵の話と平行して『史記』で有名な司馬遷の話が語られる。
   歴史の著述は、往々にして勝った側の論理で行われる事が多いが、史記はあくまでも中立・客観的な視点を崩さず、 更に登場する人物に血肉を通わせる事に成功している。そのような歴史の書を書いた司馬遷を掘り下げて紹介している。

   李陵は望郷するが、遂に果たせず異国に骨を埋める。

  ★ この李陵の話は、横山光輝氏がコミック版を出している。(全3巻)