王妃の離婚    佐藤賢一著     集英社刊    2001/12/ 

   15世紀末フランス、トゥールの町の教会でひとつの裁判が始まった。裁判の原告は、名をフランス王ルイ12世といった。 離婚を求められた被告ジャンヌ・ド・フランスとは、この国の王妃のことだった。
 刑事事件ではない、この時代の裁判の形式で「被告」と呼ばれても、ジャンヌ・ド・フランスは犯罪者という わけではなかった。どころか世評は正反対で、王妃は敬虔な信仰を持つ、地味だが善良な女として知られていた。

 王妃は先々代ルイ11世の娘であり、その夫はオルレアン公であったが、ルイ11世の跡を継いだシャルル8世に男子がなかったため、 幸運にもルイ12世の位が転がり込んだわけだが、離婚は新王が即位して、最初に着手した事業だった。
 ルイ12世は、政略的にブルターニュ公女アンナとの結婚を目論み、そのために22年間にわたるジャンヌとの結婚生活は 事実上はなかったと訴えたのだった。

 ■ 厳密に言えばカトリックの教義に離婚という概念はない。では、意に沿わない相手と永遠に別れられないかといえば、 そういうわけでもなかった。キリスト教徒は事実上の離婚として、「結婚の無効取消」という手続きに訴えることが出来た。 つまり初めからなかったことにする、という理屈である。勿論、これにはカノン法の定める正当な理由 (肉体的欠陥、強制による結婚など)が必要であった。
   裁判の傍聴人の一人フランソワ(主人公)は、パリ大学神学部で普通は6年かかる教養部をわずか3年で終了し、18歳の若さで マギステル(教員免許)、5年間カノン法を専攻し23歳で学士になったほどの英才だった。いまは47歳になるが、事情があって故郷のナントで 弁護士の職にある。
  (若いころは本当に放言ばかりしたものだ。俺は中途半端な生き方なんざ、まっぴら御免こうむるぜ。 学生として通用しないんなら、マギステルの資格になんかしがみつくものか。綺麗さっぱりセーヌ河び流して、俺は下世話な世間にまみれながら、 大泥棒にでもなってやる。
  それはカルチェ・ラタンに特有の心性だった。大学こそが世界の花形、学問こそが世界の至宝、他は英知の世界で 通用しなかった落伍者の受け皿なのだ。自分は選ばれた人間なのだという自惚れだった。)
 
   裁判は、検察(原告)側の周到な作戦に沿って進行し、ジャンヌ王妃は崖っぷちに立たされる。その時、
 「判事閣下、被告は新たに弁護士を立てて、抗弁を試みたいと申しておられます」
 「新弁護士とはどこにおられる」  被告席に問うたのは次席判事ルイ・ダンボワーズだった。
  −−俺のことなのか。    フランソワはきつく奥歯をかみ締めた。
  −−おれは権力をおそれているのか。    フランソワの目に澄んだ光が動いていた。瞬時にインテリの 炎が宿ったからである。
 「ヌム・アドウォカートゥス・ノーウス・エゴ(新しい弁護士は俺だ)」    フランソワは不幸な青春を、 今こそ取り戻そうとしていた。

 新たに弁護士となったフランソワは、叡智を尽くして検察側の論理を覆し、原告側を窮地に追い詰めていく。

 ★ 裁判の結果は果たしてどうなるのか、手に汗を握る展開にわくわくする本だ。
 プロローグに若い学僧フランソワと恋人ベリンダの逸話が語られる。フランソワが大学を追われた事件とは 何なのか、恋人ベリンダはどうなったのか、フランソワはなぜ田舎弁護士に甘んじているのか、などなど 裁判の進行とともに少しづつ謎が明かされていく。
 男女の機微は昔も今も変わらないと思うが、15世紀ヨーロッパ・キリスト教世界でどのように考えられ、 どのようなことが行われていたのか大変興味深い話が一杯書かれた本だ。 たとえば
 ・大学者トマス・アクィナスいわく、女は実存的な存在をしない。男に規定されているか、これから規定されうるか、 それだけの存在である。
 ・古代の哲人アリストテレスいわく、雌は形相を求めるように雄を求める。
 ・旧約聖書、創世記にいわく、イヴよ、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配する。

 ★ 「離婚裁判」に勝つためには、22年間1度もセックスしなかったことを客観的に証明しなければならない。 これは(その逆も)意外と難しいことだ。法廷における攻防は一見論理的なやり取りに終始しているようだが、 科学的?な証拠がない以上は、むしろ心理戦の様相が強い。(昔人気のあったTVペリーメイスンを思い出させる)。 検事側が苦労して積み上げた証言が、弁護士フランソワが指摘する新たな視点によって、 一気にひっくり返ってしまう場面はまことに痛快。著者の得意顔が目に浮かぶようだ。
 かなり分厚い本(381p)だが、読み始めたら面白く一気に読み終わってしまった。皆さんにもお勧めします。