ペルシャの幻術師     司馬遼太郎著  文春文庫   01/3/9

 久々に司馬遼太郎氏の作品を読んだ。「幻のデビュー作」という帯の言葉に釣られて買った本だ。
 内容は8つの短編集。司馬さんの軽快な語り口に時間を忘れて読みふけり、あっという間に読み終わった。

 ペルシャの幻術師
 西紀1253年の夏、ペルシャ高原のひがし、プシュト山脈をのぞむ高原の町メナムは、ここ2ケ月、一滴の雨にもめぐまれなかった。

 新月のまだ懸からぬ6月28日の夜、いまから1月前のことである。アラ山脈を超えて突風のようにやってきた蒙古兵が、メナムの町を 一夜のうちに鮮血の霧で包んだ。
 町の土侯とその兵は闘わずして遁げ、市民は、血に飢えた東方の蛮族の手で思うさま殺戮された。シナ北西部はおろか、遠く東ヨーロッパ まで征服した成吉思汗4世蒙哥(マング)が、その弟旭烈兀(フラーグ)に二十万の兵を授けて、史上有名なペルシャ攻略の緒に ようやくつきはじめたのである。

 蒙古の若い王マングとメナムの美姫ナン、そして王の暗殺を企む幻術師アッサムの幻想的な物語。
 (メナムの町はその後洪水で滅びて現存しない)

 戈壁(ゴビ)の匈奴 
 蒙古(モンゴル)高原の南、戈壁(ゴビ)のさらに南、黄河が大湾曲をとげるオルドス草原の河流を西へ離れた地で、英国考古学協会所属の 大尉が1個の玻璃(ハリ・ガラス)の壷を発見した。壷と言っても口径1メートルに余り、高さはゆうに人の身の丈を越え、中に入った 人夫が半身を折って仰臥するに足りた。
 この壷が何であるか、大尉の考古学知識のすべてを動員しても、用意に判断がつきかねた。

 物語は美女の多い西夏に憧れた成吉思汗・鉄木真(テムジン)が何十年にもわたり五度西夏を攻め、ようやくにして公女に出会う様子を 描く。
 エフィガム大尉の発掘した玻璃の壷は、その後、大英博物館に送られた。それが公女・李覗の浴槽であったかどうかは、なお確定していない。

 兜率天の巡礼
 奈良・太秦に残る大酒神社、兵庫県赤穂郡比奈・大避神社は、遥か古代・聖徳太子の時代に、ローマを追われたキリスト教(ネストリウス派)が 中国で「景教」として栄え日本にもやってきたものだとする、伝説を下敷きにした物語。大酒神社の3本足の不思議な鳥居のようなものがその証拠だという。

 下請忍者
 戦国時代の伊賀忍者の話。忍者はマネージャ級の上忍と下働きの下忍とに分れる。下忍はさらったり、もらったりしてきたまだ子供の男を 厳しく鍛えて忍者にしたもので、その身分は一生変わらない。修行がつらくて逃げ出したら、仲間が見つけて処罰するしきたりだ。

 与次郎も下忍の身分が納得いかず逃げ出した一人だった。

 そのとき、小屋の前の樗(オウチ)の樹の下の人だかりがざわめきはじめた。わら猿は起きあがって人垣のうしろからのぞくと、
 「おたちあい。呑馬(ドンバ)の術というのをしっているか」
 あっとおどろいた。与次郎である。
 「読んで字のごとく、これなる馬を呑む」 馬を指しながら、「わしが呑む」

 外法仏
 藤原氏と紀氏の競べ馬は、ここ4日にわたって藤原氏の白馬が負けつづけていた。
 僧都・恵亮は藤原氏側の僧侶として、護摩壇に座り修法を行っていた。護摩壇に座って経を唱えると、恵亮はすぐに忘我の境へ入った。疲れが 、声に鬼気を帯びさせた。鬼気は人をうった。堂衆たちは口々にうめくようにいった。
 「これほどの修法に、なぜ大威徳明王が感応しないのだろうか」

 ・外法頭とは、頭の鉢がひらき、目が両耳よりも下につき、あごが不均衡にすぼんでいる相をいう。

 牛黄加持
 仙洞御所(宮中)の女御の懐妊を成功させるため、密教行者の最高位・阿闍利が行うという「牛黄加持」の物語。
 なんだか、あやしくエロチックな話だ。

 飛び加藤
 上杉謙信に雇われようとした下忍・飛び加藤の話。
 いろいろと不思議な術を使い、その術のあまりの凄さにかえって雇うことを躊躇し、さらに敵方に雇われたら自分が危ないと考え、 飛び加藤を殺そうとしたが、術を使って逃げ出してしまったという。

 「しばらく。−−」 と、加藤はあらたまって謙信の座に向かって平伏し、「殺されてもよろしゅうござるが、 最期(いまわ)の思い出に面白い芸をお見せしたい」というなり、かたわらの酒器をとりあげ、しずかにそれを傾けた。
 一同はその手元を見た。酒がこぼれるかと思えば、ついに一滴もこぼれず、コトコトと音がして二十人ばかりの人形が転がり落ち、 またたくまにそれが一列にならび、手足を舞わせておどりはじめた。

 果心居士の幻術
 戦国期を通じて、飛び加藤ほどの名を残したその社会(忍者)の者は、あと一人しかいない。ここでいう果心居士がそれである。
 果心居士の事跡が、飛び加藤にくらべてややくわしく後世に伝えられている理由は、彼の出身が伊賀や甲賀の草深い田舎ではなく、 大和興福寺の僧堂であったためだ。僧侶は文字に明るい。旧知だった僧が、のちにかれのうわさを書きとめたものが、いくつか残っている。

 果心居士はインド人の血を引くものであったらしい。松永弾正や筒井順慶などともかかわり、最期は秀吉によって殺されたという。 (虚実雑談集)